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3・絶望と白馬


 家に帰ると、珍しく母親のアメリがキッチンに立っていた。


「お母さま?!」

 驚いて駆け寄って痩せぎすの背中を支える。

「ダメよ寝てなきゃ……!」


 アメリの傍には弟のルカがジャガイモと包丁を持ったままキョトンとしていた。


「レティア、見て。ルカったらジャガイモの皮むきができるようになったの」


 弱々しくも心から嬉しそうに微笑む母に、それ以上言葉が出なかった。


「昨日も遅かったみたいだけれど、今日は早く帰ってきてくれてホッとしたわ」

「えっ……ええ。親切なブロッツさんが、たまには早く帰るように言ってくれて」


 暮らしはレティアの手にかかっている。「本屋の仕事を失った」なんてどうして言えるだろう、母親をただ心配させるだけだ。


「いつも頑張っているあなたのために、夕飯にルカとふたりで美味しいスープをこしらえようと思って。さぁ座って。もう少し待っていて」

「そうだよ、姉さまの元気が出るようにって、母さま張り切っちゃって」

「お母さま……ルカ……」


 ここ数日気分が良いのだと母は言っていた。

 母親のアメリは肺の病に侵されている。父親が亡くなって、残された家族を守らなければと女手ひとつで頑張りすぎたのだ、もともと身体が弱いのに。


「まぁ、どうしたの?」


 アメリが驚いた様子でレティアの肩を抱き寄せる。

 気がつくと、熱くなった目頭がじゅわりと潤んでいた。


「いやだ、私ったらどうしちゃったんだろう。ごめんなさい……っ、手伝うわ……!」


 ふたりに精一杯の笑顔を見せたレティアは、洗い桶に水をためて流しにあった人参の泥を洗い落とした。


 家族三人の命を繋ぐ、ひょろひょろに痩せこけた、しなびた人参。

 洗う手がふと止まる。堪えてもどうしようもなく溢れてくる涙が、また頬をこぼれ落ちた。




 * * *




 もう何台もの豪奢な馬車を見送った。


 いずれも『白鷺しらさぎ城』と呼ばれる王城ロスフォールに向かうもので、普段のレティアならそれらの美しさに羨望の溜息の一つでも放っていたはずだ。


 この国の王太子が婚約者を王宮に迎え入れてから、夜会が増えたと噂する者もいる。

 レティアが……先日の大規模な王都の火災で焼け出された町の者たちがどんな状況にあっても、貴族の夜会や宴のたぐいは憚られる事なく行われているらしい。


 王宮という場所は、民衆にとっていつだって『別世界』だ。


 城下町の薄暗い路地を、レティアは重い足を引きずりながら歩いていた。

 いつものように──白いブラウスにグレーのハーフパンツをサスペンダーで吊るし、美しいかんばせと艶やかな長い髪を帽子の下に隠して。


 夕刻まで続いていた貴族の馬車の往路はすでに閑散としていて、仕事を終えた荷車や疲れた顔つきの男たちが家路に就くのを見かけるだけ。


 ──今日もダメだった。うちにはもう、お母様と育ち盛りのルカに食べさせるひとかけらのパンもない。日雇いでもいい、とにかく仕事を……。仕事を探さなくちゃ。そして少しでも、お金を稼がなくては。


 父親が亡くなってから、病に倒れた母と幼い弟をレティアがひとりきりで支え続けてきた。

 レティアの父は王都でも広く名を知られた行商人だったが、友人に騙され多額の借金を背負った挙句、二年前に自死した。

 レティアが行き着く想いはいつも同じ。


 ──どうして私は『女』なんだろう。


 少年の格好をしていても中身は気力も体力もままならない『女』だ。

 女だから、出来ないことがたくさんありすぎた。

 男なら、出来ることがたくさんあるのに。


 町中を一日中ひた歩き、ひどい空腹と疲労感にさいなまれながら何気に鞄の膨らみに手をやれば、指先に小さな包みが触れる。その包みを、鞄の布ごしにぎゅっと強く握りしめた。


『それをお売りなさい』


 耳元によぎる母の言葉。

 娘ひとりに苦労をかけていることを案じて、父親の唯一の形見であるオルゴールをレティアに託したのだ。


 ── いったい幾らになるんだろう……。


 すっかり空洞になってしまった心に一縷いちるの迷いが生じたけれど、すぐに首を振って打ち消す。


 ──だめ、これだけは何があっても絶対に売れない!


 この数日というもの、新しい仕事を探すために訪れた先々でひどい罵声を浴びせられ、レティアの胸は張り裂けんばかりに傷つき、壊れかけていた。

 朝から何も口にしていないせいで目はかすみ、棒のようになってしまった足はすでに感覚を失っている。

 気付けば町外れの教会にまで来てしまったようだ。


 ──ここを過ぎると働き口がありそうな場所は無くなる。それに日が落ちてから随分時間が経ってしまった。今からじゃ、まともな仕事なんて見つかりそうもない……


 気落ちしたまま教会の石柱に寄り掛かろうとしたとき、隣の酒場から出てきた男と激しくぶつかった。


「おい、どこ見てんだよ」


 突然ドン! と鈍い音がして身体がぐらりと揺らぐ。その衝撃で帽子が落ち、レティアの長い髪が夜風に流れてあらわになった。


「なんだ、女か……ウン?!」


 口は悪いが身なりの整った中年の男だ。酷い酒臭さに空腹のレティアは胃の中の液体が迫り上がり、何度かむせた。


「よく見りゃ綺麗な子じゃないか」


 男はじとりとした視線でレティアを舐めまわし、口元を下品にほころばせながらにじり寄ってくる。


「若い女がこんな所で何してんだ? 青っちろい顔をして、どうせろくなもの食ってないんだろう」


「………」

「どうだ。今夜一晩、俺の相手をしないか?」


 唐突に手首を掴まれ、驚いて腕を強く引っぱる。けれど男はレティアを離さない。


 背筋にゾクリと冷たいものが流れ落ちた。

 身体がガクガク震えている。思い出したくもない忌まわしいが、脳裏を掠める──。

 酷い嫌悪感と恐ろしさが吐き気とともに迫り上がり、レティアは口元を両手で覆った。


「ぃゃ……」

「怖がることはない、代金は高くはずむぞ?」


「やめて……っ」


 ようやく放った言葉とともに男の手を振り払い、残された力を振り絞って夢中で路地を走って逃げた。


 走って、走って……感覚のない足は、他人のもののように身体についてくる。それらが二本の柔らかなゴムのように、ぐにゃりと絡まって。

 何かにつまずいたのか、湿った石畳に前のめりになって勢いよく倒れ込んだ。


 長い髪が風をはらみ、地面に落ちる。


「はぁ、はぁ……んっ、はぁ…………」


 衝撃ですりむいたのか、手のひらが脈打つようにじんじん痛んだ。突然脇腹に鈍い痛みを感じて息を呑む。


「邪魔なんだよ!」

 チッ、と憎々しげに舌を鳴らし、レティアを足蹴にした男が背を向けた。


 冷たい風が、追い討ちをかけるように頬をかき殴る。

 孤独と痛みと、失望の中で、彼女の頭にはある言葉がぐるぐる廻っていた。


『代金は高くはずむ』


 ──この身体を一晩……。

 一晩だけ、お金持ちの男に売りさえすれば。


 たった一晩の身売り。

 それだけでレティアが置かれている状況が良くなるとは思えない。けれど傷みきった心にはもう、まともに考える力が残っていなかった。


 孤独感と絶望感だけが澱のように降り積り、レティアをいっぱいにしてゆく。


 ──その時だった。


 ダダッ、ダダダッ。


 地鳴りのようなひづめの音がして、灰色にぼやけた視界の奥に大きな白い影がかすみのように現れた。

 地鳴りは次第におだやかになり、ゆっくりになり……白い影が立派な白馬だと気付いた時、それは少し離れた場所で静止した。


 馬から飛び降りた一人の青年がローブをひるがえして駆け寄れば、グッタリと横たわるレティアを前に、湿った地面に迷いもなく膝をついた。


「大丈夫か?」


 艶やかな低い声が頭の上から落ちてくる。

 青年を取り巻く風にまみれて、爽やかな芳香がふわりとレティアを包んだ。




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