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1・天使の墜落


 酔いの回った下卑た笑い声を聴きながら、湿気を含んだ石畳を人々がそぞろに行き交っている。


 王国城下の歓楽街は、昼間の賑やかな喧騒けんそうとは対照的に陰気でなまめかしい夜の顔をしていた。

 貧しい者も富める者も隔たりなく頬を緩め、束の間の快楽を求めて彷徨う。


 青白い街灯の下で帽子をまぶかに被った一人の少年が、道行く人びとに華奢きゃしゃな腕を差し出している。

 酒場の窓から漏れるオレンジ色の光とむせ返るような熱気に負けないように、少年は精一杯の声を張り上げた。


「ご家族のおみあげにいかがでしょう。さっき摘んだばかりです」


 仕立ての良さそうな上着を身に付けた紳士が立ち止まり、連れの女性に目配せをした。


「花売りのとは珍しいな?」

「あら、可愛いらしいこと。ひと束いくら?」


「五シックルです」


 数日前に起こった帝都火災の被害は広範囲に及び、多くの犠牲者を出した。

 街中に漂い続ける煙の臭気のなかで人びとの心は沈み、景気も落ち込んでいる。立ち止まる者は少なく、ようやく初めて花が売れたのだった。


「有難うございます!」


 たった一束の花でも、買ってくれた客には心からの笑顔で礼を言った。

 少年が手に提げた花籠はなかごを眺めれば、溢れんばかりの白い野薔薇が気持ちよさそうに夜風に揺れている。


 ──もっとたくさん売らなくちゃ。


 すぐそばで大きな笑い声がして顔を向けると、木箱の上に立った大道芸人が手品を披露していた。どうやら《魔導士》を気取っているらしいのだが、わざと失敗しては笑いと金銭を集めている。


 ──本物の『魔導士』なら、このお花を魔法でお金に換えられるのかな……。


 模範道とされる『白魔導』と、邪道とされる『黒魔導』の使い手である彼らは、永年に渡り対立を繰り返しながらも、今なおこの世界のどこかで密やかに存在しているはずだ。

 百余年前に最も隆盛を極めた『魔導師』というものの存在は、かつての勢いを失った今でも人々の記憶にしっかりと息づいている。



 足を棒にしながら幾ら歓楽街を歩き回っても、かごの中の花が減ることはなかった。

 すっかり夜も更けて、街灯の明かりの向こうに洞穴ほらあなのような闇が広がっている。人通りの減った路地を、少年は重い足をひきずるようにして歩いた。


 路地裏の暗がりでボロをまとった人々とその子どもがむしろを敷いて眠っている。裕福な帝都は民衆への施しも手厚い。家が無い人々が街にあふれるなど、これまで一度も見られなかった光景だ。


 王都がこのような事態に見舞われてしまったのは紛れもなく、七日前に起こった大火災の影響に他ならない。

 幸いにも町の中心部の被害は免れたものの、小さな居酒屋から出火した炎は広範囲に燃え広がり、周辺の商店や家々を焼いた。


 ──くよくよしていてはいけない。この人たちに比べたら私は幸せ。大切な家族がいて、帰る家だってちゃんとある。


 少年は彼らの姿を肩越しに見遣みやり、足早に通り過ぎた。

 大通りからそれて街灯すら無い細道を巡り歩き──立ち止まったのは、ドアノブが錆びて朽ちかけた木戸の前だ。


 息を殺して扉を開ける──「ただいま」。


 粗末なテーブルと椅子が三脚。

 少年が狭い部屋の奥に進むと、二つ並んだベッドの片側に痩せ細った壮年の女性が眠っている。もう片方には、幼い男の子がすやすやと穏やかな寝息をたてていた。


「ごめんね」

 男の子の頬をそっと指先ででながら、少年は長い睫毛を伏せた。


 ──ルカ……あなたはもうすぐお誕生日だというのに、欲しいものの一つも買ってやれない。お母様もごめんなさい、お薬がもう無いの。


 炊事場に向かって蝋燭に明かりを灯すと、幾つかの花瓶に水を注ぐ。そこに売れ残った花々を生け、食卓いっぱいに飾った。


「きれい……」


 一輪の野薔薇は小さくとも、束になったそれらの真っ白な存在感。

 優しく甘い薫りが、狭い部屋の空気に溶け込んでゆく。

 一杯の水を飲めば、くう、と腹が鳴った。


「平気よ、お腹がすいたなんて寝てしまえば忘れるわ」


 ふたりを起こさないか心配しながら古びたクローゼットの引き出しから着替えを取り出し、サスペンダーに手を掛ければ……ハーフパンツのポケットから青い絹のハンカチにくるまれた小さな包みが転がり落ちた。


「あっ」


 慌てて拾い上げ、布を外して中身を取り出す──月明かりに煌めくそれは、銀の土台で出来た蓋の上に大小様々な宝石が散りばめられた、小さなオルゴール。


「良かった、割れてない……!」


 銀の蓋をそっと持ち上げてみても、すっかり錆びてしまった鍵盤は、ジ、ともスンとも言わないのだった。

 オルゴールを丁寧にハンカチに包み、ポケットの奥にしまう。

 ふぅ、と小さく息を吐き窓際の鏡の前に立つと、少年は頭上の帽子を無造作にはぎ取った。


 いったいどんなふうに収まっていたのか。

 金糸のような長い髪が、窮屈な帽子から解放されてサラサラと肩に落ち、華奢な白い背中に落ちた。


 薔薇色の唇が小さく息を吐けば、ピンクパープルの瞳を縁取る長い睫毛まつげが月明かりの青白い頬に物憂げな影を落とす。

 ブラウスのボタンを外す指先の下には、ほっそりした首筋につながるデコルテとすべらかな曲線を描く胸の膨らみが窓辺の月光に白々と浮かび上がった。


 小さな四角い窓からかろうじてのぞく星空に手を合わせると、は、ゆっくりと目を閉じた。


「今日のかてを与えてくださり有難うございます。明日もどうか、ご加護を……」


 まだ齢二十にも満たないレティア・ヴァーレンの胸は、不安と寂しさと心細さで一杯だった。こののち幾度となく日が昇り、その絶望のきざしが本物になってしまうことをレティアはまだ知らない。


 最愛の弟の隣にそっとすべり込み、栗色の髪の小さな後頭部を背中ごと抱きしめる。

 きっと明日は、今日よりい日。

 今にも砕けそうな硝子の心に、暁の声を聞くまでそう言い聞かせ続けた。




 * * *




「はっ、はっ、はぁっ」


 急いで橋柱の影に身を隠す。

 表通りを真紅の隊服を着た二人の騎士が、ひどく慌てた様子で走り去って行った。


 ──油断した。



 丸二年も勤め上げたジョセフィン&ブロッツ書店の店主の、怒りと哀しみに満ちた顔があまりにも衝撃的だったから。


『出て行けこの恥知らず、もう二度と来るな!』


 つい先ほどジョセフィンおじさんが口汚くレティアをなじった言葉は、きっと彼の本心ではない。皆があの火災の不況の被害者なのだ。


 ブロッツおばさんの申し訳なさそうな顔が眼裏に浮かぶ。


 ──すまないねぇ、あの火事があってから、不況で本が売れなくてね。うちも、前から売り上げがたくさんあったわけじゃなかったし……家族が食べていくのがやっとなんだよ。あんたはよく働いてくれたのに本当に申し訳ないが、どうかわかっておくれ。じいさんも、あれでけっこう辛いんだ。あんたをこんな形で辞めさせることしか出来なくて。


 重い足を引きずって、さっきまで職場だったはずの書店をあとにした。

 一瞬にして仕事を失ったレティアは茫然と歩いていて、背後に近づいた《影》に気付かなかったのだ。



 騎士隊員はレティアを覗き込み、顔を見合わせる。不意を突いて彼らの脇の下をスルリと抜け出し全力で走った。


 ──今日はどうしてがこんなに多いの?!


 橋柱の影から覗いてみれば二人だった騎士が四人に増えている。


 ──もう逃げきれない……!



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