その日の夜、喉が渇いた俺はキッチンで冷蔵庫から麦茶を取り出しコップに注いでいた。
一杯目を一気に飲み干し、二杯目を注ぐ。それを手にして、隣の部屋にある食事部屋のイスを引いた。腰掛けた俺は昼間、図書館で借りた『私と魔女』という本を開く。
この小説は一人の女子大生を主人公として展開しており、これまでその主人公がなぞっている物語は俺の記憶にあるものと合致する。このまま読み進めていけば、もしかしたら何か新しい情報に出会えるかもしれない。
目の前に現れたバスに、まるで誘われたように乗り込んだ私。
本来ならばあり得ないような行動に、その時の私は違和感を抱かなかった。
空いているイスに座ると、バスの入口扉が閉まる。
そして、アナウンスもないままゆっくりとバスは動き始める。向かった先には山がある。三日月山という山だそうだ。バスが進めるような車道があって、私は車窓から外の景色を眺めながらバスが停車するのを待った。
外は真っ暗で、ほとんど何も見えなかった。
時折、光って見える何か。動物の瞳とかだろうか。それが不気味に思えてならなかった。
五分ほど走り続けたバスは停車した。プシュー、という音とともに私がさっき入ってきた扉が開く。本来であれば精算をするために、出口は運転席横の扉が使われるはず。よくよく考えれば不思議なことなんだけど、そのときの私はまたしても何の疑問を抱かずに開いた扉から外に出た。
バスは来た道を戻っていく。
取り残された私は前を見た。
そこにあったのは大きな洋館。
そのとき、昼間に聞いた女子高生の話を思い出す。
『月光洋館にはね、なんでも願いを叶えてくれる魔女がいるそうだよ』
この中に、その魔女がいる?
私は抑えきれない興奮をそのままにして、洋館の扉を開いた。
赤い絨毯が一面に敷かれていて、外観と比べると内装は少しくだびれていた。
そして、眼前。
まるでここに来る私を待っていたように、黒装束に身を包んだ黒髪の女性が立っていた。
『よく来たね。さあ、あなたの願い事を聞きましょうか』
「……なんかそれっぽい登場だな。俺と双葉のファーストコンタクトは風呂場だったのに」
「呼んだ?」
「うおうッ!?」
読書に集中していた俺は背後の気配に気づかず、急に声をかけられたことでめちゃくちゃ間抜けな驚き方をしてしまった。思わず落としてしまった小説を拾い、後ろを振り返る。
「双葉か。急に声かけるなよ」
独り言の内容は聞かれていないっぽいな。
こいつはあのときのことをなかったことにしたいので、話題にするととにかく怒る。裸を見られているので気持ちは分かるけど、正直言ってあの記憶が俺の脳内から消えることはないだろう。
今でも目を瞑れば思い出す。
お湯で濡れた長い髪、こちらを見る唖然とした表情、心配になるような肌の白さ、体の細さ、それでいてしっかりと膨らみのある胸元も、すべて鮮明に思い出せるぞ。それに、想像力が限界突破しているのかシャンプーのいい香りまで蘇ってくる。
「……なに急に目を瞑って」
「いや、なんでもない」
俺は閉じていた目を開く。
そして、改めて双葉を振り返った。
どうやら風呂上がりらしい。パジャマを着ている。シャンプーの香りがしたのはこれが理由か。そりゃそうだ。俺の想像力はそんな大層なもんじゃないよ。
「その本……」
双葉が俺の手元に視線を落とす。
「昼間からずっと気にしてるわね」
「ああ、まだ全然読めてないんだけどさ、書いてる内容があまりにリアルで」
「リアル?」
双葉は眉をひそめた。
そして、俺の隣のイスを引いて腰掛ける。
さっきまで微かだったシャンプーの香りがダイレクトに俺に漂ってくる。
「ある女子大生が主人公なんだけど、三日月町に来て三日月広場のバスに乗って月光洋館に導かれてっていう話なんだ。具体的過ぎると思わないか?」
尋ねると、双葉は口に手を当てて考える素振りを見せた。
「もし経験をもとに書いているのなら、その作者は記憶が消えていないことになるわね」
「そう。俺と同じ状況ってことになる。だから、この小説を読み進めていけば、もしかしたら何か分かるかもって思ってさ」
「なるほどね。私も少し興味があるわ」
「読み終わったら貸そうか?」
双葉も魔女として気になるのだろう。
もし、この小説に俺達の知らない何かが記されているのだとしたら、彼女も読んでおくべきだ。
「いいわよ。あなたが読む隣で一緒に読むから」
「はい?」
「私もお茶入れてくるからちょっと待ってて」
「あの、それはちょっと」
この小さな小説を?
一緒に読むだって?
俺が動揺している間に、双葉はキッチンに行きコップにお茶を注いで戻ってくる。
そして改めて俺の隣に腰掛け、イスを近づけてくる。彼女の存在を間近に感じ、俺の精神状態はもやは読書どころではないのだけれど。
「さ、読みましょ」
そんな何でもない雰囲気出されたら何も言えないじゃないか。
意識しているのがこっちだけとか恥ずかしいし。
「……ここまでのページはどうするんだ?」
「さっきの説明で何となく分かったし、ここからでいいわ」
気づいた時、私は広場のバス停にいた。
あれ、私、なにしてたんだっけ? 自分に問うけれど、答えは出てこない。
カバンの中にあったメモ帳を手にする。困った時には必ずする行動なので、もはや無意識のようなものだった。
私は気づいたことや疑問に思ったことがあれば、このメモ帳に書き記すようにしている。
『月光洋館の魔女 深夜の三日月広場』
そんなメモが書かれていた。
そうだ、私は昼に女子中学生からそんな都市伝説の話を聞いて、さっそくこの三日月広場にやってきた。何か起こるかと待っていたけど、気づけば時間だけが経過していた?
寝てしまっていた、ということなのかな。
記憶が曖昧で、思い出そうとしてもぼやっとしている。
寝ていたのだとして、けど何か不思議な夢を見ていたような気がする。
けれど、結局思い出せないまま、私は宿に戻ることにした。
「すっかり忘れているけれど?」
「だな。どういうことだ?」
俺と双葉は二人して眉をひそめた。
結局はこれも創作ということなのだろうか。この三日月町にある都市伝説をもとに作られた作り話。けど、どうしてか今でも俺の中にはまだそうと捨てきれない直感が残っていた。
「とりあえず続き読むか」
「ええ」
それからは女子大生が再び町の人に聞き込みをするシーンが続いた。
創作であったとすると、少し単調な展開だった。読者を飽きさせない工夫はなく、本当にただ淡々と会話が続く。これが事実をもとに作られたものだとするならば、納得もできる。
女子大生が月光洋館に行ってから二日が経過した。
手がかりという手がかりが見つからず、諦めの文字が彼女の脳内に浮かび上がった頃、彼女は町で一人の女性を見かける。
長い黒髪。
すらっと伸びた高身長。
白いワンピースがよく似合う綺麗な女の人。
そのとき、女子大生の脳裏にあの時の記憶がフラッシュバックした。
『あの!』
思わず声をかけた女子大生。
振り返ったその女性はやはり、あの日、月光洋館で目にした魔女そのものだった。
「魔女が使える唯一の魔法は記憶の操作って言ってたよな?」
「そうね」
「その魔法を応用して、バス停に来た人を眠らせ、夢の中で願いを叶える。そうして謝儀を受けるんだっけ」
「ええ」
「その記憶が蘇ることってあるもんなのか?」
「……絶対にあり得ない、とは言い切れないわね」
難しい顔で双葉が言う。
数秒、沈黙を作った彼女が再び口を開いた。
「記憶を消すっていうのは実質不可能なのよ。魔女の魔法をもっと正確に言うならば、特定の記憶を奥底に沈めているって感じになるのかしら」
「封印するみたいなことか?」
「そうね、ニュアンスとしてはそういう解釈でもいいかもしれないわ。普通に生活していれば、その記憶が蘇ることはほとんどない。けど、何かをきっかけに思い出すことは十分に考えられる。それは誰にだってあることでしょ?」
何かをきっかけに忘れていたことを思い出すことは確かにある。
脳内の記憶が消えることは決してなく、あくまでも忘れているだけ。魔女は記憶を操作し強制的に忘れさせているだけということか。
「この小説の場合で考えると、主人公の女の子にとって夢の中で見た魔女の姿がよほど印象的だった。そして、見かけた後ろ姿がそのときの光景と重なって、記憶が蘇ったというところかしら。あくまで推測、可能性の話だけれど」
「……俺に魔法が効かなかったのとは、事情が違うってことか」
「そうなるわね。けど、やっぱり読み進めてみる価値はあると思う」
その通りだと思い、俺と双葉は再び小説に視線を落とした。
私はその女性に声をかけた。
振り返ったその女性はやっぱり、あの時見た黒装束の魔女そのもので。
その瞬間に、私はその時のことを思い出した。まるでジェットコースターのようにグオングオン溢れ出てくる。
『あなた、あの日、月光洋館でお会いした魔女さんですよね?』
私がそう告げると、その魔女さんは目を丸くして驚いていた。
そして慌ててこちらに近寄ってくる。
ヒールを履いているから走ることはなく、早足だ。
『あなた、どうして……』
『今、魔女さんの後ろ姿を見ていろいろと思い出したんです』
『その魔女さんって言うのやめてくれる? いろいろと困るから』
本当に困っている顔をする。
嫌がらせをしたいわけではないので、そういうことなら魔女さんと呼ぶのは控えようと思う。私の目的は、あくまでも都市伝説の解明なのだ。
『わかりました。では、なんとお呼びすれば? お名前をお伺いしてもいいですか?』
魔女さんは私の言葉に口を開くのを躊躇った。
けれど、渋い顔を繰り返したのち、諦めたように溜息をつく。
そして。
『私の名前は泉……双葉泉よ』
「双葉……」
作中の魔女はそう名乗った。
それは双葉と同じ名字で。こんな偶然があるのだろうか。
俺は隣の彼女をちらと見る。
言葉を失ったように、目を丸くしていた。俺も驚いたけど、彼女の驚きっぷりはそれ以上だ。
「双葉、泉……」
双葉は魔女の名前を口にする。
ごくり、と彼女の喉が鳴った。
ただ同じ名字に驚いた、というだけではないように感じて、俺は声を掛ける。
「どうした?」
俺が問うと、双葉はゆっくりとこっちを向いた。
そして、躊躇うように間を作り、もう一度喉を鳴らしてから、彼女はこんなことを言った。
「双葉泉は、私のひいお祖母様の名前よ」