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6.ARK826.02/止まるも地獄、進むも地獄-①

 夜半に寒さで、彼は目を覚ました。

 寒い筈だ。肩が出ている。彼はブランケットを重ねたシーツの中にしっかりと身体を入れ直す。時々あるのだ。この官邸の中には、暖房が効きにくくなる時が。

 ふと、自分を引き寄せる強い腕の感触を覚える。不意に動いたから、相手が気付いたのだろう。


「肩が冷たい」


 彼の肌に触れながら相手は訊ねる。テルミンは目を伏せた。


「寒いの?」


 そして相手は再び訊ねた。彼はうなづく。

 おそらく、自分の部屋の方が、暖房の効きはいい筈なのだ。それでも彼はこの時間、ここに居ることを望んでいる自分を知っている。そうせずには居られないのだ。

 スノウは、その名が意味する所と近いのか、寒さとか冷たさには鈍感なくらい平気な顔をしていた。

 帝都からの派遣員が一言当局に言えば、ものの半日も経たないうちに、暖房設備など直ってしまうはずなのに、この男はそんなこと気にもしていない様子で、冬期だというのに、時々切れる暖房を逆に面白がっている。


 テルミンは寒いのは好きではなかった。


 彼は元々、穏やかなものが好きなのだ、と自分では信じていたのだ。季節なら春か秋。確かに軍隊には属しているけど、順調な出世、順調な日々、職務を毎日きちんとこなして、それで時期が来たら、それなりの出世。そうすれば、郷里の家族も喜ぶだろう。いい女の子が居たら、家庭を持つのも悪くはない。できれば明るい女の子がいい。考え込む自分を笑い飛ばしてくれる様な。

 だが現実はどうだろう、とテルミンは思う。自分は好んでこの派遣員の腕の中に居るのだ。相手が好きかどうか、は彼自身よく判らなかった。だが、そうせずには居られなかったのだ。


「それで、君は、彼にもう話したのかい?」

「まだ……」


 語尾をぼかす。

 今日自分は何をしただろう――― 彼は半分伏せた目の向こうで、窓の向こうの光景を思い出す。官邸の庭で、ヘラに付き合わされて散歩をしている時に、窓の向こうで起きていたちょっとした光景。


 何なんだ、とヘラは花壇の柵の上にちょんと乗って、窓の向こうの様子を眺めていた。さあ、とテルミンはその時は答えた。ふうん、とヘラは巻き毛をいくつか肩の前に落としながら答えた。だが彼は知っていた。

 一人の官僚が罷免されたのだ。政府の中の役所は、通信相。内閣の中では、派手ではないが、重要なボストではある。

 その重要なポストについていた官僚のスキャンダルが、TV局のすっぱ抜きによって、大きく報じられた。

 これがただ単に、女遊びがばれたとか、公金の横流しとか、そういうことならさして問題は無かった。この場合問題にされたのは、そんな「よくあるスキャンダル」に帝都が絡んでいたからだ。

 通信相グルシンは帝都から援助を受け、その資金でもって私的通信網を星系外に作ろうとしていた、と報道は告げている。退官後、その私的通信網でもって新規の企業を起てるつもりだった、そのための根回しがどうの、調達資金の流れはどうの、エトセトラエトセトラ。

 退官後のポストを民間企業に確保しておこうという目論みはどんな省庁の人間にも当然の様にあることだった。それは無論、一般庶民には嫌なことには違いなかったが、しかし当たり前のことだった。清潔な政治家などない、とこの星系の人間達は思っているし、知っている。

 だからそれが問題にされたところで、退陣にまでは追い込まれることはないのだ。結局問題とされているのは、その時のために、私的に帝都政府の手を借りているということだった。

 グルシンの不運は、たまたま声をかけられたからと言って、帝都に本拠を持つ企業と手を結んでしまったことと、彼が通信相である、そのこと自体にあった。

 最初にその情報を手に入れた中央放送局は、大々的に特集番組を組んで、「この不正を許すことはできない」と訴えた。民間放送局は、通信省の管轄である。ここで不正を民間に訴えないことには、自分達の民間に対する信頼関係が崩れる、と感じたのであろう。そしてその読みは正しかった。

 この星系において、帝都は仮想敵である。それが存在することによって、一星系一政権である上の危険を多少なりとそも緩和していることをテルミンも知っていた。「戦争が無ければ革命がおこる」と言ったのは、過去の誰だったろう、と彼は思う。

 結果、グルシン通信相は退陣に追い込まれた。それは放送局のすっぱ抜きから大した時間では無かった。後がまには、通信副相を勤めていたボルゼルが座ることになった。


「気のいいおっさんだったのにね」


とヘラは事態の説明をテルミンから聞きながら、頬杖をつき、暢気な言葉を吐いた。

 官邸にやってくる官僚は大半、首相に青年の愛人が居るのは知っていた。グルシンはその中でもヘラと直接顔を合わせることのある珍しい官僚の一人だった。そしてヘラもそう嫌いでは無い、というこれまた珍しい人物でもあった。


「だってあのおっさん、そう賢くないもん」


 それがヘラの理由だった。そうは言ったところで、これで退陣してしまえばしまったで、ヘラは何の興味も無くすのだ。ただの通りすがりの人。そうこの人物は形容するのだ。


「俺馬鹿な奴って結構好きだよ」


 しかしとりあえずその時には、そんなことを、ひどく懐かしそうな口調で言うのだ。そしてその度に、テルミンはひどく胸が締め付けられる様な気分になる。

 テルミンはもうずっと、自覚していた。確かに、自分はこの首相の愛人に惹かれているのだ。その姿に、その声に、その態度に、その存在、そのものに。

 気付かせたのは、帝都からの派遣員だった。ほとんど荒療治と言っていい程に。


 だが派遣員は一つだけ見間違えていた。

 あの時。屋根裏の部屋から、彼が階下をのぞき込み、目撃した時に高まった性欲というのは、それは、ヘラ自身に向けられていたものではないのだ。

 ヘラが「そうされている」というシチュエーションに対して、自分はそう感じたのだ、と彼は気付いていた。


 それは衝撃だった。


 ヘラのことは、とても好きなのだ。この彼の置かれている事態に対し、ひどく憤りを覚えずにはいられない程、好きなのだ。その感情は止まらない。止められるものでは、ない、と彼は知っている。だが、それなのに、あの時自分がどうしようもなく高まってしまったのは。その理由は。

 それを考えるたび、彼はひどい自己嫌悪に襲われた。

 そしてもう一つの自己嫌悪が彼をまた、夜になると支配する。昼間はいい。自分のすることがどんなことであろうが、それは自分の納得づくのことであり、後悔はしない。

 たとえ通信相を陥れたのが自分であろうと!

 それは現在の彼にとって、そう難しいことではなかったのだ。


「上手く行ったようだね」

「グルシン通信相のこと? うん、俺も上手く行ったと思う」

「君ならできると思っていたよ」

「……そうだね」


 君ならできるよ、とこの男は何度あれから言っただろうか。

 そして自分はこの男とあれから何度同じ夜を過ごしているだろう。


「……もうじき言うよ。そうでないと、時間が経ってしまう」

「それがいい。私にできることなら協力しよう」

「ありがとう」


 自分の声が乾いているのを、テルミンは感じる。そして自分を大事そうに抱える相手の背に手を回す。夜中に目が覚める時は、自己嫌悪の闇が、夢すらも浸食しようとする時だった。

 そんな時には、何も考えずに眠りたかった。夢も見ずに眠ってしまえば、とりあえず明日が来ると、彼は思った。朝になれば、それでも自分は大丈夫なのだ。どんな相手を陥れようと、誰を利用しようと!


 放送局にその情報を持ち込んだのは、自分だった。先年の春に出会ったゾフィーの口利きで、時々彼は私服で中央放送局に出入りしていた。その時に、何気なく、ひどくさりげなく、ニュースセンターへの投書の中に、彼がよく知っている事実を入れておいた分なのだ。

 グルシン通信相は抗弁した。自分は誘われたのだ、と。確かに自分の老後の安心も考えたが、それ以上に、その新しくできるだろう通信網が、レーゲンボーゲンのためになるから、と勧められ、自分はそれを信じてしまったのだ、と。

 そのあたりが馬鹿なのだ、とテルミンは昼間は思う。何せそのグルシンを誘った帝都の企業は、スノウの口利きで動いているのだから。

 額から指先までゆっくりと、濃厚に執拗に動き回るスノウの指に唇に、ぼんやりとしてくる頭の中で、ヘラの姿が横切る。それは昼間の光の中、ゆらゆらと巻き毛を揺らせて花壇を歩く姿ではない。


 あれからも時々…… つい見てしまった、寝台の上で乱れさせられるヘラの姿だった。嫌で嫌でたまらない、という表情を露骨に浮かべて、それでも何を考えているのか、逆らうこともせず、何か遠くを見ている、そんな姿だった。


 その理由を知りたかった。

 何処を見ているのか、知りたかった。

 ヘラに関するある「事実」はテルミンは既に知っていた。だけどそれだけでは「理由」にならない。

 彼はそれをヘラ自身の口から聞きたかった。

 ああ、と押さえきれない声を上げながら、全身を襲う、どうにもならない程の感覚が、自己嫌悪の感情を踏みつぶしてしまう瞬間を彼は待っていた。そしてこの男は、それをその通りにしてくれる。自分の身体がばらばらになってしまう様な気分に。時には、自分の心が身体を離れて何処かへ行ってしまうかと思えるくらいに。

 それから自分が、既に離れられないのを彼は知っていた。

 穏やかな生活を、したかった。だができない。彼は目を伏せる。口元が笑っているのが判る。

 自分にはその資格はないのだ。

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