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10・二つの記憶(1)


 掴まれた手首から青年の手のひらの熱が伝わってくる。

 レティアの視界は、目の前を歩く広い背中と後頭部まできちんと整えられた髪に囚われたままだ。


 宿───……

 何が起こっているのか、これから何が起ころうとしているのか。


 このひとが私を買った。

 私はこのひとに買われた……?


 肩越しにレティアを見遣ったあおい双眸は思いのほか鋭く、先ほどまでの穏やかさは霧散していて、まるで別人を見るようだ。


 目の前がぼんやりと霞んで見える。

 名前も知らない青年に腕を引かれ、ただふらふらとついて行く。

 短い時間の中で多くの出来事がありすぎた。



 *



 モーテルの部屋は狭くて埃っぽく、小さなテーブルの上に洋燈がひとつあるだけで薄暗かった。

 閉ざされた狭い空間にいるのは若い男性と自分だけ。

 それだけでもレティアの不安と動揺を増幅させるのにはじゅうぶんだ。


 青年は懐から麻布でできた巾着袋を取り出すと、否応なしにレティアの手に握らせる。重量のある『硬貨』の感触が薄い布越しに伝わった。


「これ……って」

「君のの対価だ。あとで開けてみるといい」


 手のひらでゆっくり握りしめると、じゃらりと硬いものが擦れ合う音がする……いったい幾ら入っているのか知れないが、少なくとも五シックル以上はありそうだ。


「ぁ、のっ……」


 《身売りの対価》というものは果たして幾らくらいが妥当なのだろう。

 多すぎるのではないか、それにまだしていないのに、受け取って良いものなのかと戸惑ってしまう。


 麻袋を手のひらの上に乗せたまま動けずにいるレティアをよそに、青年は重厚そうなマントを肩から剥ぎ取ってスツールの背もたれに掛けると、見られているのをものともせずに着衣の上着を剥ぎ取った。

 薄いシャツの下には端正な顔立ちからは想像できないほどたくましい背中があって、初めて見た大人の男の裸体にレティアの鼓動が落ち着きをなくして狼狽える。


「何をしている?」


 レティアが動けないでいると、少し呆れたような表情かおをして歩み寄った青年が目の前に立つ。まるで壁のように大きな影が、威圧的にレティアにのしかかった。

 伸びてきた指先に顎を持ち上げられ、射抜くようなあおい瞳にレティアの視界がとらわれる。


「私は君の身体を買ったのだ。それがどういうことか、わかっているだろう?」


 燭台の灯火を映した青年の虹彩が炎のいろを宿して揺らめいている。自分のもこんなふうに揺れているのだろうかと、ふと思った。


 この美しい青年から見れば、自分はいったいどんな女に映るのだろう。


 ──初めて仕事をしようとしている、惨めな《売春婦》……。


 途端に恥ずかしくなって強引に顔を背けた。どこを見ていいのかわからず、視線を泳がせる。


「これは契約だ」


 突然に両脚が宙に浮いたので「あっ」と声をあげれば、真上に青年の顔があって、抱え上げられたのだとわかった。

 そのまま寝台に運ばれて簡素なマットレスの上に降ろされると、頭の上に手が置かれ、もう片方の手は耳元に添えられる。


「は……」と熱い吐息が耳にかかるのを感じて肩が跳ねた。

 レティアの身体に覆い被さる青年の顔は、息遣いがわかるほどに近い。鼻腔をくすぐる清らかながらもどこか甘美な香りは青年の色香だろうか。


 ──ああ……これから抱かれるのだ、この人に。


 ほぼ同時に柔らかなものが首筋に触れる。

 ぞくりと震えた背中がもたらしたのはこれまで経験したことのない奇妙な感覚……身体は冷え切っているはずなのに、腹の奥にじわりと熱が灯る。


『君が大人になったら迎えに行く。それまで待っていて。』


 目頭に熱いものがあふれた。

 辛くなったとき、何度もレティアを支えたこの声を、今だけは聴きたくなかった。


『私の妻になってもらえませんか』


 そして眼裏まなうらによぎる淡い記憶。

 今、この時に思い出してしまったのは何故だろう。


 ──私を抱こうとしている青年の瞳があのひとと同じ蒼色あおいろだから? あの日の大切な記憶を、心のかてを……私は自分の手でけがそうとしている。


 ──あなたの妻になりたくて。

 一度も男性に身体を触れさせたことなどなかった──が来るまでは。


 不意に怖気おぞけに襲われて、レティアの大きな瞳が裂けそうなほどに見開いた。

 覆い被さるのはではない。けれど禍々しい黒い手がぬるりと這い出して、レティアの恐怖心を引きずり出す。


「……ぃ、やっ!」


 のしかかる胸板を力任せに両手で押し上げ、怯えた目で青年を見据える。拳にしっかりと握られていたはずの麻袋がレティアの手から離れ、マットレスの上を鈍く転がった。

 けれど秀麗な面輪は呆れたように溜息を吐き、額に落ちた髪を掻き上げながら冷ややかに言う。


「面倒な女を買ってしまったな」


 強烈な雄の色香を放つ鋭い視線が刺さり、強い力で両腕を頭の上に拘束された。

 驚いてあっと声が漏れる。

 片手だけでレティアの両腕を掴んでいるというのに、振り払おうともがいても彼の右腕は少しも動かない。レティアの全力の抵抗なんて青年にとっては意味のないものだ。


「娼婦は男を悦ばせこそすれ、抵抗などしないものではないのか?」


 あおく鋭い眼差しは毅然きぜんとして、感情を微塵も表さない。

 レティアの額に、じわりと冷たい汗が滲んだ。




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