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11・二つの記憶(2)



「………っ」


 失望したレティアが顔を背けた、それが合図だった。

 青年は拘束したか細い腕の内側に、そして首筋にとキスを落としてゆく。

 こそばゆいような刺激にくすぐられて身体が跳ねる。痛いほどにきつく目を閉じたレティアは背中を硬直させた。


 ──ねぇ、レティア。本当にこれで良かったの?


 閉じた目の奥に母親の顔が浮かんだとき、こらえていた感情と涙腺がとうとう限界を超えた。溢れ出す涙と嗚咽で息が上手く吸えない。


 胸の膨らみの上のボタンに触れたところで、青年の手が止まった。

 身体を起こし、目を伏せてレティアを一瞥する。


「そんなふうに泣かれては、その気も失せる」


 床に足を下ろして寝台から離れた彼は、窓際のスツールに向かった。

 両腕を解放されたレティアが躊躇いながら目を開ければ、青年の背中が脱いだシャツを羽織り始めている。


「……あ……の……っ」


 嗚咽を抑えながら起き上がると、マットレスの上に転がった麻袋が目に入った。お金を受け取っているのだ。このままでは終われない。


「ごめ、ん、なさい……」


 レティアは小さく呟き、背中を向けてブラウスのボタンに手をかけた。指先が震えている。涙で潤んでボタンを外そうとする手元さえよく見えない。


「ほんとうに……ごめんなさい。ちゃんと……しますから」


 ブラウスを肩からするりと落とせば、華奢な肩と背中が淡いオレンジ色の光の下にさらされる。

 身につけている下着に指先が触れるが、どれだけ嗚咽を堪えても涙はあとからあとから溢れ出て──それ以上は動かない指先と手の甲に点々と堕ちるのだった。


「もういい」


 唐突に、頭の上から声が降ってきた。


「契約は終了だ」


 ギシッとスプリングの音を立てながら、青年が隣に座る。

 剥き出しの肩にレティアのブラウスが掛けられた。


「はじめから本気で抱く気はなかった。もう何もしないから、泣かないで」


 元どおりの、柔らかな声が耳に届く。

 この変化がどういう事なのか飲み込めず、レティアは下を向いたまま幾度かまばたきを繰り返した。


「怖い想いをさせたな。だが気付いて欲しかった。娼婦の現実はこんなものじゃない。心も身体も傷つき、傷つけられる。性を売り物にする者たちにどんな事情があるかは知らない。だが……わずかな金銭のために自分を粗末にしてはいけない。それを伝えたかった」


 レティアは嗚咽と吐息を必死に吸い込んだ。

 涙も一緒に吸い込んだ。


「何か飲ませてやりたいが、ここには何もなさそうだな?」

「んぅ……どう、して……っ」


 それでもレティアは、ぐしゃぐしゃになった顔を上げることができない。


「……使い物にっ、ならなかった私なんかに、優しくしてくださるのですか」

「使い物?」

「はい……ろくにお相手も、できませんでした。殴られたって仕方がないくらい……私はどうしようもない役立たずです」


 青年はどこか悲しげに目を眇める。


 ──使い物にならないとか役立たずだとか、やたら自分を卑下して。しかし娘が、何故。


「どうして、って、そうだな」


 青年はちょっと考えるそぶりをする。


「人目を惹く美人だったから」

「……ぇ」

「ああ、いやッ。綺麗な女性が下衆な男のものになるのを見過ごせなかった、とでも言おうか」


 小首を傾げた青年の背中がくくっと微笑わらう。


「とんでもありません……キレイだなんて、そんな……っ」


 思わぬ言葉が青年の口から飛び出したので驚いてしまう。

 絹のように艶やかだった髪はすっかり傷んでいるし、疲労のせいで顔色も悪く恥ずかしい。


「身売りなんかしなくても、君のような人なら周囲が必ず手を差し伸べるだろう。その一人が、通りすがりの私でもいいんじゃないかと思ってね」


 ようやく顔を上げたレティアの潤んだ目に、青年の優しい笑顔が映る。


「君はもっと自分の価値を知るべきだ」


 出会ってすぐに見惚れた、深海の静寂を宿すあおい瞳がレティアを見つめている。

 射抜かれたように目が離せず、しばらく動けなかった。


「私の……価値……?」


 家族と共に、ただ生き抜くのに必死だった。

 赤の他人の優しさなんて、レティアはもう何年も忘れていた。かろうじて与えられたものは蔑みをはらんだ同情や、憐れみを伴った施しだけだ。


 自分を粗末にしている──そんなことは考えもしなかった。

 自分に価値がある、なんていうことも。


「身体を売ろうなんて、私……なんてことを」


 があったが、レティアの純潔は破られていない。

 絶望の淵に立ち、ほんのわずかな代金と引き換えに大切なものまで失うところだった。


 また嗚咽が上がってくる──「もう泣かないで」と言われたのに。




 * * *




「……ったく、殿下はどこに行ったんだ?!」


 王太子の従者二人は、人通りもまばらになった広場を見渡した。


「何かあったのだろうか」


 アイザックが案ずるも、マリウスは涼しい顔をしている。


「殿下に限って、なんかあることはないと思うけど」

「つまらんシャレを言ってる場合ではないだろう?」

「シャレじゃないし」

「城を抜け出して来ているのだ。ゲオルクの言い訳がどこまで通用するか。とにかく、あまり遅くなってはまずい」


 夜はすっかり更けて、千切れた雨雲の向こうには満点の星空が輝いている。

 約束の時間をとうに過ぎても、ラエルが戻ってこないのだった。


「どこに行かれたにせよ、必ずこの場所を通るはずだ。私はここで待機しているから、マリ、その辺りを見てきてくれないか」


 ロスフォール城下の中心に位置するこのストラウス広場は、主要な街道の全てが交わる要のような場所だ。


「なんで俺が? お前が行けよ!」


 アイザックが不機嫌そうに目を眇める。


「まったく……使えん奴だ」


 馬の手綱を引いて首頭を返したその時、路地の暗がりから浮き出るように白い馬の影が見えた。馬は見る間に大きくなり、こちらに向かってくる。


「どうやらお迎えの必要は無くなったようだな」


 間近に迫った白い影に向かってアイザックが手を振れば、


 ダダッ、ダダダッ……。


 馬のいななきとともに大きく手綱が引かれ、白馬の上のラエルが晴れやかな顔をして二人を見遣った。


「すまない、待たせたな!」




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