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6.-③


 そしてその翌日には、また別の知り合いと、彼は夕食を摂っていた。


「あー忙しい忙しい。何だってこんな忙しいのっ」


 ゾフィーは約束した時間の約束した席に着くやいなや、がさがさと大きなバッグからタオルを出すと汗を拭いた。


「走ってきたの? 君」

「だって地下鉄が混んでて、前の奴に乗れなかったのよ。だから一本遅らせて、ここまで走ってきたんだから。ああ暑い」


 そう言いながら彼女はまた汗を拭く。

 確かにすごい汗だ、とテルミンは目を見張る。だらだらと流れているのだ。士官学校の訓練の時にはよく見た光景だが、女性で、街中を行く女性がそういう風にだらだらと汗を流すのは見たことが無い様な気がする。


「何? 何かおかしい?」


 彼女は眉を寄せ、顔を少し赤らめる。それを見てテルミンは何となく微笑ましくなり、思わず笑みを浮かべた。


「いや、相変わらず元気だなあ、と思って」

「あたしは元気よ。少佐こそ、元気だった? ちゃんと食べてる?」

「昨日会った友人にも、そう言われたよ、大丈夫ちゃんと食べてるって」

「だったらいいけど」

「それより、急に何?」


 彼はテーブルに最初の皿が来ると同時に質問を投げかけた。ゾフィーはまだ時々水を口にしている。よほど喉が乾いていたのだろう。その具合を見計らいながら、テルミンは訊ねる。


「うん、実はね、今度一つ番組の企画を任されたの」

「ええっ! それすごい、大抜擢じゃない」

「そうなのよ! まあ最近ずいぶん、中央放送局からも抜けたし…… そのせいと言っちゃおしまいなんだけどね」


 タオルを握りしめて力説する彼女に、テルミンは笑みを浮かべたまま黙る。

 先日のグルシンの失脚には中央放送局の力が大きかった。またその一方で彼と癒着していた放送局のスタッフが何人か罷免された。特にそれは、番組制作に当たる者が多かった。

 結果、使えるスタッフの不足から、企画補佐をしていた彼女に白羽の矢が当たったのだろう。そう彼は推測する。


「でも、良かったじゃない。本当、おめでとう」

「ありがと。うん、だから、今日はあたしのおごり」

「そんな! お祝いなんだから、俺がおごるよ。少なくとも俺の方が収入多いし」

「そういう問題じゃないでしょ! じゃこうしましょ。あなたの分はあたしが払う。あたしの分はあなたが払う」

「オーケー」


 彼は苦笑しながらも同意する。それ以上は彼女も引かないだろう。

 ゾフィーとはあの図書館で出会って以来、ずっと友達つき合いが続いている。

 友達、である。決してそれ以上ではない。

 彼女は彼女で、どうもテルミンに対して男と付き合っているという感覚が無いらしいし、テルミンはテルミンで、彼女を女友達としてしか見られなかった。

 もっとも周囲の目はそうではない。

 彼の上司のアンハルト大佐は、一度外で二人で会った所を目撃したらしく、ある朝出勤したら、結構楽しそうな表情でからかわれたこともある。

 テルミンはそれには否定も肯定もしなかった。こういう関係もあっていいと思う。だがその説明をいちいちするのは煩わしかったし、彼女の存在は、自分のヘラへの感情や、スノウとの関係の隠れみのにするにはちょうど良かった。


「でも最近、君本当忙しそうだね。なかなか通信つながらないし。その番組制作だけ?」

「あ、つながらないの?」


 ゾフィーは慌てて自分の小型端末を取り出す。


「あ、やだ。ずっと局内モードにしてあったわ」

「局内モード?」

「うん。これね、放送屋用のものだから、局内モードにすると、局内の生番組と直接話ができて放送できる様になってるの」

「ん? それって別に珍しくないんじゃない?」

「マイクじゃあないでしょ? いつでも何処でも、これが簡単なマイクとカメラ代わりになるのよ」

「へえ……」


 感心したように彼は言い、見せて、と手を伸ばす。壊さないでよ、と彼女は念を押す。高いんだから、と。


「無論こんな小さいから、ややこしいことはできないけどね。だからそうね、水晶街とか、あのクーデター犯人の…… のところなんかに役だったみたい」

「あ、あれって、ニュースには流れたんだよね?」


 テルミンは訊ねた。彼はあの時現場に居たので、それがニュースで生で流れたのかどうか、は知らなかった。


「ええ。あたしじゃないけど、他のスタッフが撮っていたはずよ。ただ、一応ああいう光景は協定で、残さないことなってるんだけど」

「なってるけど?」

「一般家庭にまで残すな、なんて強要できないじゃない。だからそれを逆手にとって、残しているスタッフも居るはずよ」

「ねえゾフィー、それ、俺見たいな」


 ゾフィーは怪訝そうな顔になったが、すぐにいいわよ、と答えた。


「ただしあたしの言うことも一つ聞いてくれない?」

「何? 俺にできることだったら」

「水晶街の逮捕者の顔と行き先」

「……あ」

「どうしても、行き先が見つからないのよ」

「君の、バーミリオン?」

「あたしの、じゃないわよ」


 言葉が少しばかり止まる。

 彼らの前に、盛られた長いパスタの皿が置かれ、ソースの容器がまた別に置かれた。彼女はそこからくるくると器用にパスタを取ると、ソースを絡めた。彼もまた、料理を取り分ける。茄子と挽肉の入ったソースは、ややびりっとする辛味が効いて、実に美味い。こんなに食事が美味しいのは、貴重な時間だと彼は思う。


「ねえ、俺は君の言うことは聞いてあげたい。だけど、まだ俺にはいまいち君がバーミリオンにこだわってる理由が判らないんだよ。君ともう出会って結構なるし、その時々にその話はしているというのに」

「あたしは、彼は嫌いなのよ」

「だけど、嫌いであるからと言って、君がこんな長い時間、ずっとずっと兄の知り合いだったから、って理由だけで、その彼を探す理由ってのが俺には判らないんだ。だって確かに兄さんが君にとって大切だったかもしれないけど、君の忙しい時間を裂いて、図書館の司書に嫌な目で見られて、それでも欲しい程の?」


 ゾフィーは黙って水を入れたガラス器からコップに中身を移す。そして幾度かその水をくるくるとコップの中で回すと、ようやく彼女は口を開いた。


「……あたしが、彼に言わなくてはならないことがあるからよ」

「言わなくてはならないこと?」

「それ以上は言えない。でもこれは言ってもいい。バーミリオンは、兄の友達、だったけど、同時に、恋人でもあったのよ」


 あ、とテルミンは小さく声を立てた。


「だからあたしがどうこうというのは当たらないでしょう? だけど、あたしは彼が一つ思い違いをしたまま、あたしの前から姿を消してしまったことだけは知ってる。だけどその思い違いは、ずいぶん大きいのよ。それを抱えたまま、それで平然として生きてくなら、それはそれでいいのよ。それだったらあたしは気楽よ。バーミリオンを見つけたら、平手の一つでも加えて、それであたしも忘れる。それでいいの。だけど、彼がそれをずっと重荷に感じていたら? もしくは、逮捕されて、政治犯で流刑になったとしたら、それはそれで忘れさせられてしまうのかしら?」


 それは、とテルミンは言葉に詰まった。


「あたしは、彼に会って、それだけでも知りたいのよ。そうでなくては、他の誰でもない、あたしが辛いのよ」


 テルミンは目を軽く伏せる。確かにそれは踏み込んではいけない領域の問題なのだ。


「ごめん」

「あ、違う。でも、そういう理由があるのは、確かなのよ。あくまで、あたしはあたしのために、彼と会いたいのよ。どうしても。それだけよ」


 きっぱりと彼女は言うと、さ、食事食事、とやっぱりケンネルの様に話を終わらせた。彼女は結構お腹を空かせていたらしく、パスタにサラダに、デザートのババロア、食後の小さいカップに入った濃いコーヒーに至るまで、実に気持ちいい程によく口にした。


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