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6・ロスフォールの困惑

 アーナスがそう言うも、ラエルは日々を小刻みの山のような政務に追われている。近日はおろか少し先の予定など把握できるはずもない。


 こうしたアーナスとの時間も、遠い自国から一人きりで後宮入りした彼女に寂しい思いをさせてはと、国務長官との間で話し合って無理に捻出しているのだった。

 そんなラエルの気持ちなどアーナスが知るよしもない。


「まぁ、構いませんわ。それはともかく……今夜の夜会にはいらしてくださいね!? あなたがエスコートしてくださらないと、わたくしは一人きりであの『大階段』を降りなければならないわ」


 ──六時に、必ず!!


 強い口調で何度も繰り返すので、ラエルは辟易してしまう。


「前にも伝えたが、このあと重要な謁見があるんだ。六時の夜会に私はきっと間に合わない。だからアイザックにエスコートを……」

「イヤですッ!」


 今度はラエルの言葉を遮って叫ぶ。

 王太子に対してこのような無礼は許されるものではないが、当人のラエルはあまり気にしていない。


「殿下は……あのような近衛に、わたくしのエスコートをさせるおつもりですか?!」

「アイザックは公爵家の枝縁だ。問題はなかろう?」

「殿下でなければいやですっ!」


 唇をギュッと噛み締めてうつむく婚約者を、ラエルは労るように見遣った。否応なしに「ふぅ」と落胆の吐息が漏れてしまう。


「アーナス……。今日は単なる『夜会』だ。国王主催の舞踏会で君との婚約を正式に発表する。二人でを降りるのはその時にしないか?」


「いやです。夜会には大切な友人ばかりを招いておりますのよ? 友人達は、わたくしが殿下と一緒にあの素晴らしい大階段を降りるのを楽しみにしているのです」


「何度も言うが私は間に合わない。君だって招いた友人を長く待たせるわけにはいかないだろう?」

「殿下とでなければ、イヤですのっっ!」


 ラエルはウンザリした。

 妻を娶るというのはその者とともに生きる事であり、単に一緒にいれば良いというものではないと思うのだが、蝶よ花よとかしずかれ奔放に育ったアーナスには想像にも至らないのだろう。


 ──結婚など煩わしいだけだ。


 ぬるい湯気を立てる琥珀色の液体を、ラエルは勢いに任せて喉元に流し込んだ。




 茶会後はそのぶんの皺寄せが待っていた。

 疲れ切った表情でざっと身支度を整えたラエルが自室を出ると、彼の執事が懐中時計を睨みながら今か今かと待ち構えている。


「遅くなってすまない、ゲオルク」

「十三分です。また遅刻ですぞ殿下。各州から集まった面々が首を長くして待ち侘びているというのに」


 王城を二つに分断する幅広い廊下の中央を二人は小走りに進んで行く。

 広大な城内を端々まで移動するのには軽く走っても十数分はかかる。時々すれ違う侍女達が立ち止まっては、ラエルに深々と礼を取った。


 若い主君に負けまいと頑張ってはいるものの、後ろで息を弾ませながら必死で送れまいとしているゲオルクの年齢は、もはや六十も半ばに差し掛かる。


「ゲオルク」


 回廊の中央でラエルが突然立ち止まったので、老齢も近い彼の執事は驚いて丸眼鏡の奥の双眸を白黒させた。


「……何です?」

「せっかちな重鎮方も私の顔を見れば沈着するだろう。だからそなたは、ゆっくり向かうといい」

「何を仰せです。老いぼれたとはいえ、このくらい平気でございます」


 とは言いながらも、はあはあ息を弾ませながら額の汗を必死で拭っている。

 ラエルは柔らかな視線を向けると、形良い口元を弓形に綻ばせた。


「大事な執事に無理をさせて、あとで寝込まれては困るからな?」


 肩越しに微笑むと、ラエルの背中は執事を置いて見る間に遠ざかり、突き当たりの角を曲がって見えなくなってしまった。


「まったくあの方ときたら。一国の王となる者は、周囲を押しのけてでも頂点に立つほどの傲慢さがなければと長年お伝えしてきたつもりだが……。ご幼少の頃から何も変わっておられないのだから」


 ラエルの行動に少々あきれながらも、ゲオルクの表情は満足げだった。


「それにしても……昔は殿下が私の後ろを必死で追いかけて来られたものだ。あれからはや二十年。私も歳をとるわけだ」


 ゲオルクは遠い目をする——ラエルの育ての親とも言える老いた彼の双眸は、まるで息子を慈しむ時のそれと同じだ。

 妻子を持たないゲオルクにとって、ラエルは生涯仕える君主であると同時に、かけがえのない息子そのものであった。



 * * *



 ラエルが神妙な面持ちで議論を繰り広げていた頃。

 階下の大広間では、盛大な夜会の準備が着々と進んでいた。


 いつの間にか雨はやんで、ぼんやりと霞がかった月が顔を出している。

 午前と夕刻の王室接見が二件ぶんと夜会の招待客とで、王城の馬車寄せは馬と人とでごった返していた。


 馬車寄せのロータリーからは、バルコニーに面した大広間に直接入ることができる。

 接見を終えて王城を出ようとする者たちと入れ違いに、夜会へと向かう貴族が続々と馬車を乗り付けていた。


「おーおー、こりゃまた凄い馬の数だぜ。うじゃうじゃと気持ち悪りぃ!」


 栗色の癖毛の下の青い双眸を凝らし、まるで面白いものでも見るように額に手を当てている青年はマリウス・リュシアーノ。


「おいマリ、サボっていないでちゃんと見張れ!」


 そして、長身で体格の良いアイザック・クライトン──グリーンの双眸と整えられた濃紺の髪が彼を落ち着いた風情に見せている── が、庭木を突いていた剣の鞘でマリウスの尻を叩きあげた。


「痛っっっ! 尻の骨が折れた!」

「馬鹿、こんなことで折れるか。それより不審な輩がいないか、ちゃんと見張っていろ。もうすぐ夜会が始まるのだぞ?」


 この二人は王太子ラエルの近衛隊長と副隊長──役職としてはそうなるが、王城内でラエルを『守る』という行為は無意味だ。

 ネズミ一匹逃さぬと名高い王城の警備のもと、彼ら二人が身を守るべき王太子本人は彼らに勝る体術と剣術の持ち主である。


「でもさぁ、あのアーナス嬢。城下の火災で民衆の心が冷え切ってるって時に、よくこんなパーティー開く気になるよなぁ?」


 マリウスが口を尖らせるのを、


「仕方ないさ。アーナス様はまだ正式に妃殿下になられたわけじゃない。王都の状況などわかっておられないのだ」


 アイザックがマリウスの手から双眼鏡を取り上げる。


「……って言うかぁ、単に殿下と一緒に大階段を降りたいだけじゃないの? だいたい殿下が甘やかしすぎなんだよ!」


 今度はマリウスが双眼鏡を取り上げた。


「マリ! いつも言っているがお前は口が過ぎる。ほどほどにしないとそのうち首が飛ぶぞ」


 夜会の開始時刻が迫り、広間周辺はいよいよ華やいだ賑わいを見せる。宮廷楽団の控えめな演奏が風に乗って耳に届いた。

 夜会のために着飾った令嬢たちがお喋りに花を咲かせながらロータリーから広間へと入って行く。きつい香水を漂わせながらすぐそばを通る者もいて、マリウスは顔をしかめながら鼻腔を摘んだ。


「そういえばアイザック。おまえ、そろそろ着替えなくていいのかぁ?」


 双眼鏡を指でくるくる回しながらマリウスが言う。


「何のことだ」

「なんのって……夜会の」


「何故、私が夜会の着替えなど」


 言いかけてハッと息を詰める。


「なんだよー、忘れてたのかぁ? 殿下は確か六時までにアーナス嬢を迎えに行くようにって、言ってたは……」


 マリウスが言い終えないうち、大広間の巨大な柱時計が城中に響き渡るほどの大音響で《ボーン!》と六時の時報を打った。


「マリ、すまんが後を頼むッ!」


 唐突に駆け出したかと思えば、アイザックは見る間に王城の入り口へと消えてしまう。残されたマリウスは、はぁーっと大きく息を吐いた。


「まったく気の毒な奴だよ、よりによって殿下の代役でアーナス嬢をエスコートする羽目になるなんて。しかも遅刻ときた……でも待てよぉ、あの自己中なお姫様に恥をかかせるいいチャンスかも? 俺だったら大階段で思いっきり足を引っ掛けてやるけど!」




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