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第10話

『紘は私の言うことだけ聞いていればいいの!』


 苛立った怒声に顔を上げると、いつもそこには眉を吊り上げた母の顔があった。


 機嫌が悪くなると、その日の夕食は貧しいものになる。逆に、機嫌が良い日はとにかく豪華だった。それを知った頃から、俺は母に逆らわないようになった。


 言うことはとにかく聞いた。

 機嫌を損ねないよう、常に顔色を伺った。


 そんな生き方をしていたから、俺には反抗期というものがなかった。周りの友達が親にああだこうだと言っているときも、俺はやっぱりただ黙って頷くだけだった。


 だから。

 ある日突然、我慢の限界が来て爆発したのだ。


「……」


 ゆっくりと目を開く。

 嫌な夢を見たな、と思いながら体を起こし見慣れない景色を、まだ働き始めていない脳のままぼうっと眺める。誰かの家に泊まったっけ、とつい疑問に思ってしまう。


 もともと荷物の少なかった俺の引っ越しは何の問題もなく、さくっと短時間で終わった。必要なもの、というか部屋の中にあったものはリュック二つに詰め込めば持ち歩ける程度の量しかなく、家具のほとんどは備え付けのものだったので、本当に難なく完結した。


 学生寮の部屋よりも、用意されていた部屋は少しだけ狭かったけれど、むしろこれくらいの方が落ち着くので俺としては有り難かった。荷物がないので広い部屋だと通常よりも殺風景に見えてしまうのだ。


 ビジネスホテルをイメージしてもらえばいいだろうか。広さ的にはそんなもんなんだけど、ベッドはもちろんインテリアがないので部屋は広く感じた。今は床に布団を敷き寝ているけれど、マットレスくらいは購入しようかと検討している。他にはテーブルと座布団があるだけ。


 窓を開けると外の空気がびゅうっと中に入ってくる。

 部屋は二階で、窓を開けるとすぐに大きな大樹が見える。もしかしたら、ダイブ覚悟で飛べば木から部屋にギリギリ届くかもって感じの距離。落下すれば死ぬか、まあ命は助かっても大怪我は不可避なので、そんな馬鹿なことはしないけど。


 ここに引っ越してきてちょっとだけ面倒なのはトイレや洗面所が少し遠いこと。学生寮なら扉一つ越えたところにあったのに、ここは少し歩かなければならない。部屋を出ると、夢のときと同じようにぐるりと廊下があって、一階に降りる必要がある。


 トイレも風呂も共用なのは双葉的にはどう思っているのだろうか。

 男子には分からんことだけど、女子っていろいろと気にするものだろうに。それとも俺は一切男として見られていないのだろうか。それは悲しいな。一度覗きでも働けば意識してもらえるだろうか。


 ああ、覗きはしてるな。しっかりビンタ貰ってるわ。


「ふう」


 風呂の脱衣所で顔を洗う。

 もともと温泉旅館を想定していたとのことで、そこそこ広めの脱衣所がある。そこからさらに進めば大浴場だ。まあ、言っているだけでそこまで大きくはないんだけど。一般家庭のものに比べるともちろん広いんだけど、大浴場というと名前負けしている気がする。


 いずれにしても、この風呂を独り占めできるのは大きな利点だな。

 もともとは男風呂、女風呂があったそうだけど、理由あって片方しか使えないということで、ここは混浴状態となっている。もちろん、一緒に入るなんてムフフ展開にはなってくれない。


 顔を洗い目を覚ました俺はロビーに戻る。

 本当に旅館のようで、この広さにはまだ慣れない。


 しかも住んでいるのは俺と双葉の二人だけ。本来、こんな広さは必要ない。どうして双葉はこんなところに住んでいるんだろうか。それも魔女が関係しているのか?


「あら、おはよう。ここと学生寮って時差でもあったかしら」


「お前ちょっと寝過ぎだろって言ったら?」


 時刻はちょうどお昼くらい。お腹が空いたのでキッチンの方へ行くと双葉がいた。こちらを振り返った彼女は開口一番にそんなことを言ってくる。


 シャツにショートパンツというラフな格好。学校では見ることのない気の抜けた服装に、どうしてかどきっとする男子高校生な俺だった。しかも、それだけでなく服の上からエプロンをつけて家庭的な一面をアピールしてくるのだから、そのギャップに二度目のドキンが炸裂。


「お昼ご飯はどうする? 簡単なものでいいならついでに作るけれど」


「ああ、じゃあ頼もうかな。女子高生の手料理を食える日がやってくるとはな」


 トントントン、とまな板と包丁がぶつかる音がする。

 俺は何をしていいのか分からなかったので、キッチンの入口のところで立ったままだ。


「上村君は女子高生の手料理童貞だったのね。意外だわ」


「そんな童貞聞いたことないわ」


 しかも、もしそんなくだらない称号があったとしたなら、世の中の童貞率はめちゃくちゃ増えるぞ。


「ていうか、意外か?」


 いちいち話が逸れるような言葉選びをしてくるので、一つひとつツッコんでいたら日が暮れてしまうような気がするけど、どうしても触れないわけにはいかないのだ。


「都会から来たんでしょ?」


 双葉はぐつぐつと沸騰したお湯に細長い棒状のなにかを投入する。白色だったところから、恐らく今日のお昼はそうめんだなと予想した。


「ああ、そうだけど。知ってたのか」


「自己紹介のときにあなたが言ってたじゃない」


「興味なくて聞いてないと思ってた」


「失礼ね。私、これでもちゃんと人の話は聞くタイプの女よ」


 聞いていたとしても、どうでもいい情報と捉えてすぐに忘れてしまうかと思っていた。

 転校からつい最近までの一ヶ月で一言の会話もなかった俺の情報なんて忘れていると思っていたから意外だったのだ。


「んで、なんで都会から来たら女子高生の手料理童貞じゃないと思うんだよ」


 自分で言ってて思うけど、女子高生の手料理童貞ってなに。まじで。

 俺が言うと、双葉はちらと横目で俺を見た。


「あなた、世間的に言えばイケメンの部類に入るでしょ?」


「俺はそれにどう反応したらいいんだよ」


 まあな、とか言ったらナルシストみたいだし。けど、そんなことないよって言うのもちょっと違うような気がする。まあこんなこと思っている時点で若干のナルシストは入っているんだろうけどさ。


「顔は整っている方だと思うわよ」


「そりゃどうも」


「だから、普通にガールフレンドでもいたのかと思っていたわ」


 言いながら、双葉は鍋からそうめんをざるに上げて水で揉み洗いをする。さっさと手際よく進めているところを見るに、普段から自炊をしているんだろうな。


「なんか手伝うことある?」


 突っ立っているだけなのも悪いと思って一応声を掛ける。けど、見ている限り、俺の助力が必要だとは微塵も思えないんだよなあ。


「じゃあ、お皿を出してもらえるかしら」


「どこにあるんだっけ」


「……座ってくれてていいわ」


 双葉は落胆したように言ってくる。昨日来たばかりなんだから知らなくて当たり前じゃないか。これに関しては俺は別に悪くない。はず。悪くないよな?


「教えてくれれば出せますが?」


「大丈夫よ。そこまで面倒でもないから」


 これは本音だろう。そういうことなら大人しく座っているか、と俺は食堂の方へと移動する。


 少しすると双葉がやってくる。

 大きなお皿には冷水につけたそうめん。それから、それぞれの前にめんつゆの入った小さめのお皿を置いた双葉が俺の正面の椅子に座る。そうめんの隣には錦糸卵、きゅうり、ハム、トマトが置かれた平べったいお皿を置いた。


「いただきます」

「いただきます」


 双葉は手を合わせて静かに唱えた。俺もそれに倣う。

 そうめんをめんつゆに漬け、薬味を入れて啜る。

 雑談を交わしながらの昼食。その最中、双葉が思い出したように口を開く。


「そう言えば昨日、言い忘れていたんだけど」


「ん?」


 俺はそうめんを食べていた手を止めて彼女の方を見る。

 昨日といえばこの場所で住むためのオリエンテーション的なものがあった。大層な言い方をしたけど、つまりは館内案内だな。ここはキッチン、ここはトイレ、ここはお風呂場といった感じで説明されたのだ。さほど難しいことはなく、一度聞くだけで理解できたんだけど。


「二階の奥の部屋あるでしょ」


「奥の部屋というと?」


 真っ直ぐな廊下ではなく、四角形のような感じの廊下なのでもしかしたら解釈が異なる可能性があるので、俺は念の為、確認しておく。


「階段を上がって、曲がり角も進んで、進み切ったところ」


「はいはい」


 同じものを想像していたらしい。

 二階は俺が使っていいよと言われた部屋と絶対に入るなと言われた双葉の部屋以外の案内は特に受けていなかったな。


「その部屋は絶対に入らないで」


「それは振り?」


「ガチ」


 声のトーンもマジのやつだったので、これは本当に入らないほうがいいやつらしい。なんだろう、中学時代に描いた黒歴史の自作漫画でも収納しているのか。それとも下着を干しているとか。後者なら入りてえ。


「ちなみに、その部屋は何の部屋なんだ?」


 俺が訊くと、双葉は一瞬言葉を詰まらせ、躊躇うように顔を伏せた。なにかマズイことを訊いてしまっただろうか、と不安になっていると彼女はすぐに顔を上げた。


「母の部屋なの」


 ぽつりと言う。


 きっと、いろんな感情がその一言に込められていたんだと思う。見られたくないものがあるとかじゃなくて、もしかしたら大切な思い出に足を踏み込んでほしくないのかも。


 そんな彼女を見て、俺は入らないようにしよう、と本気で思った。

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