「……陛下がお呼びだと?」
接見を終えたラエルをゲオルクが呼び止めた。
謁見の間を出ると、ラエルはおもむろに礼服の首元のホックを外して寛がせる。数時間にも及ぶ接見に、流石のラエルも秀麗な面輪に疲労の色を滲ませていた。
「はい。取り急ぎ殿下に御意を伝えたいと仰せです」
老いたラエルの父は現役の王であるが、すでに政務の一線から退いている。
急ぎの用とは何だろうと、ラエルは眉をひそめた。
──城下の火災に関してだろうか? そう言えばその事について、陛下とまだ何も話をしていなかった。
火災の被害の調査に進捗はない。
偵察のための第一派を送った時は町中が混乱を極め、焼け出された人々の救援で精一杯だったと聞いている。
「ゲオルク。陛下にお会いしたら、ウィルバートとの接見内容をお伝えしようと思う。陛下のご意見が聞きたい」
「ウィルバートと申しますと……ああ、城下担当の老院ですな? 広範囲に建物が損壊し、孤児や住むところを失った多くの者が行くあて無く彷徨っていると」
「うむ。国としては一刻も早く、緊急の措置を取らねばなるまい」
ラエルは足を早めた。王宮の中でもいっそう警備が厳重な場所を抜ければ、その奥は国王と王妃が居住する別棟だ。
国旗にも描かれるグリフォンの繊細な彫刻が施された、両開きの扉が重々しく開かれる。その奥にも同じ扉があり、両側に控えている侍従二人がラエルの姿を認めて拝礼し、扉の奥へと案内した。
「王太子殿下が来訪されました」
明るい広間の中央に置かれたカウチにどかりと腰を掛け、呑気にお茶を飲んでいた国王と王妃は、ラエルの姿を見るなり驚きに目を丸くした。
「ラエル!? 何故ここにいる……!」
驚いたのはラエルの方だ。
入り口に近い場所で拝礼したが、すぐに視線を上げた。
「父上が私をお呼びになられたのでは?」
「確かに呼んだ。だがもう一時間も前だぞ。それにそなた、今何時だと思っておるのだ!」
十六時十八分でございます、と、脇に控えていた侍女がすかさず答える。
「おお……」
国王と王妃はふたり揃って悲嘆の声を漏らす。「まぁ」と呟いた王妃が心配げに眉間に皺を寄せた。
「儂が先ほど呼んだのは、そなたにちゃんと夜会に出るよう命じるためじゃ。今朝アーナスがわざわざここに来てな。潤んだ目で……今宵、もしそなたとともに踊り場に立てなければ、披露目に呼んだ友人たちに顔が立たないとな。だからアーナスがそなたのエスコートを受けられるよう、儂から直々に頼んで欲しいと訴えてきたのだ」
ラエルは──呆れてぽかんとしていた。
「可愛い妃候補の頼みごとを儂が断る理由もあるまい。さぁそんな場所に突っ立っておらんで、早くアーナスの処へ行ってやるが良い!」
「しかし父上……。私からも父上に緊急のお話があって参ったのです」
「くそ真面目なそなたのことだ。差し詰め接見の議事についてか何かであろう? そんな話はあとでよい。とにかく早く行け。これは命令じゃ!」
思いもよらなかった国王の発言に、ラエルは落胆のあまり肩を震わせる。
「……父上は民衆の痛みよりも、夜会が大事とおっしゃるのですか」
「何だと?!」
ラエルの握りしめた両拳にぐ、と失望の力が込められる。
「失礼します」
そしてマントを
息子の苛立つ背中を見送った国王もまた唖然と口を開ける。鼻をならして憤慨するのを、王妃がそっとなだめた。
「何だ、
「陛下があまり口出しされるのも良くありませんわ。特にアーナスとの事には」
* * *
大広間は騒めきたち、招待客たちの注意は大階段の上の青銅門に注がれていた。
時間はとうに過ぎているというのに、主役の二人がまだ現れないのだ。
「アーナス様のご用意が長引かれているのかしら」
「わたくしだったら、どんなにおめかししても足りませんもの」
「ああっ、ラエル殿下……本当に結婚されておしまいになるのね。こんなにもお慕いしておりますのに」
令嬢たちの涙声を横目で聴きながら、マリウスはマスカットを一粒、口に放り込む……これも警備の一端だ。
「殿下はやっぱり間に合わなかったかぁ。これだけ引っ張っておきながら、出て来たのがアイザックだったら? あの令嬢たちは激怒だぞぉ……。まぁそれはそれで面白そうだけど!」
マリウスが二個目のマスカットをつまみ上げたとき、けたたましいトランペットのファンファーレが鳴り響いた。
「ラエル・ザントライユ殿下、アーナス・ヴィクトロワ・デマレ王女殿下の御成りでございます」
ざわめきが瞬時に膨らみ、全ての視線が大階段の上に注がれる。
「……チッ。俺の予想は外れたか」
マリウスはまるで面白いものを見そびれたとでも言いたげに舌打ちをした。
大広間の一端に、大理石の床に真紅の絨毯が敷かれた大階段がある。
『ロスフォールの
王族のエスコートのもとでこの大階段を降りるという事は、大国アスガルドの王族縁者との婚約を
皆が固唾を飲んで見守るなか、青銅門の扉がゆっくりと開かれる。
重厚な盛装に身を包んだ大国の王太子。
そのエスコートを受けるのは、深いブルーのドレスを纏ったアーナス姫。
「殿下のご礼装、素敵ね……」
「アーナス様のお衣装を見て! あんなにキラキラ輝いて、あれはきっとダイヤよ?」
「あんな素晴らしいドレス、見たことありませんわ……」
嫉妬と羨望が入り混じった令嬢たちの視線とため息。
その全てを一身に受け、アーナスはこれ以上ないくらい得意げな顔をした。ラエルに手を引かれ大階段を降りながら、歓声に沸く広間を見下ろす。
そしてアーナスの足元を気遣いながらも、慣れた所作で階下に会釈するラエルに視線を移した。
──ラエル殿下はわたくしのもの。
もう誰にも渡さない……殿下の愛も地位も、富もみ〜んな、わたくしのものっっ。
満面の笑みを湛えたアーナスの隣で、ラエルがとりわけ厳しい表情でいることに誰も気付きはしなかった……近衛副隊長のマリウス以外は。
──あの傲慢なお姫様と歩くのが嫌なのはわかるけど、殿下のあの殺気っ! 何かあったのかな。
広間に降りると、アーナスには友人たちからの質問攻めが待っていた。
「……ええ、そうよ。今日のために特別に仕立てて頂きましたの。素晴らしいでしょう?」
「センスがよろしいのね。見惚れてしまいますわ」
「ねぇ、ラエル殿下との日々はどんな感じですの?」
「見つめあったり、抱きしめられたり……。ああ、わたくしなら、あの繊細な指先に触れられただけで気を失ってしまいそう」
アーナスはこれ以上ないほどの得意顔で、友人たちからの質問に応じている。
「殿下はおやすみ前にお酒を召し上がるの。そしてわたくしを、甘い言葉でお口説きになって……いやだ、これ以上は恥ずかしくてとても言えませんわっ」
──ったくあの小娘ときたら。
虚言癖の他に
アーナスの様子を少し離れた場所で確かめながら、マリウスがマスカットを口に放った時、不意に誰かに呼ばれた気がした。
「マリウス、聞こえないのか」
慌てて振り向けば、
「でっ、殿下?!」
マリウスを見下ろすラエルは、先ほどと変わらず険しい面持ちをしている。
「はっ、何か……」
「ここを出るぞ」
「出るって、今入ってきたとこじゃないですかぁ」
「いいから着いてこい」
くるりと踵を返してラエルが行ってしまうので、マリウスも仕方なく後を追った。
アーナスは——自慢話に夢中で、ラエルが場を離れたことに少しも気付かない。
「アイザックを待たせてある」
大広間を出たラエルは足早に歩きながら言う。
「外出ですか」
「ああ、城下に降りる」
「ええっ、今から?!」
「ああ、今すぐにだ」
「その格好で?」
「嫌ならお前だけ置いていく」
盛装の長いマントと上着を肩から剥ぎ取り、歩みを止めないまま回廊脇のコンソールの上に無造作に置く。
「待たせたな」
ロータリーの馬車寄せには三頭の馬が用意されていた。薄汚れたグレーのローブをアイザックが手渡してくる。
「──…このローブ、いつ見ても汚いよなぁ。新しいのを買わないんですか」
ローブの端っこをつまみ上げながらマリウスが毒づけば、
「城下に忍びで行くのには、このくらい汚れていた方がいいんだよ」
ローブのフードを被ると、ラエルはそう言って彼の美しい愛馬に揚々と跨った。
「相変わらずデカいな、アレクサンドラのやつ。またデカくなったんじゃないですかぁ?」
「お前の背が縮んだんじゃないのか」
マリウスとアイザックの掛け合いを聞きながら、頬を緩めたラエルは愛馬の喉元を優しく撫でた。
「我々が街に降りることを、念の為ゲオルクに伝えてあります」
「ああ。相変わらず気が利くな」
雲間から覗く月明かりのなか、城下へと続く森の道を三頭の馬が駆けていく。
夜の闇を切り裂くように、ラエルはまだ見ぬ光に向かって走るのだった。