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4.-⑤


「やあ」


 書庫に戻ると、待っていたかの様に派遣員は手を上げてみせた。


「……こんにちは」

「何か、判ったかい?」

「いいえ特に……」

「嘘をつくのは良くないよ」


 休憩所の椅子に掛け、スノウはくたっとした綿の白いシャツに細いサスペンダをつけ、腕をまくり、足を組む。

 いつもの態度だ、とテルミンは思う。

 この場所に多く居る軍人と政治家、どちらかと言われれば、政治家の方が近い格好だが、そう決めてしまう、とそのやや緩めに作られているズボンは違和感がある。その足の組み方からして、実に動き易そうだ、と彼は思う。シャツにしても、折り目正しく、という訳ではないから、腕をぐるぐると回しても大丈夫そうだ。

 やや細い眼に笑みを浮かべ、さらに細くすると、立ったまま、資料を取りに行こうとする彼を実に楽しそうにながめる。そんなこの男を見るたびに、何を考えているのだろう、とテルミンは思う。

 そしてそんな男には構わずに、奥の棚に資料を取りに行こうと彼はその場を離れようとする。だがそれはできなかった。彼は慌てて振り返る。左の腕を、やはり左の手で掴まれていた。


「何するんですか」


 テルミンは少しばかりの非難を込めて問いかける。掴まれているのは左の腕だというのに、右の二の腕が、ひどく敏感に、軍服の袖の布地の感触を感じ取っている。


「あまり時間がある訳じゃあないんです。用が無いなら、離して下さい」

「用はあるんだよ」


 すっ、とスノウは立ち上がった。テルミンは少しばかり顔を上向ける。


「何の用ですか」

「来てもらいたい所があるんだ」


 まさか、普段の解答に危険分子とでも思われたのだろうか。そんなことを考えながら、それでも彼はその手を振り解こうとした。だが解けない。その手はしっかりと自分の腕を掴んでいて、少し動かすと痛いくらいだった。

 彼はふと不安になる自分を感じる。それに気付いたのか、男は笑った。意図的なのかどうなのか、その笑みは余計に彼を不安にした。


「……何処に」

「ついてくれば判るさ」


 腕を掴まれたまま、彼はいつも職場に戻る道を歩いて行く。この道筋をどうしてこの男が知っていたのだろうか、と思いながら、不安は消えない。

 何処へ連れていくつもりなのだろう。それが首相官邸であることは間違いないだろう、とテルミンも思う。

 だがその後が違った。そもそも入り口自体が、彼の知っているものとは違っていた。こんな場所があったのか、と中庭の隅にある扉をスノウが開けた時には思った。

 そしてそこからは、彼の知らない道ばかりがその前にはあった。本当にこれは自分の知っている官邸だろうか、と彼は思った。そしてついきょろきょろと辺りを見渡してしまう。そんな様子に気付いたのか、スノウはそれでも手は離さないまま、口を開いた。


「この官邸が、いつからあるのか、君は知っているかい?」

「一応、植民初期からって、読んだことがありますけど……」

「そう。植民初期。本当に初期さ。だから来た当初は、こんな辺境に良い建物を建てようと思っても、人材が無い。とりあえず間に合わせの土木の方の専門が、見よう見まねでそれらしい建築を作っていたらしい」


 そう言われてみれば、少しあちこちの柱の形も奇妙だ。変にデコラティヴなところもあれば、妙にオリエンタルなところもある。獅子の置物と龍の飾りが大理石の階段に同居している。


「だがだんだんこの建物の主が変わるごとに、その趣味が反映されていくことになる。……さて、ある期の首相は、ひどく臆病だったんだ」

「臆病?」

「結局はその首相は、運悪くひいた風邪をこじらせて死んだのだが、彼が一番恐れていたのは暗殺だった。そこで」


 スノウは階段の脇をぽん、と押した。するとそこはくるり、と壁の一部分が空き、回転した。


「こんな風に、抜け道を作ったりもした訳だ」


 テルミンは初耳である事実と、それを当たり前の様に知っているこの男に同時に呆れた。ほらおいで、と男は手を離すと、その手で彼を招く。彼が来るのは当然とでも言うように、口元には笑みを浮かべて。少しばかりその隠し扉は低い場所にあったから、背をかがめて。だけどその服は緩いから、決して行動を邪魔しない。


「ほら」


 来ないのかい? とばかりに更に男の笑みは露骨になっていく。好奇心が猫をも殺すことは彼も知っていた。だから、そんな誘いは、子供の頃の探検ごっこの時代から避けてきたはずなのだ。

 なのに、その手は彼の理性を裏切った。乾いた手が、自分の手を掴んだ時、彼はその傷一つない、すべすべとした触感と、思いがけない大きさに、自分自身の手の汗腺が一気に開いた様な気がした。汗をかいただろうか、と思ったがそれは彼の錯覚だった。

 入り口は小さかったが、入ってみると、その通路は決して狭くはなかった。だが普段使わないだけに、照明は付けられていない。暗いな、と彼は思う。するとそんな彼の考えを読みとったかの様に、スノウはズボンのポケットから口紅くらいの大きさのライトを取り出した。


「まあ知ってる者はまずいないな」


 そしてそうつぶやく。そうだろうな、とテルミンも思う。自分もそうだが、この官邸の構造を知っている者がどれだけいるだろう。代替わりするたびにスタッフは変わる。変えられるのだ。

 そして現在の首相は、任期は長いのだが、家族が住んでいる訳ではない。必然的にスタッフは多くは無い。そしてその大半が、自分の様な軍部の一端だったりする。皆それぞれの任務に忙しく、そんな子供の「探検ごっこ」の様なことをする暇は無いだろう。


「こっちだ」


 手を引かれる感触があった。言われるままに彼は足を進めていく。こんな暗い中で、足元もおぼつかない中では、素直に進むしかない。

 しかもこの通路は、決して真っ直ぐではない。折れ曲がり、時には左右に別れていたりもする。それをスノウは慣れ親しんだ道の様にすいすいと進んでいく。テルミンは手を引かれながらも、時々壁に激突しそうになる自分に何度も冷や汗をかいた。

 やがて、少しばかりの光が見えたので、彼はほっとする。スノウはその光がすき間からもれる壁の一部を押した。ああまたあの隠し扉か、と彼は思う。そこが出口なのだろうか。

 ところがそこは出口という訳ではなかった。どうやらスノウはあくまで階段を昇らせるためにだけ、その隠し扉を開けた様だった。

 高い窓が一つあるだけの螺旋階段がそこにはあった。何故螺旋階段なのか、彼にはさっぱり判らなかったが、おいで、とその手が招くのをどうしても彼は拒むことができなかった。

 自分は一体どうしたのだろう、とテルミンは思う。

 光の方向に向かって、螺旋階段は上へ上へと続いていく。

 窓と同じ高さにまで昇ったところで、果てが見えた。真鍮のノブを回し開いた扉の向こうは、屋根裏部屋だった。少なくとも、彼にはそう見えた。


「この部屋に入ることができるのは、今の階段からだけなんだ」


 スノウが説明する。

 この、斜めの天井と、壁にも窓がついた「屋根裏部屋」は、何か彼に既視感を覚えさせた。

 何があるという部屋ではない。板張りの床には何も敷かれていないし、物置にすらなっていない。通路があれしか無いのなら、当然だろう、と彼は考えるが、何もせずに放っておくには大きな空間だった。

 しかしそれにしても、既視感は大きかった。この窓から見える景色には見覚えがある。無論同じ邸宅なのだから、と言ってしまえばおしまいなのだが、それにしても。


「ほら、こっちへおいで」


 男は手招きする。踏みしめる足元が一瞬響いた様な気がして、彼は思わず歩き方を変える。膝をつき、男は床の一部を指さす。

 何があるのだろう、と彼は言われるままに膝をつく。床にたまったほこりがふっ、と濃い青の軍服の膝を汚した。

 床は少しばかりの大きさ、切り取られていた。何だ? とテルミンは思ったが、言われるままにその切り取られた穴から下の世界をのぞき込む。


 そして彼は硬直した。


「見えるかい?」


 見えるも何も。彼は何故この部屋からの景色に既視感があったのか、一瞬にして理解できた。

 この「屋根裏部屋」は、ヘラの私室の真上だった。

 彼の眼下では、彼が見たくなかった光景が、大きく広がっていた。

 見たくない。だけど目が離せない。

 あの濃いブラウンの、豊かな巻き毛が、シーツの上に大きく広がっている。胸をはだけ腕を広げ、剥き出しになった腕は手は、シーツの端を掴んでいる。その指先には力が入っているだろう、隅がひどくしわになっている。

 どくん、と彼は自分の心臓が跳ね上がるのを感じた。

 そこからゆっくりと、おそるおそる、彼は視線を横にずらしていく。そこにはやはり服を脱いだもう一人の男が居た。それがゲオルギイ首相だと気付くのに、彼は少しばかり時間がかかった。

 彼はすぐにそちら側からは目をそらした。彼の知る首相の姿からは想像ができない程、ヘラの腹部から下を撫でさすり、いやそれ以外の場所で動いているかもしれない、太っているという訳ではないが、それでも確実に年齢特有のたるみはある背中が、ひどく焦っているかの様に上下する。肉が揺れる。彼は唇を噛む。そして視線を戻す。

 ヘラは目を開けていた。そして首を気怠げに傾け、何処かを見ていた。いや、何処も見ていなかったのかもしれない。口を緩く閉ざし、表情一つ変えずに、時々面倒くさそうに手の位置を変えていた。

 だがその表情がふと動いた。眉が軽く寄せられると、ひどく悔しそうに目が伏せられる。手が一瞬固く握られ、そして緩められる。

 心臓が、もう一度、跳ね上がった。……いやそれだけではない。自分の中で、何かが、熱く、わき上がるものがあるのを、彼は感じていた。ひどくそれは不本意だったが、確かに自分の中で、うずき、広がり出すものがあることがあるのを。

 彼は思わず口に手を当て、かがめていた身体を起こした。


「どうしたの? 顔色が悪いよ」


 目の前の相手と、視線が合ってしまう。彼は慌ててそれをそらそうとする。この動揺を、知られたくない。いやもう、知られているだろう。だが、これ以上は。

 しかしそれが甘い考えであることを知るのに時間はかからなかった。


 どうして音も立てずに、この男は動けるのだろう。


 そんな疑問が無意味に頭の中を横切る。その間にテルミンは自分の手が再び掴まれていることに気付いた。しかしそれに気付いた時には、身体がゆっくりと後ろに傾いでいたのだ。

 ゆっくりと沈められた床の上に、ほこりが立つ。けほん、と彼は一つ咳をした。


「何を…… するんです」


 彼は声をひそめた。下手に大声を出したら、階下の彼らに気付かれるかもしれない。その間にも、テルミンにのしかかる男の手は、ゆっくりと彼の軍服に斜めに掛けられたベルトや、幾つもきっちりと留められているボタンを一つ一つ外し始めていた。


「何をって? 君はそこまで頭が悪かったかな?」


 スノウはひどく当たり前の様にさらりと言う。言いながら、彼のかっちりと留まった襟元のボタンを外した。途端に喉のあたりに新鮮な空気が通り抜ける様な気がした。楽になった呼吸をその上から塞がれる。

 彼はもがいた。だが男の腕が、いつの間にか彼の頭の後ろを抱え込んでいた。身動きができない。幾度も幾度も、唾液混じりの深い口接けが繰り返される。今までに感じたことの無い程の、強く深く濃厚な。


「それに」


 触れられる感触に、彼はぞくりと背筋が冷たくなるのを感じる。


「どうしてこうなっているの?」


 彼は視線を逸らそうとする。逃げたかった。だけど逃げられなかった。指摘される事実に、彼は撃ち抜かれたかの様にびくん、と頭を後ろに逸らした。


「好きなのだろう? 彼が」

「……え」

「違うの?」


 好き?


 考えたこともない単語を、目の前に差し出されて、彼は戸惑う。一体誰が、誰を好きだというのだろう。


「君は、テルミン、あの首相の愛人が、ヘラという名をつけられた彼が、とても、好きなんだ」


 事実の確認の様に、スノウは一つ一つの言葉を突き付ける。


「……違う……」


 彼はようやくそんな言葉だけを絞り出す。首をいやいやという様に横に振る。


「じゃあどうして?」


 彼は与えられる感覚に目をつぶる。だが目をつぶると、先刻の光景が、浮かび上がる。無気力な瞳。何処を見ているのか判らない、遠い視線。広がる巻き毛。伸ばされた華奢な身体。


 ひどく悔しそうな、表情。


「ほら」


 くくく、と相手の笑う気配がする。彼は唇を噛みしめる。薄く開けた目に、涙がにじんで、視界がぼやける。

 ひどく悔しくて、胸の奥が締め付けられる様に痛い。今さっき見たばかりの光景を思い出すごとに、自分の欲望が形になっていく。こんなことは、初めてだった。そしてそれが自分の中で熱く、よどんでいる。

 止められたくしゃみよりも、見つからないかゆみの場所よりも、それは彼を追い立てる。そしてあふれそうな感覚が集中する。彼は知っている。どうすればこの感覚を散らすことが、冷ますことができるか。

 びく、と彼の肩が動く。あ、と漏れる声とともに、彼は自分の中の何かが壊れる音を聞いた。

 腕を伸ばし、相手の首にしがみつき、端正な顔に顔を近づけた。そして彼は、解放の呪文を口にした。


 好きにしてくれ、と。


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