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第35話 上村ハナエ

 上村ハナエの名前を知っている人はほとんどいないだろう。


 俳優としてデビューは果たしたものの、主役級の仕事をもらうことはなく、そのまま次の世代の波に呑まれ消えていったからだ。


 それは芸能界では別に珍しいことでもないらしい。

 目立っていないだけで、そういうことは当たり前のように起こっている。そのまま引退していく人がいる一方で、路線を変えて再出発する人、コネを使って足掻く人、それぞれのやり方で芸能界にしがみつく人もいる。


 上村ハナエ――本名は上村花恵。

 彼女はその後、一つの命を身ごもった。


 相手は芸能界の誰からしい。らしい、というのは彼女自身、誰なのかを把握していないからだ。

 事情は詳しく知らない。訊いても教えてくれなかったからだ。


 まあ、何となく予想はつくけれど。


 ともあれ。


 そんな経緯でこの世に生まれてきたのが俺、上村紘である。

 平凡な環境で育ち、平凡な生活を送ったとはとても言えない人生の始まりに俺は戸惑った……というわけでもなく、何も知らない俺にとっては目の前にあったすべてが当たり前なのだから無理もない。俺が自分の置かれていた環境に疑問を抱くのはそれからまだ先のことだ。


 四歳の頃だったか、五歳の頃だったか、詳しい年齢はもう覚えていないけれど、母に言われれるがまま子役のオーディションを受け、偶然それに受かり、俺は早くに子役デビューを果たした。


 それから、俺はその世界で戦い続けた。

 母がそれを望んでいたから。


 俺が頑張れば母が喜ぶから。

 そんな思いで続けていた俺だったけれど、そのモチベーションだっていつまでも続くわけじゃなかった。


 いつまでも同じ実力で戦えるほど甘い世界ではなく。

 努力を強いられる日々が続き、それでも結果が伴わなければ罰が下る。


 その頃にはもう、母に喜んでもらうためという気持ちは微塵もなかった。

 俺の中にあったのはただ、母に怒られないため。自分の身を守るためという気持ちだけだった。


 子役時代を終えても、ありがたいことに俺に仕事はあった。

 小学生のときも、中学生のときも、それなりに仕事はあって。


 その間は母さんも機嫌が良くて、まあいっかと思うくらいの生活が続いていて。


 けれど。


 街中を歩くと見かける、普通の学生。

 放課後に友達と買い食いをして、ゲームセンターに寄って、ファミレスで夜までくだらない話をしながら馬鹿みたいに笑っている姿を見てると、俺の中に違和感が生まれた。


 違和感ではないか。

 欲望、と言ってもいい。


 目を覚ませば仕事、学校が終われば仕事、学校の途中でさえ仕事、休みの日だって構わず仕事。ありがたいことなのかもしれないけれど、子供の俺にとってはそうではなかった。


 普通の人が憧れる芸能界。

 けれど、俺はその普通の人に憧れた。


 どこにでもありふれているような、平凡な毎日が欲しかった。

 ほんの少しずつ、積み重なっていく不満。


 それが長い年月をかけて、倒壊したとき。




 俺は逃げ出した。



『最近ネットは見ていなかったのか?』


「ええ、まあ」


 この町ではあまりスマホは意味をなさない。

 周りが持っていないので、ゲームをするかネット検索をするか、その程度。

 タブレットで動画を観ることはあったけれど、双葉と過ごすようになってからは彼女との交流の時間もあり、スマホやタブレットに触れる時間は減っていた。


 まして、最近は魔女のこともあって、より一層俺の意識はスマホから遠のいていたのだ。

 もちろん、魔女の呪いについて調べたりはした。けど、有意義な情報は流れていなかったこともあって、触れることはなくなっていったのだ。


『少し前、君の目撃情報がネットで流れていた』


「目撃情報?」


 俺が三日月町にいることは射場さんくらいしか知らない。

 この町の人たちはあまりそういう事情に詳しくないからか、俺の過去を知る人はいなかった。


『友達と海で遊んでいるところを撮った写真だ』


「……」


 言われて、思い当たる。

 あれはクラスメイトと海に遊びに行ったとき、他県から訪れる人もいて海は賑わっていた。


 そのとき、俺の存在に気づく人がいて、すぐにその場を離れたんだけど、それ以外にも声に出さずに気付いた人がいたのか。その人が写真を撮って、ネットにアップした。


『花恵さんがそれを見つけたんだ。場所を特定し、そしてそっちに向かった』


「どうして射場さんがそれを知ってるんですか?」


『詰め寄られたのさ。君にそんなことをしてあげるのは、僕くらいしかいないと思ったんだろう。もちろん、白を切ったけれど、きっと通用していないだろうね』


 ふふ、と射場さんはおかしそうに笑う。


『突然目の前に現れたとあればどうしようもないだろうと思い、こうして君に情報を連携したというわけさ。出発したのは少し前だから、そっちに到着するのは明日になるのは間違いないだろう。その間に君はどうするか考えるといい』


「……どうするか?」


『そうさ。花恵さんに捕まれば、君は元いた場所に連れ戻されるかもしれない。海に遊びに行くような友達との別れを余儀なくされることだってある』


 母は女優になりたかった。

 誰もが知るような有名な女優。


 けれど、その夢は叶わなかった。


 だから、その夢を俺に託した。いや、託したなんて言い方はされたくないな。あの人は俺に自分の夢を押し付けたのだ。俺に自分を重ねて、俺が活躍することで自分の中にあった何かを解消していた。


 きっと、見つかれば俺の事情なんてお構いなしに連れ戻そうとするだろう。


『逃げ出すなら今だ。残念ながら、僕はこれ以上の手助けはできないけれどね』


「逃げ出す、か」


 つぶやき、考える。

 気づけば俺は壁の方を見ていた。その先にあるのは双葉の部屋。そこにいるのは、双葉閑だ。


 逃げ出すということは彼女とも別れることになる。

 好きだなんだという気持ちを置いておいても、呪いという問題を放置したままこの場所を離れるなんてごめんだ。


 けど、母さんと話し合いをして、俺はあの人を納得させることなんてできるのか?


 そもそも、話し合いになるのか?


 分からない。


 けど。


「教えてくれてありがとうございます、射場さん」


『うん。どの道を選ぶのも君次第だ。ただ、落ち着いたらまた連絡をおくれよ』


「はい。それじゃ」


 通話が終わる。

 さっき出発したということは明日にはこっちに到着するだろう。


 母は車を持っていないので交通手段は電車かタクシー。距離を考えれば電車を使うはずだから、終電の時間もあるから猶予はあるはず。


 準備をしないと。

 もちろん、逃げ出す準備じゃない。


 あの人と向き合う、心の準備だ。

 俺は今、ここを離れるわけにはいかない。離れたくない。


 双葉のことはもちろんだけど、玲奈や五十嵐、クラスメイト、みんなとお別れしたくないのだ。


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