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第36話 

 射場さんから連絡をもらった翌日のこと。


 俺は朝早くに目が覚めた。いろんなことを考えていた昨日、眠りについたのは日が変わってからだったけれど、今にも母がやってくるかもしれないと思うと、二度寝する気にもならず体を起こす。


 時計を見るとまだ六時だ。

 俺はもちろん、双葉だって本来ならばまだ布団の中でぐーぐー寝ている時間である。


 結局、昨日いろいろ考えたけど母さんを説得する手段はまとまらなかった。どころか、とっ散らかってしまったまである。


 きっと、一番可能性が高いのはこの場から逃げることだろう。

 海で俺を見たという目撃情報をもとに母さんはここを訪れる。つまり、ここに俺がいなければあの人は振り出しに戻るのだ。もしかしたら当分はここに滞在し、俺の帰還を待つかもしれない。だとしたら、俺は辛抱強く逃げ続けるだけ。


 そうやって姿を隠して、母が諦めたときにここに戻ってくればいい。

 そしたらきっとまた、これまでと変わらない毎日が待っているはずだ。


「……」


 本当にそうだろうか。

 自分で自分に問いかける。


 昨日からずっとこの調子だ。こうやって何も考えが決まらない。

 自室を出て顔を洗いに行く。まずは目を覚ますところから始めよう。


 一階に下りて洗面所へと向かう。

 これだけ広いというのに洗面所と脱衣所が同じなのは相変わらずどうかと思う。本来ならば男女で別れるはずの大浴場も一つだけ。片方が壊れているのは聞いているし、直すほどでもないんだろうけど、たまに事故が起こるから気をつけないといけない。


 事故とはなにか。

 それは油断してぼうっとしながらドアを開けると、いつの間にかお風呂に入っていた双葉と脱衣所でエンカウントしてしまうこととかを言う。


「……」


「……えっと」


 そんなことを考えながら脱衣所のドアを開けたところ、視界に入ってきたのは肌色面積多めの双葉閑だった。事故発生は主に夕方から夜にかけてで、こんな時間に彼女がこんなところにいるなんて微塵も思っておらず、とどのつまりぼうっとしながらドアを開けてしまった。


 どうやらお風呂上がりのようだ。

 ある程度は拭き取っているものの、まだ少し体を伝う水滴。白のバスタオルで湿った髪を拭いているおかげで体の方は無防備だった。幸いだったのは彼女がこっちに背を向けていたこと。


 彼女にとっては幸い、そして俺にとっては不幸なことに……げふんげふん、後ろ姿しか見えなかった。けどその分、後ろ姿はしっかりとこの目に焼き付けてしまった。髪を前に下ろしていたおかげで見えたうなじ、そこから綺麗なラインを描く背中、小ぶりなお尻には思わず固唾を飲み込んでしまう。


 今ここで記憶を写真に現像できるのならばいくらでも払ってやるから人類の科学は頑張ってくれ。いつか見た彼女の前側と合わせて両面コンプリートだけど、前回は湯気であまり見えなかったので次は……いや、次はなくていいや。


「なにか言いたいことは?」


 双葉がめちゃくちゃ怒っている。

 これまで見たことのないような迫力ある顔でこちらを睨んでいた。これは次こんなことがあれば多分命が保たない。というか、今回でさえ危うい。まさか母が俺を見つけたときにはすでにこの世にいないというドラマのような展開になるとはね。


 なんちゃって。


「お手柔らかに」


 俺は目をつむる。

 瞬間、まるで剛速球を受けたような衝撃が頬を襲った。


 数秒経ってから、じんわりとビンタを受けた部分が熱くなり始めた。






 どう言い訳しようか考えながらドアの前で座って待っていると、十分ほど経った頃にガラガラとドアが開けられた。


「ずっとそこにいたの?」


 出てきた双葉が感情の読めない無表情で座る俺を見下ろした。

 お風呂上がりの彼女はシャツにショートパンツと気の抜いた格好をしている。この部屋着っぽい格好は何度見てもドキドキさせられる。自分のスタイルを理解しているのだろうか。理解している上でこの格好をしているのだとしたら、とんだ小悪魔だが。


「顔を洗おうと思いまして」


 目を覚ますのが目的だったけど、それはもう達成されたんだよな。

 ビンタを受けた瞬間、もっと言えば彼女の後ろ姿を見た瞬間に眠気なんて吹っ飛んだ。


「そ。食堂で待ってるから」


「……はい」


 双葉と入れ替わりで脱衣所に入り、顔を洗い歯を磨く。


 こうして完全に意識が覚醒した俺は鏡に映る自分の顔を見た。ビンタされた頬がまだ赤い。じんわりと痛みもあるので、これはまだまだ続きそうだ。


 赤くなった頬をさすりながら脱衣所を出た俺は、双葉が待つ食堂へ向かう。

 しかし食堂に彼女はおらず、どうしたことかと思っていると隣接しているキッチンのほうから空腹を刺激する美味しそうなにおいが漂ってきた。そちらに向かい、キッチンを覗き見ると、エプロンを装着した双葉がフライパンを振っていた。


 声をかけるべきか悩みしばらく扉のところで眺めていると。


「いつまで見てるつもり?」


 と、視線をフライパンに向いたまま、双葉が声をかけてきた。

 気づかれていたのか。この子、後ろにも目が? なんてベタなりアクションを取りつつ。


「いや、なんと声をかけていいか分からず」


「暇ならお皿を用意してちょうだい」


「あ、はい」


 言われて、お皿を準備する。ちらと手元のフライパンを覗き見ると、ベーコンエッグが二つ調理されている最中だった。よく見ると、トーストもセットされている。どうやら俺の分の朝食も準備してくれているようだ。


 怒ってないのかな。


「あの、さっきはごめん。わざとじゃなくて」


「分かってるわよ。私も、あなたがこんなに早起きしてくるとは思ってなかったし」


 彼女はそうは言いつつ、一向にこちらを見ない。視線はフライパンに向けたまま手を動かし続けている。一瞥くらいしてもいいのに、と思う。


「けど、怒ってないか?」


「怒ってないわよ」


「本当に?」


「しつこいわね。なんでそう思うのよ」


 双葉は火を止めて準備したお皿にベーコンエッグを乗せる。


「だって、さっきから全然こっち見ないから」


「これまでもこんなものだったわよ。あなたの顔見てもつまらないもの」


「それはそれで普通に凹むんだけど……」


 焼けたトーストもお皿に盛り付けていく双葉は俺のぼやきを聞いて口を噤む。


「……のよ」


 そして、震える声でなにかを呟いた。


「えっと、なんだって?」


 俺は聞き返した。なにかを訴えかけていたのならば、ちゃんとそれを聞くべきだと思ったからだ。しかし、彼女は再び絞り出したような声でなにかを言う。


「ごめん、聞こえなかった。もっかい……」


「恥ずかしくて顔見れないって言ってるの! 言っとくけど、こっちは裸見られてるんだからね?」


 顔を赤くして、視線は下に落としたままヤケクソにでもなったように声を張り上げた双葉に驚き、俺は言葉を失った。


 数秒、沈黙が起こる。


「ご、ごめん……」


 俺が絞り出したのは、もう何度目かも分からない謝罪だった。

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