「なんだ、おまえ?!」
「お楽しみ間際に悪いが、その娘は私のものでね」
レティアを後ろから片手で抱きすくめていた小柄な男が大声を張り上げるが、ローブの男の口調は落ち着き払っている。
「なんだと?! バカ言うんじゃねぇ。こいつはさっき俺が、そこの広場で買ったんだよ!」
「いや。おまえが買う前に、私が買っていたのだ」
ローブのフードを深く被っているので、顔は鼻から下しか見えない。けれど男がローブの裾から出した手のひらには——銀色の小さな包みがひとつ乗っていた。
レティアのうつろな瞳に銀色の塊が映る。
気付けば羽交締めにされていた腕を力一杯に振り払い、ローブの男に向かって走っていた。慌ててローブの背中に隠れ、震えながら身を堅くする。
「おい、おまっ?! ひとの女を横取りしやがって!」
薄汚い男がローブの男に飛びかかる。けれどひらりと交わされ、勢い余って石畳の地面に盛大に倒れ込んだ。
薄汚い男は激痛に顔をしかめたが、ローブの男は何事も無かったふうに静かに佇んでいる。
「……こいつ!! も、もう手加減しねぇからなっ」
ローブの男の余裕さに苛立ちを募らせたのか、薄汚い男が勢いづけて殴りかかるも、逆に腕を取られ後ろにぐいっとねじ伏せられた。これで完全に身動きの取れなくなり、ローブの男の腕の下で苦痛に顔を歪ませる。
一方は長身で体格の良いローブの男。
対する薄汚い男は哀れなほどに華奢で小柄だ。ローブの男が優勢なのはどう見ても明らかだった。
「くっ……」
「悪いが、このまま大人しく諦めたほうが身のためだ」
捻じ上げる腕に平然と力を込めながら、フードから覗かせる口元に微かな笑みさえ浮かべている。薄汚い男は礫然とした力の差と体格差に怯んだのか、
「──くそっ、覚えてろよっ」
お決まりの捨て台詞を吐いて力任せにローブの男の腕を振り払い、背中を向けて路地裏へと走り去った。
小さくなっていく背中を見送ると、ローブの男は被っていたフードを両手で下ろし、やれやれと言いたげに息を吐く。
「あいつはもう行ったぞ」
頭の上から降ってきた声に気づいて、ローブの男の背中に縋っていたレティアが顔を上げれば──あの涼やかな
*
王都の城下街には幾つもの大きな広場があり、そこを中心として方々に延びた細い路地や街道が、建造物の合間をぬうように街を繋いでいる。
ここもかつては夜でも賑わう商店が栄え、人々の往来も激しかったが、先代の王の失政で衰えた街並みは見る影もなく人もまばらになり、今では小さなバールや崩れかけたモーテルが点在しているのみだ。
「で…──。あの男は君を幾らで買ったんだ。納得のいく金額を提示されたのか?」
レティアの隣を歩きながら青年が言葉を投げる。
浅い呼吸を繰り返し、うつむいて黙ったままのレティアに……少しも目を向けようとせず、そして幾分呆れたように。
「君が望むような金額を、あの男が支払うとは思えないな」
頭の良い馬は、場の空気も察するのだろうか。青年の愛馬は手綱を引かれながら時々ブルンと鼻を鳴らし、大人しくしている。
広場に面したモーテルの前に、赤い派手なワンピースを着た中年の女が立ち、道行く男たちに艶目を使う。この辺りで稼ぎを取る『本業の』売春婦だ。
レティアたちが通りがかると、女はレティアと美しい白馬を連れた青年をジト目で見定める。
「あんた! そう、そこ歩いてる女。見ない顔だね、ちゃんと
モーテル街を歩く粗末な身なりのレティアは、『客』を得て商売場所を探す
「許可がないなら、その男。あたしに寄越しな!」
青年は眉を顰めて売春婦を一瞥し、野次から
「………っ」
売春まがいのことをしようとした。その事が胸に重くのしかかっており、レティアは体を固くして唇を強く噛み締める。
どんな窮地に陥っていても育ちの良さだけは奪えない。富豪の令嬢として育ったレティアの、なけなしの矜持がそうさせていた。朦朧としていたとはいえ、あんな行動を取ってしまった自分が恥ずかしくてたまらない。
「もう一度聞こう。あの男は、君を幾らで買ったんだ?」
声色こそ穏やかだが、初めて会った時とは違って、青年の一言一句がレティアの耳に重く届いた。
「………」
手のひらに握りしめていた五シックルを、おずおずと差し出す。
それを見て青年は目を閉じ、浅く息を吐いた。
「その金額が、君のような若い女性一人ぶんの価値だとは思えないが。まだこっちの方がマシだな!」
青年は笑顔でそう言うと、薄紙の小さな包みを放り投げ……片手で受け止めた。
「空腹なのだろう? 食べていいよ。なんなら持って帰って」
「でも、こんな高価なお菓子……っ」
「いいから」
チョコレートの包みが乗った手のひらをすっと差し出されたので、レティアもおずおず手を伸ばす。食べ物の話をしたからか、なりをひそめていた空腹がまた暴れ始めて……レティアの腹部がくくっと音を立てた。
「いやだ、また………っ」
青年は先ほど他の男とやり合っていたとは思えない、穏やかな眼差しで微笑んでいる。
「腹の足しにはならないかも知れないが、食べれば?」
「いっ、いいえ……あとで……いただきます」
言いながら、頭には弟のルカの顔が浮かんでいた。チョコレートなんて持って帰ったら、甘いものが大好きなルカはどれほど喜ぶだろう。
「弟に……いただいて帰ります。明日は弟のお誕生日なので、弟にあげます。本当に……有難うございます」
小さな包みを大事そうに受け取ると、レティアはペコリと頭を下げた。青年が、驚いたふうに目を丸くする。
「誕生日……そうか。もしもまた会うことがあったら。その時は、君の弟が喜びそうな菓子をたくさん用意するよ」
また会うことがあったら。
そんな日が来るはずが無いのを、レティアはよく知っている。青年もまた、同じであろう。
そもそも青年がチョコの話を始めたのはレティアの恐怖心を落ち着かせるためで。手渡したのはレティアの空腹を知ったからで。優しく微笑んでくれたのも、レティアの沈んだ心を察したからで……。
高価な薄紙に包まれた塊が乗った手のひらから、あたたかさが満ちていく。固くなったレティアの心がゆるゆると溶かされていく。
「ありがとう……ございます」
出会ったばかりだというのに、素性も知れない赤の他人なのに。
見ず知らずの青年の言動は、出会ったその瞬間からレティアに対する優しい
久しぶりに感じた「人」の優しさに、
「お金が必要だと言っていたな」
堪えても目頭に滲む涙を指先で拭いながら、レティアは小さくうなづいた。
「は、い」
「見たところ、客を取ったのは初めてのようだが?」
青年は、とある古びた教会の前で立ち止まった。
そしてレティアと向かい合い、
「君の商売の邪魔をしたつもりはない。私は確かに、君を買ったのだ」
「……ぇ…?」
言葉の意図がくみ取れず、青年を見上げる。
「行こう。そこの裏通りに宿がある」
青年は足早に歩いて行く──レティアの腕を、強引に引っぱって。