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2.-④


「あ、すみません」


 書庫の通路は狭い。だから人とすれ違うと肩が触れ合うことがある。相手は無言で首を縦に振る。


 あれ?


 ふとテルミンは立ち去って行くその人物の色合いに違和感を覚えて立ち止まった。両手に積まれた資料が急に重みを増す。

 少なくともあの色は、レーゲンボーゲン星域の軍服ではなかった。濃青では、ない。

 この時代、帝都直轄の正規軍の軍服はカーキに赤のライン、と決められていたが、星系によっては、独自のデザインを採用する所もある。特に辺境の星系になればなるほど、その傾向は大きい。

 この星域の軍服は、濃青だった。しかも詰襟の正規軍に対し、ここでは開襟である。その上に階級章は華々しく存在を主張する。大きなダブルのボタンも、ラインをきっちり見せつけるようなポケットも同様である。

 膝の曲げ伸ばしが容易であるように、と緩やかなズボンは膝より少し下まであるブーツで裾はきっちりと束ねられている。ブーツの底は固く、廊下を歩くと硬い、乾いた音が響くのが通常だ。

 だがこの場でその音を立てることは何かしらテルミンにはためらわれた。

 この時彼が居た首府中央図書館の地下一階にある書庫は、その日もひどく静かだった。官邸から程近いそこは、テルミンの憩いの場所となっていた。

 地下と言っても、中庭から直接入ることもできることから、圧迫感は無い。そこでは午後から夕刻にかけて、その小庭に面した窓から光が入り込む。

 本や資料の保管庫という場所には、湿気も決して良いものではないが、直射日光はもっと良くない。書庫の何処へ行っても、まず直接光が入り込む所は無い。他の窓は殆ど恒星光の一日中入らない方角に向いている。

 その場所がかろうじて夕刻の光が差し込む様になっているのは、そこが「休憩所」だったからだろう。少なくともテルミンには、そう見えた。

 別段そこが「休憩所」と書かれた看板を下げている訳ではない。ただ、彼にはそう見えたのだ。

 客観的に見れば、そこは「廊下」である。決して広くはない。ただ、その「廊下」の片隅には、何故か少し大きめのテーブルと、椅子が何セットか置かれていた。

 おそらくは、その資料をその場で見る者のために置かれているのだろう。だが書庫を使用する者が少ないのに比例して、その場所を使う者も少ない。

 さすがに中央だけあって、椅子やテーブルのほこりは毎日綺麗に拭われていたが、最初に彼がその椅子に座ろうとした時、ぼん、と椅子のクッションに一度強く手を置いたら、内側に溜まっていたほこりが一気に舞い上がった。

 すると、そのほこりは、きらきらと窓から入り込む夕刻の光に輝きながら、ゆっくりと降りてきた。ほこりにむせながらも、テルミンは苦笑し、妙にその場所が愛しくなった。

 そして彼はそこの常連になった。


 そもそもは、彼に「空き時間」ができてしまったことが始まりだった。

 転属したばかりの新しい配属場所である首相官邸で、彼は最初の日にとんでもない相手と出会ってしまった。そして出会っても構うな、と上官に忠告された。会いたくないな、と彼も思ったのだが。


 なのに、だ。


 友人と飲み明かし、二日酔いとまでは行かないにせよ、いつもより酷使してしまった胃の重さを感じながら職場へ出向くと、ひどく複雑な表情の上司にこう言われた。


「早速だが…… テルミン少佐、君に一つ、特別な職務が与えられた」


 はあ、と曖昧な返事をすると、彼は次の言葉を待った。何かひどく嫌な予感がした。

 そしてその予感は当たった。


「実は、昨日君と出会ったという…… その、あの人物が、君を…… 専用の警備員に欲しい、と言うんだよ」

「……専用の、警備員…… ですか?」


 そうなんだよ、とアンハルト大佐は答えた。


「あの人物って…… あの人物、ですよね?」


 自分で聞いていても間抜けだ、とテルミンは思った。だが「あの人物」としか言い様もないような気もしていた。「首相の愛人」という生々しい言葉を使うには、「あの人物」は自分の記憶の中では、ひどく浮き世離れしていた。


「けど、昨日の今日ですが…… そんなことを一存で決められるのですか?」

「どうだろうな? とにかく昨日、君が帰った後に閣下も戻って来られたから…… その時にでも」


 言いかけて、アンハルト大佐は失言だ、とでも言うように首を横に振った。


「とにかくその辺りは大丈夫だ、ということなのだろう。だから君には済まないが、僕の副官と平行して、その任務についてくれ。君はよく気がつくという報告が、前の部署からも来ているから、僕としても非常に惜しいのだが」

「判りました」


 命令は、命令である。テルミンに逆らう気はなかった。


「警備員、というのは他にも居るのですか?」

「いや、今までは居なかったらしい。閣下が付けろ、というのに、何故か『そんなものは要らない』とばかりにふらふらとしていたらしい」


 テルミンはさすがに眉を寄せた。



「だってさ」


 そしてそれを問いかけると、「その人物」は、あっさりと答えた。


「馬鹿ばっかりだし」

「それは……」

「別に、俺は自分の身くらい自分で守れるよ。それにだいたい俺が誰かなんて、フツーの奴はわかんないし」


 それはまあ、とテルミンは思う。自分だって、信じられなかったくらいだ。この目の前に居る人物が、「首相の愛人」だなんて。


「それで、お前、俺のこと何って聞いてるの?」


 官邸の広い庭の、あずまやの様な場所で、「首相の愛人」ことヘラはそうテルミンにそう問いかけた。テーブルの向こう側、椅子の上にだらしなく腰掛け、ヘラは半ば伏せた様な目で、ちらと彼の方を見る。


「え」

「だってお前、あん時俺のこと知らなかったじゃない。でも今は仕事でここに居るんだし。お前さ、お前の上官に何か聞いているんじゃない? アンハルト大佐だっけ」

「…… 一応…… 首相閣下の……」


 愛人、という言葉はやはりどうしても言えない。だがその隠れた言葉をヘラは引き取る。


「そ。囲われてんの、俺。囲い者。ほら言ってみ」


 テルミンは言葉に詰まった。きちんと掛けた椅子の上、ひざの上に乗せた手が汗ばむのが判る。どう言っていいか判らなかった。


「……ああごめんごめん。いじめるつもりじゃないけどさ」


 大きな焦げ茶の目を伏せる。濃い長いまつげが、影を落とす。

 あの朝には無造作に広がっていた長い巻き毛は、やっぱり無造作にだったが、後ろで一つに束ねられていた。背中の半分くらいあるだろうか。

 そしてその髪と、薄いたっぷりしたシャツに覆われている背中も、ひどく華奢で、薄い。

 テルミンは、自分自身に関しても、決して筋肉質や良い体格とかとは縁があるとは思っていなかったが、どうもこの目の前のヘラという青年は、それとはもっと別種のものであるとしか思えなかった。あの時思った「胸の無い女」というのがやはり近いのかな、と思った。

 だが奇妙なもので、ぱっと見には女性にも見まごう美貌、という形容がぴったりなのだが、近くでまじまじと見てみると、やはり男性以外の何者でもないことに彼は気付く。

 奇妙なバランスが、そこにはあるのだ。一体それが何処から来るのだろうか、彼には判らない。


「何見てんの」


 不意に目を開かれ、テルミンははっとする。


「い、いえ、失礼しました」

「……そういう言い方、俺はやだな」


 へ? と彼はタイミングを外され、心臓が飛び上がるのを感じた。


「何っかやだ。そうゆう敬語、俺に使われたって、敬意なんかこもってないの判るし。やめやめ」

「それでは自分が困ります」


 手をひらひらと振るヘラに、テルミンはすかさず反論する。


「お前が困ったって俺知らないもの。とにかく俺に敬語なんか使うな。聞いていて気色悪い」


 はあ、とテルミンはやはりそこでもうなづくしかできなかった。


「……では…… あなたのことは何と呼べばよろしいのでしょう」

「また敬語だ。まあいいさ、だんだん止めてくれ。ああそぉだな、奴が居る時には敬語。お前の上官とか部下が居る時には敬語。だったらいいだろ?」

「は」

「お前の顔立ててやろうってんだ。この俺が。我慢しろ」


 我慢って。


「とにかく、俺は俺自身を軽蔑してる様な奴等から敬語使われるなんて嫌なんだよ。気色わるい」

「わ…… かりました。で……」

「俺のこと? お前名前聞いてる?」

「ヘラと呼ばれている、と」

「そうヘラ。そう奴が呼んだからな。つまんない名前だ。だけどそう呼ぶんだから仕方ないだろ。お前は何って呼びたい?」


 テルミンはまた黙った。呼び捨てはまずい。いくら何でも。何処で誰が聞いているか判らない。

 だけど「様」なんて付けたら、きっとこのひとはまた怒るだろう。…… 敬意なんか確かにはない。だけど。


「ヘラ…… さん」


 するとヘラはへの字に口を曲げたまま、眉をぽん、と上げた。良くないのかな、とテルミンはその表情の裏側にあるものを読みとろうとする。ヘラは腕を組む。首をかしげる。


「ヘラ・さん」


 言葉を繰り返す。ふむ、とうなづく。


「それでいいよ。お前、テルミン、俺と居る時にはそう呼べ。他の呼び方は嫌だ」


 そしてくくくく、と肩を震わせて笑った。


「ところでヘラ…… さん」

「何」

「その、何度か口にされた『奴』って…… 」

「決まってるだろ。ゲオルギイの奴だ」


 それが首相の名であることを思い出すのに、テルミンは十秒ほど掛かった。

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