いざ、こうして対面するとなにから話していいのか分からない。
思い返すと、俺はいつから母さんとちゃんと話していなかったのだろう。
自分の意思を殺し、母さんの言うことばかりを聞くようになった。だから、自分の気持ちの吐き出し方を忘れてしまっているような気がする。
「……あなた、ちゃんとご飯は食べてるの?」
俺を見ていた母の目が、俺とぶつかった瞬間にすっと逸らされた。
長い沈黙を破る言葉がそれなのか、と思いながらもこの流れに乗らなければ前に進めないような気がして、雑談に応じることにした。
「それは大丈夫。それなりに上手くやってるよ」
「……そう」
そして、再びの沈黙。
言葉を交わしたのは一瞬だけで、やはりすぐにこうなった。
こういうときに助け舟を出してくれるのが双葉の役目ではなかろうか、と彼女のほうを見やるとすんとした顔でただ流れを見届けている。その表情からは手助けしないという意思が伺えた。なんでだよ。
けど、仕方ない。
もとより、これは俺と母さんの、親子の問題なのだ。
「ごめん」
そう思ったとき、自然とこの言葉が口から漏れ出た。
まず俺が母さんに言わなければならなかった言葉はきっとこれだと思ったから。
息子からの突然の謝罪に、母さんは困った顔をした。母のあんな顔は初めて見た。
「……突然あなたが出ていったとき、何事かと思ったわ」
ぽつり、と。
かすかな物音でかき消されそうな声で母さんがそんなことを言った。
「……」
俺はこれまで、ずっと母さんのご機嫌を伺ってきた。逆らえば機嫌を損ねて俺に当たってくる、ということが続いたからだ。結局辛い目に遭うのが自分であるのならばそれを回避する手段はなんだろう、と子供ながらに考えた結果がそれだった。
けど、限界が来て家を出た。
母さんには何も言わず、何も残さず。
文字通り、姿を消した。
「最初、私の中に込み上げてきたのは怒りだったわ。今思えば、自分でもどうかしてたけど」
自嘲するように笑う。
その発言から、やっぱり母さんの中で何かが変わったことが伺えた。
俺はそのまま母さんの言葉に耳を傾ける。双葉も言葉は発さない。
「思いつく限りの場所を探したし、人にも尋ねた。見つけたら引っ叩いてやろうっていう一心だったわ。けれど、数日経って、どれだけ探し回ってもあなたを見つけられなかったときに、ふと昔のことを思い出した」
「昔のこと?」
俺が反応すると、母さんはええと頷いた。
「まだ小学生くらいだったときかしらね、あなたが迷子になったの。どれだけ探しても見つからなくて、本当に心配して。見つけたときには心底安心して……同時に、怒りもあったんだけどね。どうしてこんなに心配させるのって」
俺には覚えのない記憶だ。
子供だったし、迷子になることは何度もあった。俺にとっては幾つもある迷子の中の一つでしかなくて、けど母さんにとってはそういう大事な記憶として残っていたんだ。
「どうして遠くに行ったのって怒ったら、あんたは『勉強が嫌だった』って泣きながら言った。そんなこと、これまで全然言ってなかったのに。きっと、あなたは自分の気持ちを言葉にするのがあまり得意じゃなかったのね。だから、言えなかった。言えないまま、溜め込んだ。そして、それが爆発してしまった」
俯いていた母さんが顔を上げて俺を見た。
そのときの表情は、俺の知っている母としての優しい笑みだった。
「逃げ出したくなるくらい、私が追い込んでいたのね。そのときのことを思い出して、私が間違っていたんだって分かったの。それを理解したとき、これまで自分のしてきた過ちに気づいていった……」
母さんは再び顔を伏せた。
まるで目の前にいるもう一人の自分から目を逸らすように。
「母さんは女優で有名になることを夢見てた」
「……」
「けど、その夢は叶わなくて。だから母さんは、俺にその夢を押し付けた……」
自分の中にあるぐちゃぐちゃになっている感情を、一つひとつ言葉にしていく。
母さんはまるで心臓を針で刺されたように表情を歪め、「ええ」と短く頷く。
「最初はそれでも良かったんだ。俺が頑張ったら、母さんが喜んでくれたから。けど、少しずつ母さんは変わっていって、俺がそれについていけなくなって。そうやって徐々に俺達はすれ違っていった」
ふう、と息を吐く。
当時のことを思い出すと、今でも胸がぎゅっと痛くなる。
中学生になる頃辺りは、中でも特に辛い記憶がある。
「上手くできなけれは母さんは俺に暴力を振るうようになった。飯を抜かれることだって。けど、俺はどうすることもできなくて、ただ謝るだけで。何を言っても仕方ないから、俺は母さんの機嫌を損ねないように、ただ言うことを聞き続けた。そして……」
俺の中の感情が瓦解した。
母さんがきゅっと唇を噛む。
どうしてか、そんな母を見て俺の心もズキリと痛んだ。
「紘の言っていることは全部正しいわ。私はあなたに自分の夢を押し付けていた……。私が果たせなかった夢をあなたに叶えてもらうことで、自分の心を満たしていた。だから、上手くいかなくなったとき、どうしていいのか分からなくなった。いつしか私は、あなたは息子ではなく、自分の分身のように思っていたのかもしれない。だから、どうしてやれないのって苛立ち、怒りに身を任せてしまっていた」
肩が震えていた。
母さんはこんなに小さかっただろうか。
目の錯覚に違いないけど、俺は目の前にいる母さんの小ささに目を見開いた。
そして、再び心が痛む。
「ごめんなさい、紘。私が間違っていたわ」
母さんはそのまま頭を下げた。
その瞬間に、俺は自分の胸の痛みの正体に気づいた。
さっきからズキズキと感じる刺されたような痛みは、母の辛そうな顔、頭を下げる姿を目にしたからだ。
あれだけ憎んでいたのにな……。
いざこうして向き合えばこれだ。
「もういいよ。俺こそ、心配かけてごめん」
俺が家出をしたことで。
一度距離を置いたことで、母さんが気持ちを入れ替えてくれたのであれば、やっぱりそれは良いことだったのかもしれない。お互いに冷静になって、頭を冷やす時間が必要だったのだ。
俺は母との関係について考え直すことができたし。
母さんは自分のやってきたことについて考えてくれた。
そして、今こうして互いが気持ちを吐露して謝っている。
「……ありがとう」
噛みしめるように、絞り出したような声で母さんがそう言った。
ちょうどそのときだった。
「お待たせしました。ブラックコーヒーとカフェオレ、それからクリームあんみつになります」
少し前に済ましていた注文の品が届いた。
緊張の糸が切れるように、俺と母さんの表情から力が抜ける。
「……いただきましょうか」
「……うん」
ぎこちない、けれどどこか懐かしいような母さんの声。
それに俺はぎこちないながらも、頷いて返す。
「いただきまーす」
これまでずっとだんまりだった双葉がようやく言葉を発した。
彼女の気の抜けたような声が、俺達の緊張をさらに解いてくれた。