目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

5.-②


「遅いな」


 リタリットは房の窓、鉄の格子の向こう側を眺める。既に作業時間は当の昔に終わり、いつもの通りの、足りないと腹がわめく食事も終わり、消灯時間が迫っていた。

 夏期の房は、今までにない程暖かだった。それまでの部屋の気温が、外気であるという時期である。中の気温はそれだけで春が来たかの様に彼らには暖かく感じられる。

 だがだからと言って、目下の心配をそれだけで軽減できるという訳でもない。


「遅すぎるぞ」

「騒ぐなよリタリット」


 房内の一人が、声を掛けた。だがリタリットは口元を嫌そうに歪めただけで、指先をぴらぴらと振ってみせる。話しかけるな、と言わんが如くに。

 またか、と房の男達は肩をすくめる。元気な時にははた迷惑な程に明るいのに、相棒がいないだけでこれだ、と皆が皆、その「相棒」たるBPが来る前に逆戻りした様なリタリットを遠巻きに眺めていた。


「何でだろうな」


 その中の一人が、やはり相棒が戻って来ないビッグアイズに話しかける。

 相変わらずこのヘッドの副官的な役割の男は、何処からか調達したナイフを手入れしたり、そのナイフで、他で入手した刃物を研いでいたりする。それが普段何処に隠されているかは、房内の人間にも疑問だった。

 なまじな場所では、時折抜き打ちで入る所持品検査に引っかかるだろう。だがビッグアイズはそれに一度も引っかかったことは無い。それはリタリットのドリルの刃にしても同じだった。


「何が? まあ仕方ないでしょ。この夏期なんていう珍しい時だし。少なくともいつもよりは凍え死ぬ確率は少ないし」

「だが雪崩は気になる」

「あんたらしい意見だ、ジオ」


 ぱちん、とビッグアイズはナイフを閉じた。


「そう言えば、あんたの『研究』どうなってる?」

「『研究』? ああ、リタリットがそう言ったか?」


 ジオと呼ばれた男は、細い目を更に細くした。


「まあね。何となく仮定だけは出せる。ただそれが本当かどうか、は今の我々ではどうにもならない、ということだが」


 ふむ、とビッグアイズは目を半分だけ伏せ、窓際の文学者を眺めた。


「あ」


 ビッグアイズは目を大きく開けた。


「どうしたリタ?」

「戻ってきた、奴ら。……あれ、ビッグアイズ、お前の相棒、何かヘンだぞ」

「何?」


 ちょっと見せろ、とビッグアイズもまた窓のガラスと格子越しに、外を見る。


「BP…… とヘッド」

「ほら見てみろや、何か、BP、肩貸してる」

「ケガでもしたのか?」


 どれどれ、と房の者は彼らの声につられて、窓の側へ寄る。


「……何か、止められてる……」


 誰ともなく、そうつぶやく声が上がる。

 彼らの居る階からは、そうその光景は遠くは無い。ただ、その光景との間には格子があるだけだ。

 だがその格子がその時、ひどく、誰にとっても重く、窓の向こう側と自分との間を隔てている様に見えた。


「あ!」


 そしてまた、誰ともつかない声が上がった時、ばん、とリタリットは窓ガラスに手を思い切りぶつけていた。


「何やってんだよ!」


 その声に、皆の視線が集中する。彼らは窓を開ける。普段ならまずしないことだ。寒気が飛び込んできて、それはこの部屋の気温を下げる。自殺行為だ。

 だが夏期なのだ。確かに冷たいが、大気が通り抜けたところで死ぬ程のものではない。そんな共通の感覚が、彼らの手をそれぞれ近くの窓の鍵に伸ばさせた。

 リタリットは窓の縦の格子を掴むと、その中に顔を突っ込みかねない勢いで、相棒の様子を見据える。舌打ちをする。

 足にケガをしたらしいヘッドに肩を貸しながら、BPは何かを看守に言っていた。おそらく手当だろう、と皆想像する。奴ならそういうことを言いそうだ、とつぶやくのはマーチ・ラビットだった。

 だがそんな彼の申し立ては却下されたらしい。はっきりした言葉は聞こえない。いまいち声が届くにはこの窓からの距離は遠すぎた。リタリットは再び舌打ちをする。

 やがて、どうしてもらちが明かないと思ったのだろう、BPはほとんど掴みかかる様な勢いで、看守に向かって怒鳴りつけた。


「生かしておくのがあんた等の仕事だろ!」


 あちゃ、と房の中の一人、ドクトルKは思わず自分の頬を叩く。


「彼の言うことは正論だ、だが……」

「んなこと誰が聞くかよ、ここで」


 ビッグアイズは唇を噛む。


「ここじゃあちゃんとした治療なんて受けられないってことくらい、誰でも知ってる。だからあんたみたいのが重宝されるんだ、ドクトル」

「おい見てみろよ!」


 あ、とリタリットは声を上げた。相棒は、看守の持っていた大きな銃で殴りつけられ、肩をずらしたヘッドもろとも、雪の解けた地面の上に叩きつけられていた。


「……やばいぜおい、この展開」


 マーチ・ラビットは大きなあごに手をやりながら、不安げな声を立てた。


「やばいってどういうことだよ」


 リタリットはその声に弾かれる様にマーチ・ラビットの方を向く。筋肉質の三月兎は、逞しい腕を組みながら、苦々しそうに答えた。


「リタお前も、奴と一年しか違わないからな。俺は知ってる。脱走だけじゃない。ああやって反抗した者も、やっぱり『祈』らされるんだよ」

「……え?」


 細い眉は、露骨に寄せられた。


「……何だよ、それ……」

「だから、このままじゃ、BPとヘッド…… いや、少なくともBPは」

「そう、確かに今は夏期だから、まだ生き残れるかもしれないが……」

「何だよそれ!」


 口々に、他人事の様に言う皆に、リタリットは声を荒げた。そして何を思ったか、窓の格子をぐっと掴んだ。


「おい…… リタ……」

「手ぇ貸せよ! ビッグアイズ!」

「手ぇ貸せって……」

「いいから貸せよ!」


 そう言って、リタリットはビッグアイズの手を掴んで、格子を掴む自分の下を握らせた。そして引っ張れ、と強い声で命じる。

 他の皆は、滅多に聞かないリタリットの大声に呆然としていた。その大きさに、空間を引き裂く様な声音に、皆足を地面に貼り付かせていた。ビッグアイズもそれは同様だった。だがその声は、有無を言わせない。ビッグアイズは言われるがままに、格子を掴み、力を込めて引っ張っていた。

 やっていることが無駄であることは、皆が皆、感じていた。いくら何でも、人間の力だけで、この格子は切れない。曲がらない。それでも一応鋼鉄でできているのだ。

 しかしビッグアイズの目は、奇妙に大きく開いていく。そしてその目のまま、やはり真剣になって自分の上で力を込めるリタリットを見た。


「……見てねえでてめえらそっちのソレ、掴め!」


 はっとしてマーチ・ラビットは手を伸ばした。馬鹿馬鹿しいことだ、と皆認識していながらも、その時のリタリットの声には、奇妙な程に彼らの身体を動かす何かがあった。我も我も、とばかりに格子に手に手を伸ばす。そして彼らはその直後に、その手に当たる感覚に驚く。


「何だこりゃ?」


 最初につぶれた声で叫んだのは、闘鶏ゲームコックだった。何度目かの力を揃って内側に込めた時、彼らの目の前では、信じられないことが起きたのだ。


「……切れた……!」


 掴んでいた格子の一本の付け根が。


「リタお前!」


 知っていたのか、という言葉をビッグアイズは省略する。


「黙れ!」


 リタリットはそれには答えず、もう一度、と力を込める。額に汗が浮かぶ。

 片側が切れた一本は、皆の手で、ぐいぐい、と上に向かって、回される。誰かが、付け根のコンクリートを崩してしまえ、とわめく。窓の桟に足をかけ、一人が付け根のコンクリートの様子を見る。


「ほら!」


 リタリットはポケットから何かを取り出して投げた。窓に乗った一人はそれを見て何だこりゃ、と目を丸くする。それは折れたドリルの刃だった。

 作業で、固い凍った大地を削ることができる刃なら、年季の入ったコンクリートを、ちょっとしたすき間から亀裂から、それを広げることはできるかもしれない。さりさり、と引っ掻く音が聞こえる。その間にも、格子を掴んだ下側では、ぐりぐりと少しづつそれを動かしつつあった。


「……お前、何やったんだよリタ……」


 リタリットはビッグアイズのそんな問いには答えない。罵倒する以外は、黙々と力を入れていた。リタリットのそんな姿を見るのは、三年同じ房に居ながら、ビッグアイズも初めてだった。

 入ってきた時のこの男はひどかった。記憶を消された当初は皆ぼうっとしているものだが、この男は、異様にハイだった。まるで躁病の様だ、とその時ドクトルKは判断した。そのよく響く声で、誰が嫌がろうと、世界への怨嗟を込めて長々と言葉を並べた。だがその時期が過ぎると、今度は、ひどく閉じこもった。ドクトルKはやっぱり躁鬱病の様だ、と言葉を継ぎ足した。

 躁だろうが鬱だろうが、同じ房の中に居る人間である。ビッグアイズは房の副官的な役割から、それでもことあるごとにリタリットを構ってもきた。

 そしてようやく落ち着いた頃に来たのが、BPだった。ヘッドもそうなのだが、房の男達は、この恐ろしく気紛れな文学者にひどく甘かった。そうしたくなる何かがあるんだよ、と普段人にあまりいい顔を見せないトパーズも言った。

 だからBPがやってきて、それを「欲しい」と言った時、誰も止める者は無かった。彼と対戦したマーチ・ラビットは舌打ちをしたが、舌打ちをしただけだった。

 ぐう、と誰かの喉から締め付ける様な音がした。


「……!」


 リタリットの瞳が凶暴にひらめく。少しばかりだが、格子が両側に広げられた。細身の人間が通れる程に。リタリットは窓の外に身体を躍らせた。ビッグアイズはそれに続く。走りながら、ポケットの中をまさぐる。どうやら後戻りはできないらしい。

 彼らの房は、一階にあった。それが運であるというなら、運なのだ。降ってきた運なら、使わなければ損だ。次々と房の仲間が…… 格子の間をくぐれる程度の身体のサイズの者は、まだ残っていた雪の上に静かに飛び降りた。

 それはもう、勢いとしか言い様が無かった。無論皆、いつかここから逃げることは考えていた。だが、「どう」逃げるか、どう抵抗するのかは、頭の片隅で、ほこりをかぶっていたのだ。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?