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4.-②

 やや駆け足気味で、そのまま最寄りの小さな扉をくぐり、芝生の上を斜めに突っ切ると、彼の勤務先の首相官邸の裏口へ出る。そこに着く頃には、駆け足もゆるみ、呼吸を整えつつある。結構このタイミングというのが必要だった。呼ばれたからと言って、すぐに扉を開けると、結構とんでもない光景に出くわすこともあるのだ。

 一度、やや早めに戻ってしまい、扉を開けたら、ちょうど彼の警護すべき相手は、シャツに腕を通すところだった。まあそれだけだったら構わない。ただ、そのシャツを通す腕も肩も、所々に赤い染みが散っていたのである。

 無論彼は、自分の警護するヘラという青年が、首相の愛人であるということはよく知っていた。本人は「囲い者」と言っていたが、テルミンから見れば、首相の家族にも等しい相手である。

 だがそれでも、その「愛人」という言葉の持つ生々しさは、なるべく気にしないようにしていた。なのに、たった一瞬の姿が、彼の中にひどく波風を立てるのだ。

 だが彼にはその理由が判らない。

 考えてもどうしても判らないことは、保留にしておこう。それが彼の姿勢だった。考えて立ち止まっていては、この軍隊という組織の中ではやって行きにくいこともあるのだ。

 そんなことを頭の隅に置きながら、官邸の廊下を歩いていた時である。見覚えのある姿が、前からやってきた。そしてやあ、と片手を軽く上げる。


「こんにちは」


と彼は軽く頭を下げて、その場を通り過ぎようとする。

 相手もまた、にっこりと、やや目を細めて笑うと、彼の横を通り過ぎて行った。

 帝都からの派遣員だった。名をスノウという。少なくとも彼はそう聞いた。



 テルミンがスノウという名のその派遣員に会ったのは、あの図書館の地下書庫の「休憩所」だった。もう最初に出会ってから、半年を軽く越えている。

 もうそんなになるのか、と彼は時々考える。「そんなになるの」に、顔を会わせなかった日が殆ど無い。

 「派遣員」というのはそんなに暇なのだろうか。

 彼は他愛ないことを考えて、首を横に振る。

 そんな筈は無い。何せ、「帝都からの」派遣員なのだ。


 帝都。


 この現在の人類の居住星域を支配している「帝国」の唯一無二の首府。長い戦争に勝って政権を取った、不老不死の「皇族」とその「血族」が住んでいる都市。

 ただ、その帝都政府が直接にそれぞれの星系を治めるということは少ない。数少ない「皇族」が治めるには、この居住星系は広い。広すぎる。

 広すぎるから、直轄地以外のそれぞれの星系は、距離や歴史を考慮された上で、一応の独立した政府を持つ。

 レーゲンボーゲンも、その例に漏れない。

 形として、民間人が政治を取り、軍部がそれを守るという文民統治を守る、独立した政府が長い間この二つの惑星を統治してきた。


「でもね、そんな風に、こんな辺境の星系が一つの政体で居るということはひどく珍しいし、難しいことなんだよ」


 とある日派遣員は彼に言った。


「仮想敵として帝都があることが、一つの政体であるための歯止めになっているのさ」


 それを聞いたテルミンは眉を寄せた。何ってことを語るのだろう、と彼は思った。



 だがテルミンは社会の仕組みを考えること自体は好きだった。

 士官学校の生徒だった頃も、暇を見つけてはそんな内容の本を読んでいた。士官学校では、そんなことはまず詳しく教えない。だったら興味のあることは自分で調べるしかなかったのだ。

 まあ趣味の一つである。趣味の一つにすぎない。

 例えば文民統治の原則の中、政府にも軍にも顔が利く機関がある。

 科学技術庁である。

 その理由は、この星系に人類が居住を定めた経緯から始まる。

 この星系において居住可能な惑星はアルクとライ。

 その時地質学者や生物学者は疑問に思った。何故この環境で大型の生物が存在しないのか。居住に適した大陸の気候は温帯のそれに近いというのに、何故荒れ地が多いのか。

 その理由はライにあった。

 この二つの惑星は、大きさも地質成分もさほど変わるものではない。ただ公転速度と自転速度、地軸の傾きが違う。

 ライはアルクよりほんの少し外側を回り、ほんの少し公転スピードが速い。二つは、並んで動く訳ではない。

 よって接近する時にはそれぞれに多かれ少ながれ影響がある。

 赤道付近にしか居住可能区域が無いとされているライはともかく、アルクにおける影響は問題だった。

 植民初期時代、ライは再接近から五年程経っていた。その時点で、次の再接近が三十年以内ということが計算されていた。

 再接近のもたらすのは地震なり火山の爆発なり、台風の類であり――― いずれにせよ、森や林が育つことができない災害である。

 よって、それがいつ何処にどんな影響をもたらすのか、その情報は政治や軍事を越えて最優先となる。

 学者達の私設専門機関は、やがて公式科学技術庁となり――― 他の事情もあり、のちには帝都政府との直接交渉もするようになる。

 そして、テルミンに最近ちょっかいをかけてくる派遣員は、直接交渉を政府や軍部、そして科学技術庁とするお偉方だった。

 通常なら、テルミンごときが近寄ることができる存在ではない。だが逆は可能だ。何の意図があるのかは判らないが。

 テルミンはただの気紛れであることを願う。

 何せ、趣味に過ぎない資料を読みふけっていた時に、その派遣員は声をかけてきた。その資料を読んでいた自分「個人」に、どうやら興味を持ってきたらしい。

 困ったことだ、とテルミンはそっと溜息をついた。


「それは大変なことだな……」


 彼の上司であるアンハルト大佐は、図書館で出会った、という話を聞くと、ひどく驚き、思わず手にしていたカップの持ち手を砕いてしまった。

 だがおっと、と言いながらカップ自体を掴んで落とさなかったのは立派だろう。


「どうしたものでしょう」


 テルミンは訊ねた。

 訊ねたこと自体に、実は多少彼の中にも思惑があった。

 一つは、聞いたことで、判断の責任を上司に任せた、ということ。

 プライヴェイトな知り合い、で済む相手ではないと彼も理解している。だから後で見つかってあれこれ言われる前に、上司に相談する、という形を取った方がいい、と彼は考えたのだ。

 そしてもう一つは、本当に自分自身でいまいち良い解答が出せなかったからである。正直、誰かの意見を聞きたかったのだ。

 そしてアンハルト大佐はひどく簡単にこう言った。


「悪くはないんじゃないか?」

「そうですか?」

「悪い人に見えたかい?」


 テルミンは首を傾げた。悪い人にはまあ見えなかった。だからその通り答えた。


「ではいいじゃないか。帝都のことなど、色々君も学ぶべきところもあるだろうから、向こうが話しかけてくるようだったら、話してみればいい」


 そういうものだろうか、とテルミンは思ったが、それもまた一理あったので、そうすることにした。ひとまずそこで判断の重みは半分に減る訳である。

 だが、判断を半分放棄したつけはいつか回ってくる様な気もしていた。

 何かが彼の中で、引っかかっていた。それが何なのか、彼もよくは判らない。そしてそれは、今でも彼の中で引っかかっているのだ。

 派遣員スノウは、図書館以外ではまるで他人の様にふるまう。いいところ、「近所に住む顔見知り」くらいだった。

 実際そうだった。この派遣員もまた、このひどく増殖し、迷宮の様な官邸に一室をもらって住んでいるのである。近所と言えば近所だ。

 そしてその「ご近所づきあい」はまだも続いていた。すぐに飽きるだろう、と思ったのは彼の誤算だったのだ。

 もっとも、彼自身、その「ご近所づきあい」が決して嫌なものでなかったのも事実である。

 嫌なら、とっくにやめている。彼は自分にそういうところがあることもまた、よく知っていたのだ。


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