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5・ラエル・ザントライユ・アスガルド 〜悩める王太子


 ──時は、数時間前に遡る。


 朝から降り続いた雨は、いつの間にか小雨に変わっていた。


 豪奢な馬車が次々と階下のロータリーに着けられるのを、ラエルは伺い知れない表情で見遣った。

 窓際を離れ、桜の木肌であつらえた肘掛け椅子にゆったりと腰掛ける。居室はいつでも明るい光で満ちていて、特に王都一帯を眼下に一望できる窓際はラエルの気に入りの場所だ。


 湿気を含んだ重い空気のせいなのか、それともラエルの心境を映し出しているのか。目に映る景色は暗く暗澹と沈んでいる。


 雨は時折激しく降っては、開け放たれたバルコニーの窓辺へと吹き込んで、部屋に敷き詰められた濃紺の絨毯を湿らせた。


 肘掛け椅子を離れ窓辺に立ったラエルは腕を組み、静かに目蓋を伏せる──これで良かったのだろうか。一度決めたことは覆さないという彼の意向に反して、迷いにも似た感情が胸の奥底から込み上げて来る。


「畏れ入ります、王太子殿下。アーナス様がいらっしゃいました」

「……ああ。入れ」


 柱時計が三時の時報を打つのとほぼ同時に侍女の声がして、部屋の中央にある両開きの扉が重々しく開かれた。

 三人の侍女を従えて入室してきたのは黒灰色の髪の美しい女性、アーナス・ヴィクトロワ・デマレ。


「ご機嫌麗わしゅうございます、ラエル殿下。ほら、あなたたちはさっさと下がって! お茶くらい自分で淹れられるわ」


 アーナスが一喝すると、侍女たちはティーセットを乗せた銀製のワゴンを室内に運び入れ、一礼をしてそそくさと退室して行った。


「今日はあなたのお好きなミントとアプリコットのお茶を用意して参りましてよ。さあ、こちらへ」


 にこやかに微笑んで、まるで特別な場所にでも誘うかのようにラエルの腕を取る。

 艶やかな漆黒の髪を美しく結い上げ、目が覚めるような深紅のドレスに身を包んだアーナスの、ゆったりと優雅な身のこなし。

 そのままラエルの手を引いて、部屋の奥に置かれたカウチに座らせた。


「今日の菓子はミセス・ノリスに依頼して作らせたものですの。殿下のために特別に用意させましたのよ?」


 今日のアーナスはやけに機嫌が良いようだ。

 彼女の笑顔が夕刻から催される夜会に由縁しているのには察しがついていて、そのことがラエルの気持ちをより一層陰鬱にさせた。


「ミセス・ノリス……帝都一の菓子職人だね」


 爽やかな香りを漂わせる紅茶をすすりながら、ラエルの眼裏には多忙な菓子職人に傲慢な権威を振りかざしながら無理強いをするアーナスの姿が浮かんでいた。


「ええ。殿下はお忙しくて常にお疲れでしょうから。疲れを感じた時は甘いものを召し上がるのがいちばんです」


 口元に僅かな笑みを浮かべたラエルと目が合って、アーナスは頬を真っ赤に染める。我儘がすぎるこの姫君にもこういう可愛いところがあるにはあった。高慢なところも彼女の身分と育った環境によるもので、アーナス自身に罪はない。


「……そうだな、有難う」


 大国アスガルドの中核をなし、『白鷺しらさぎ城』の異名を持つ壮麗で絢爛豪華なロスフォール城である。

 広大な敷地に居住する千人を越す者たちの中でも、ほんの一部の者しか入室が許されない王太子の居室『鳳凰の間』で婚約者とのお茶をいるのは── ラエル・ザントライユ・アスガルド。齢二十六にして国家の政治・軍事の全権を預かる最高権力者だ。


「夢のようですわ」


 ティーカップに流れ込む琥珀色の液体には、真っ白な湯気とともに甘い香りが立ち昇る。


「あと数ヶ月もすればあなたの妻になれるなんて。わたくし、もう嬉しくて。王城ここに来てからというもの、ろくに眠れませんのよ?」


 まだ少女の面影を残したアーナスは、ラエルの物憂げな横顔を甘えるようにうっとり見上げている。歳が十近く離れた十七歳のアーナスを、ラエルはまるで妹を案じるような眼差しで見遣った。


「これからは国の運命を私とともに背負う事になる。君にその覚悟ができるかな」


 ラエルの心配とは裏腹に、アーナスは深いルビーレッドの瞳を輝かせる。


「わたくしと殿下は運命共同体ということですわよね? ご心配は無用です。わたくしは幼い頃から王室に嫁ぐ者としてこの命を捧げる覚悟でおりますわ。心配なのは……そういう事ではありませんの」


「では何を案じているのかな」

「あなたをお慕いする姫君は星の数ほどいますのよっ。来年の正式な婚礼までに誰かのを買って……わたくし、命の危険にさらされるかも知れませんわ」


 ティーカップを口元に運びながら、ラエルは「大げさだな」と笑ってみせる。


「そう言えばっ。面白いと評判の寄席を開く魔導師一座が城下に来ているそうですの。わたくしも是非一度そのお芝居を見てみたいわ……。ねぇっ、近々お忍びでご一緒してくださらない?」


 アスガルドと交友の深い国々の選りすぐりの姫たちの中から、ラエルの王太子妃候補に相応しい女性として選び抜かれたアーナス。半年後に控えた婚礼を前に王太子妃としての特別な教育を受けるため、王城に入った。

 何不自由なく甘やかされて育った彼女はワガママで、いくら懐が広いと言われるラエルでもさんざん手を焼いている。


「うむ……。では、来月の初めにでも時間を作ろう」


 《来月》と聞いたアーナスの猫目が瞬時に吊り上がる。


「そんな曖昧な答えでは納得がいきませんわ! 具体的にお時間をくださるのか。それを聞かないうちは、わたくし下がりませんわよ?!」





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