地面にへたり込んだまま意識をしっかりさせようとすれば、視界が霞むなかでぼやけていたものがだんだんはっきりと見えてくる。
青年のグレーのローブは少しばかりくたびれていたが、ローブがはだけたところから銀糸の刺繍が施された豪華な衣服の襟元を覗かせていた。
──貴族……?
「顔を上げて」
青年はそう言い、レティアの両肩を抱え起こす。
視界に飛び込んできた涼やかな眼差しに思わず息をのんだ。
深海を思わせるコバルトブルーの瞳は限りない優しさを秘めていて、それでいて眼差しは強く凛々しくて。左右対称の整った面立ちは端正というよりも美しく、けれど女性にはない雄々しさがある。
その瞳に見つめられれば誰もが恥じらってしまうだろう……レティアの胸が、突然に甘やかな鼓動を打ちはじめたように。
夜風に揺れる青年の柔らかな髪も、聡明そうな眉も引き結ばれた口元も……レティアの心を強く惹きつけた。脈打つようにじんじん痛む手のひらのことなんて忘れてしまうほどに。
「怪我は無さそうだ」
青年はホッとしたように頬を緩ませると、
「それにしても派手に転んだな!」
と言って穏やかに笑った。
「立てる? 手を貸そう」
青年の一挙一動のスマートさに茫然と見惚れたまま、レティアがゆっくりと立ち上がろうとしたその時。
──クウッ。
空腹が更に底をついた腹が申し訳なさそうに鳴った。
あっ、と両手でみぞおちを押さえたけれど……なんというタイミングの悪さだろう。空腹なんてこの瞬間まで忘れていたはずなのに、目の前の美しい青年にそれを知られてしまうなんて!
「………っっ」
すっかり恥ずかしくなって
なんとも言えない沈黙が二人の間にやや流れた。
その沈黙を破って青年はフッと微笑めば、僅かに上を向いて「そういえば」とローブの懐に手を入れる。そして一粒の小さな包みを取り出すと、レティアの目の前に差し出した。
レティアは青年の手のひらにちょこんと乗っかっている銀色の丸い包みに視線を落とし、それからもう一度、不安そうに彼の顔を見上げる。
「いいから開けてごらん」
青年の二つの瞳が幼な子を見るように優しくほころんだ。
躊躇いながらも受け取って光る銀箔をそっと開くと、つるんとした茶色の表面が薄紙の中から顔を出し、甘い香りをほのかに漂わせる。
「こんなものしか持ち合わせていないが」
「これは……」
甘くほろ苦いチョコレート。
──ああ、なんて懐かしいんだろう。
レティアがまだ裕福だった頃、大好きだったお菓子。
父とともに過ごした幸福な日々が目に浮かんで、泣き出しそうになってしまう。
「遠慮せず食べるといい。それともチョコは嫌い?」
「いいえ……。世の中にこれほど美味しいもの、他に無いわ……」
レティアがそれを見つめたまま動かないので、青年はちょっと間を置いてから、また朗らかに笑った。
「大丈夫だ、毒なんか入ってないから」
青年の言葉に促され、茶色い小さな塊をそっと口に含む。
チョコレートの甘さとほろ苦さが口の中いっぱいに広がって、たちまち幸福な気持ちが押し寄せた。
「美味しい……」
「それは良かった。怪我しなかったのは幸いだが、君のような人が夜中に街を歩くものではない。早く家に帰ったほうがいい」
そう言って青年は立ち上がってレティアに背を向けると、ブルンと鼻を鳴らしながらおとなしく待っている彼の愛馬に向かって歩き出した。
青年の言葉の途方もなく穏やかで揺るぎない響きはレティアに沁み入り、凍りかけた生気をゆるゆると溶かした。埃に塗れた見ず知らずの町娘に貴族らしきこの青年は優しく微笑みかけ、気遣ってくれたのだ。
レティアの胸に忘れかけていた感情が押し寄せる。
──この人なら……この人になら、私……っ
「ま、待ってください!」
慌てて立ち上がり、ローブの大きな背中に駆け寄る。そして彼の腕に必死で縋りついた。
「あのっ……こんな格好をしていますが、私は女です!」
言葉の意図が汲み取れないのか、青年は首を傾げる。
だけどもう、どうしようもない。
母が、弟が、家族が生きるために。
自分ができることはもうこれしかないと自制心を追い込む声が聞こえてくる。
「私を……」
荒ぶる感情を押しとどめようと深い呼吸を繰り返す。緊張のあまり言葉が詰まり、両手のひらをぎゅうっと握りしめた。
真剣に聞き入る姿勢のまま青年の表情は相変わらず穏やかだ。彼の後ろで大きな白い馬が主人を呼ぶようにブルン! と鼻を鳴らし、身体を震わせている。
「どうか……。どうか今夜一晩、私を買ってください!」
青年の
「え?」と小さく呟いた青年の表情がにわかに険しくなり、目を眇めてレティアを見据える。
「お願いです……どうしてもお金が必要なんです。この身体をどうか一晩……買ってください」
華奢な肩を小刻みに震わせながら
「それは無理な相談だな」
はっと
「そん、な……っ」
「もう行かなければ」
「待って……! お願いですから……っ」
手綱を取り白馬に跨ると、青年はレティアに背を向け肩越しに見遣った。先ほどまで朗らかに微笑んでいた彼の目が、今は憐れみのこもった鋭さに揺れている。
青年は──レティアの自尊心に
「私は君の客ではない」
青年が勢いよく手綱を引くと、馬のいななきが夜空を切り裂いた。走り出した白い影はすぐに小さくなり……裏通りの暗がりへと消えてしまった。
「わたし……は……」
レティアの心に芽生えた僅かばかりの希望が音を立てて壊れていく。
静けさの中に取り残されてからも、レティアは少しも動けない。青年が放った言葉はナイフのように胸を抉った。
「……キミの『客』、ではない……っ」
消え入りそうなほどに細い声が、乾いた白い唇からこぼれ落ちた。
* * *