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1.-④


「今日の当番は誰だ?」


 彼がこの地に来て二週間程経った日の事だった。

 毎日、毎朝この言葉が棟の全員が一斉に集められる食堂で飛ぶ。そしてその都度、棟内の各房から二、三人の手が上がる。

 最初の一週間、彼は何のことだろう、と思いながら、決して多くも無く、美味くもない食事を無言のまま口に入れていた。

 味の落ちた穀物は、おそらくは備蓄年月の過ぎたものだろう。野菜はさすがにこの極寒の惑星では、輸送されたものがそのまま天然の冷凍庫の中で保存されるため、一応運ばれた時期の新鮮さはあるのだが、その代わり、解凍不十分のまま、アルクのマニュアルのまま調理されるので、生煮えのことも多い。

 成人男子が労働に耐えられる限界の熱量を補完するためだけのもの。どう見てもそれだけのものに彼には見えた。

 しかしそれでも食事は食事だ。口に入るだけありがたいと言えた。一口一口、できる限り彼は噛みしめて食べる。

 ところが、そのスプーンを持った手が、急に右隣の同室の者に引き上げられた。


「……?」


 彼は目を大きく開け、周囲を見渡す。もう一人、自分の房の人間が並ぶテーブルで、手を上げている者が居た。


「よし。118号房はその二人だな」


 ひしゃげた声が、前方で聞こえた。声の主の下士官は、手袋をした手にボードとペンを持ちながら確認のためだろうか、もう一度手を上げるように、と付け加えた。

 彼には何のことだかよく判らなかった。右隣に座ったビッグアイズは、その呼び名そのままの大きな目を何事もなかったように伏せると、実の少ないスープの腕に口をつけて、ずず、と音を立ててすすっていた。

 彼の居る「118号房」だけでなく、この棟の中には全部で二百程の房が存在していた。

 ただしその房全てに人間が住んでいる訳ではない。できるだけ施設は使わないように、というのが当局の方針らしい、と彼は時々耳にする噂から気付いていた。従って房には幾つも、幾十もの欠番がある。

 房だけでない。「棟」――― 一つの箱のような建物にしても、この地に建てられているのは十程もあるというのに、実際に使われているのは、彼の居る棟とその隣、二つしか無い様だった。

 数日作業に出かけるうちに、彼はそのことに気付いた。有刺鉄線で巻かれた壁の外へ、彼等は定められた「昼時間」中、分厚い防寒着を身に付けて作業に出かけるのだが、その棟から人が出てくる気配は無い。「昼時間」で無い限り、人間が屋外で作業をするのに耐えられるものではない。時間差で作業をしているとは彼には思えなかった。

 朝食の後、外への作業に出ようと、ベッドの上の防寒着を彼は手にする。すると同じベッドの空いた中段に服を置くリタリットと顔を合わせた。よ、と金髪男は片手を上げる。


「ちゃあんといつもよりしっかり着込んでくんだよBP。『御指名』受けたんでしょ」

「『御指名』?」

「あれ知らね?」


 リタリットは腰に手を当て、へらり、と口元を歪ませた。


「オマエさっき手ぇ上げてたじゃん」

「あれは…… ビッグアイズが」

「でも上げたのはオマエよ。まあいいんじゃないですか。一緒なのはヘッドだし」

「彼が」

「何、ロコツにほっとした顔して。オレは嫉妬するよ? BP」


 そう言われても。両方の眉を大きく上げて冗談なのか本気なのか判らない表情をしているリタリットに、彼はどう答えていいものか判らなかった。

 実際この男は、最初からさっぱり判らないところがあるのだ。この呼び名だってよく判らない。どうして自分がこう呼ばれなくてはならないのかも、彼にはさっぱり判らないのだ。

 だがこの金髪男のおかけで、他人が見た自分の容姿に関しては少しは判る部分もあった。何せこの房の――― いや、棟の何処にも、鏡というものが一つも見あたらないのだ。

 記憶を失った彼には、自分がどんな姿をしているのかすら予想がつかない。リタリットの言葉によると、黒い髪に黒い目。それにどうやらここの雪焼けした連中よりは顔の色は白いらしい。

 それに加えて、信じられないことだが「かあいらしい」などという形容詞までもらっている。訳が判らない。


 そして訳が判らないと言えば。 


 この房のリーダーであるらしいヘッドに、自分をもらう、と宣言したこの金髪男そのものが、全くもって判らない。

 頭の芯がまだはっきりしていなかったせいなのか、ああそういうものなのか、とあれからすぐにやってきた消灯時間に、彼は確保した自分のベッドではなく、金髪男と一緒に居た。

 だがだからと言って何かあったという訳ではない。彼自身も何かがあると思った訳でもない。後になってみれば、やっぱり奇妙な気もする。だが、その時金髪男が言ったのは、こうだった。


「は~やっぱり暖かいほうがよく眠れるなー」


 俺は犬か、と彼は二人分の夜具をかぶり、その中で抱きしめられているという状況なのに、そう思わざるをえなかった。

 実際、数日経つと、その意味がよく判った。自分達だけではない。周囲でも、一つのベッドに二人で潜り込んでいる場合が多かった。

 だがそこにはそれ以上の意味は無い。抱き合って眠るが、「抱き合って眠るだけ」である。

 消灯時間が過ぎると、部屋の中はそれまでより寒さが一層増す。部屋の中の人間が動く熱量も、弱かろうが何だろうが、電灯の灯りのもつ熱量も、それらが無くなる時間には、はじめから氷点近い部屋は、それ以下にどんどんと下がっていく。

 部屋の隅に一つだけある水道から漏れた水は、ただ白いだけの衛生陶器の表面を凍り付かせ、そして落ち損ねた水を氷の粒にする。

 そんな中で、配給された夜具だけで眠ることは、凍死を意味する。

 サイズの関係なのか、人間的に問題があるのか、運悪く独り寝を決め込まなくてはならない者は、昼間の防寒服と夜具とを組み合わせて、蓑虫の様な格好で眠る。それよりは人間の体温の方が、よっぽど安定して互いの身体を暖める。狭苦しいとか寝相がどうとか宗旨がどうとかと言ってる場合ではない。

 だから頭がぼうっとしていたのが幸いしたのだ、と彼は思う。最近いきなりこの男にそんな風に言われたなら、自分はひどく警戒するだろうと。


 何故なら、このひどく人懐こい男の目は、いつも決して笑っていないのだ。


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