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第5章 蝉時雨、宇野

「懐かしいなあ、これ」

 翌朝のことだ。部室に入ると、白石先生が台本を手に取っていた。『フランチェスカ』だ。私をヴォリエラに連れ出すときとは違い、ごくありふれた様子で、先生の手に収まっている。

「吸い込まれないんですね」

 言ってから、しまったと思った。ヴォリエラは私たち五人の秘密だからだ。

 乙黒先生も含めて、どうして台本に吸い込まれないのかは疑問だった。しかし、改めて考えると、むしろ吸い込まれる私たちの方が不自然だろう。どちらにせよ、白石先生に投げかけるには、あまりに調子はずれな疑問だった。

「ああ、あれだよね。本が手を取ってくれるような感覚」

 ただ、先生は都合の良い解釈をしてくれた。いくら私が場違いなことを話しても、それを修正して、いつも必ず言葉を返してくれる。良い人だ、先生は。

「桜井さん。その『吸い込まれる』感覚、大事にしてね」

 先生が言うには、大人になれば味わえない感覚なのだという。どのような本を手に取っても、心が躍ることもなければ、空想に浸かりきれない。現実に忙しくなってしまうから。

「中学三年生は、無力で不自由で、最も大人に近い子供。だから、私は桜井さんが羨ましいって思うよ」

 その言葉が妙に重く感じられたのは、白石先生が元演劇部だったからだろうか。歳を重ねていくにつれて、空想よりも現実に没頭する機会が増えて、いつしか忘れてしまうのだろうか。それが、恐ろしくてたまらない。

 白石先生は、台本を全て読み終えたかと思うと、また机の中央に置いた。

「色々なものを置き去りにしてでも、一番重要なものを守るために、いつかは鳥かごから飛び立って大人になる必要がある。それが、中学校を卒業するタイミングなんだ」

 思わず目を見張る。鳥かごは、フランも使っていた表現だ。

「それでも『全てを守る方法があるはず』という理想を追い求めて、現実を受け入れられない人のことを、童話にたとえてこう呼ぶんだよ」

 白石先生は、随分前から机の上にある『青い鳥』を、まるで撫でるかのように触った。

「青い鳥症候群。理想なんて、有り得ないからこそ尊いのにね」

 私の頭をポンと叩いてから、先生は部室を後にした。遠ざかる足音を聞きながら、私は昨日の出来事を回想していた。

 鏡花への恋心を自覚した私は、しかし、それを告白するまでは至らなかった。その代わりに、「文劇部を守りたい」という衝動に駆られていた。

 もしも文劇部が一番重要なものだったとしたら、何を切り捨てなければならないのだろうか。まず間違いなく部員ではない。顧問の乙黒先生も違う。ヴォリエラにはフランがいる。部室自体も、私たち文劇部の居場所だ。学校生活は、余り物の私には関係ない。

 となると、何も切り捨てられない。できることなら全てを守りたいものだ。しかし、白石先生の言葉を思い返して、私はまだ子供なのだと知る。いや、そもそも文劇部が一番重要だと決まったわけでもないけど。

 改めて机の上を見る。端の方には『青い鳥』、中央には台本が居座る。古びた本と、真新しい台本のコントラストだ。

 ふと考える。その台本は、もはやヴォリエラに繋がっていないのではないか。私が手に取っても、平然とした顔をして、むしろ私の手に吸い込まれるだけではないか。

 フランとは、もう会えないのではないか。

 居ても立っても居られない。邪推するより、行動に移す方が建設的だ。これからヴォリエラに行けば、まず授業は間に合わないだろう。しかし構わない。

 白石先生の表現を引用しよう。今から私は、授業を置き去りにする。

 台本に手を伸ばした。すぐに吸い込まれる。久々の感覚だ。袖が、肘が、肩が飲み込まれる、この感覚。

 私はヴォリエラに行ける。白石先生は行けない。

 どうして文劇部の私たちだけが飲み込まれるのか。その疑問を持つ頃には、既に目的地へと到着していた。銀と美優はいない。しかし、フランがいる。

「宇野さん、久しぶり。寂しかったです」

 数日ぶりのフランは、依然として優雅な振る舞いをしていた。なびく栗色の髪、漂うたんぽぽの香り、潤った肌。相変わらず綺麗な子だ、と思う。

 ただ、大きく変わったことがあった。ヴォリエラだ。かつては校庭ほど広かったはずの地面は、いつしか八畳の部室ほどに狭くなっている。杉の木も、心なしか縮んでいるように見えた。

 不意に魔法陣を思い出した。魔法陣を描いた次の日、四重丸は跡形もなく消えていた。あれは風に飛ばされたのではなく、ヴォリエラが縮まったことによって、地面ごと消失していたのではないだろうか。そのようなことを考えてみる。

 ただ、ヴォリエラの変化は二の次だ。それよりも重要なことがある。

「フラン。急だけど、話したいことがあるんだ」

 杉に寄りかかりながら、私は切り出した。

「鏡花が財布を盗んでお金を取ったって、みんなから疑われているんだよ。それもあって、鏡花はしばらくヴォリエラに行けない」

 すると、フランが隣に来て、同じように寄りかかった。対等な立場で話を聞きたいのだろうか。そう考えていると、彼女がゆっくりと口を開く。

「疑われていることを聞いて、宇野さんはどう思ったのですか?」

「絶対にしない。信じているから」

 間髪を入れずに返した。なぜなら、本気でそう思っているから。恋心を差し引いても、鏡花は窃盗なんかしないと信じている。昨日「自慢の息子」と口にしていた彼の表情には、一切の嘘も偽りもなかった。

「鏡花さんが来るまで、最後の悩みはとっておきます。なにしろ、『とっておき』ですから」

 くだらない言葉遊びだった。しかし、声が旋律を奏でているかのように美しく聞こえた。フランが声に出したからだろう。それほどまでに、彼女は華のある人だった。

 間もなくして、銀と美優が同時にやってきた。この時間帯に来たのならば、二人とも授業を受けないつもりのようだ。そして、考えることも同じらしい。

「なあ、フラン。鏡花が冤罪をかけられたんだ」

 銀の言葉を聞いたフランは、無垢な笑顔を浮かべた。「考えることは同じですね」と、私と美優を一瞥する。どうやら、美優も同様のことを話していたようだ。

「昨日、二人とも学校休むからだよ。わたし、ずっと部室にいたのに」

「僕は忙しかったんだ。あの夏祭りを振り返るのに」

 銀曰く「鏡花の隣にいながらも冤罪を防げなくて、とても後悔してる」という。それは私も同感だが、射的のときも鏡花と一緒だった銀は、より責任を感じているのだろう。

 少しして、銀が「ヴォリエラが縮んでいる」と指摘する。盲目な人だと思う。私ですら、フランに話しかける前に気付いていたというのに。

「鏡花の停学が終わるまで、みんなで話し合おうよ。わたしたちだけでも、鏡花を信じられる根拠があってほしいから」

 提案したのは美優だ。私と銀も、特に異論はない。フランも一緒に考えてくれるという。味方が少ない私たちにとっては、頭脳が一つ増えただけでも満足だった。

 私は杉に寄りかかっている。左隣にはフラン、右隣に美優。地面に仰向けで寝転がるのは銀だ。茜色を知らないヴォリエラの空が、いつだって私たちを青く照らす。

「そもそも、鏡花が標的にされた理由ってなんだろうな」

「盗まれた財布が清水さんのものなのも、わたしは気になる。『中身が盗られた』って言いながら、まだ二万四千円も入ってたこともね」

「で、それを追及したのが前島か。鏡花の名前を馬鹿にするくらいだった、と」

「前島さんと鏡花さん。元々二人がどういった関係性なのかが気になりますね」

 フランはともかく、私たちは頭の回転が速くない。事実を並べるだけでも、一日経ってしまった。そこで、放課後には鏡花の家に寄って、話し合ったことを共有していた。鏡花は学年で一番成績が良い。そして、頭も回る。

「俺たちの関係性か。クラスも違うし、特にないな。強いて言えば、宇野のことで前島と口論になったけど、夏祭りのときに謝った。小言を言われたけど、許してくれたよ」

 次の日はヴォリエラに戻り、鏡花の言葉をフランに教えた。

「ところで、銀さんは清水さんと前島さんを見たのですか?」

「それが、見てないんだよ。射的のときも鏡花と一緒にいたのに」

「わたしたちが高校生に言い寄られたとき、銀より鏡花の方が遅かったよね。鏡花のことだから、助けることを躊躇したりはしないはず。だって、鏡花は……」

 語尾が下がる美優を連れて、鏡花の家に行く。あまり居座るのもよくないと考えて、三十分から一時間程度話した。

「そうだ、射的が終わったあとだよ。そのときに前島を見つけたんだ」

「清水の姿は見たのか?」

「いや、見てない。前島だけだった。清水の財布だって、拾った記憶すらない」

 帰る途中も、翌日登校する途中も、遠い過去のような思い出を探る。玄関から部室までの廊下を歩く今も、決して例外ではない。

 下を向いて歩いていたから、前にいた乙黒先生とぶつかりそうになってしまった。そのとき、先生も夏祭りにいたことを思い出した。

「清水さんと前島さん。はい、一緒に祭りを回っていたのを見ましたよ。二人とも浴衣を着ていましたね」

 それを聞くや否や、このことを共有するためにヴォリエラへ向かった。

「前島さんとしか遭遇していないのに、清水さんの財布がバッグに入っていた。しかも二人は一緒だった。確かに不思議ですね」

「不思議だよな。自作自演だと思わない限り」

 寝転がる銀が、おもむろに体を持ち上げる。そして、私たちを見ながら口を開いた。

「こんな仮説はどうだろうか。前島は囮役で、清水が自分から財布を入れた」

 彼の肩を持ちたいものの、疑問が浮かび上がってくる。

「抜かれたお金は? 一万円以上抜かれてたんだよ。でも浴衣にポケットはない。手で持ち歩くしかないよね。清水さんのお母さんも、確かに四万円あったって言ってた」

 私の疑問に答えたのは、苦笑する美優だった。

「簡単だよ。自分でお金を抜いて、前島さんに渡せばいい」

「渡すって、一万円以上の大金だよ。友達とはいえ、預けるのは怖いんじゃないかな」

 すると、美優は首を横に振った。

「預けてなんかいないと思うよ」

 預けてなんかいない。その意味を理解した途端、背筋に悪寒が走った。

「俺も、少しは察していた。宇野がベニヤ板を落として、前島が階段から下りてきたときにさ、板を清水一人に任せっきりだったんだよな。女子って怖いなって思った」

 その翌日は、銀の仮説を裏付けるために必死だった。

「いずれは無実を証明したい。でも、これは裁判じゃない。まずは僕たちが『鏡花は無罪だ』と信じられるようにしよう」

「信じてますよ。みなさんもそうでしょう」

「違うよ、フラン。推測じゃなくて、論理が大事なんだ。えーっと……」

 銀が寝転がりながら言葉を探している。空中でくるくると手を回し、六周目で止めた。

「たとえば、そうだな。たんぽぽのつぼみを考えてほしい。昨日も今日も、たんぽぽはつぼみだった。それなら明日もつぼみのままだろうか」

 美優が「分からない」と答えると、銀は満足そうに「そうだ」と微笑んだ。

「花が咲くかもしれない。枯れるかもしれない。もしくは、つぼみかもしれない。そりゃあ、信じることは大事だ。でも、大事だからこそ、目の前の事実を一番の味方にするべきなんだよ」

 すると、急に銀は立ち上がった。私たちの方を向いて、自分のスラックスに指をさす。

「さあ、演習だ。僕のズボンのチャックは、閉まってるだろうか。開いてるだろうか」

 美優が小さく悲鳴を上げる。それから「最悪」と眉をひそめた。

 しかし、私は違った。頭に雷が落ちた。電球が光った。つまりは、閃いたのだ。

 銀は雰囲気を和ませようとしたのかもしれない。もしくは、単純に下品だっただけかもしれない。いや、どうでもいい。それが起死回生の一手だということに変わりないのだから。

「開いてた」

 思わず、そう呟いていた。銀が「いや、閉まってるよ」と苦笑いするものの、私の様子を見て、徐々に表情を変えていく。

「鏡花のリュック、開いてた」

 回想するのは、銀と鏡花が高校生から守ってくれた、あのときだ。

 鏡花に守られていると感じた途端、私は緊張した。どうにかそれを和らげようと、あえて場違いなことを話したのだ。「リュックのチャック、開いてるよ」と。

 それから、ウエットティッシュだ。

 わたあめとレモン飴を食べたから、私は手と口をべたべたにした。すると、美優がウエットティッシュを分けてくれた。そして、ゴミは鏡花のリュックに入れてもらったのだ。

 そのとき、彼はしっかりとチャックを閉めていた。

「銀、あれから鏡花がリュックを開けた瞬間はあった?」

 無我夢中で問うと、彼は首を横に振った。「あいつ、財布もポケットに入れてたしな」と続ける。

 つまり、鏡花がゴミを閉まってから私たちを守るまでに、リュックを開けていなければ、別の誰かが開けたということだ。銀の仮説を採用すると、その誰かとは、清水さんのことだろう。

「この考えを学校中に伝えようよ」

 胸が躍った。これで鏡花の冤罪は晴れる。前島さんを殴ってしまった事実は消えないとしても、四人揃って最後の悩みを聞くことができる。

 ただ、銀と美優の表情を見る限り、そう思っていたのは私だけだったらしい。

「言いたくないけど、伝えても無駄だ」

 美優も同調する。ここまで順調に仮説を立てていたのに、急に二人とも消極的になってしまった。「どうして無駄だって言い切れるの」と言い立てると、寝転んでいた銀が上半身を持ち上げた。

「まず、仮説自体が捏造だと疑われる。鏡花は文劇部で、あいつを信じてる僕たちも文劇部。おまけに、前島を殴ったのは事実だ。話を捏造してると思われたら、協力した僕たちはもちろん、鏡花も更に不利になる」

 銀が一息置いて、更に続ける。

「それに証拠がない。この仮説を裏付けるのは証言だけなんだ。それも、文劇部の僕たちの証言。『駄文劇部は話を作るのが上手だね。そういえば、創作系の部活だったもんね』って言われておしまいだよ」

 それでは、仮説を立てることに意味はあったのだろうか。結果的に、私たちの目撃証言を合わせて、文劇部にとって都合の良い解釈をしただけだ。丁寧に組み立てたジェンガが崩れるような感覚に陥る。

「宇野さん」

 落ち込む私に声をかけたのは、微笑むフランだった。

「大切なのは、信じて、そばにいることです」

 ふとオオカミの悩みを思い出す。たんぽぽを守るために、まずは強くなることを考えた。しかし、悩みを解決したのは「そばにいる」という行動だった。

 仮説の存在意義を、無意識のうちに見誤っていたのかもしれない。そうだ。美優だって「わたしたちだけでも、鏡花を信じられる根拠があってほしい」と口にしていたではないか。

「この仮説は剣じゃない。鎧なんだよ、宇野」

 そこで、ようやく私は納得した。考えてみれば、私は必死だったのだろう。盲目だったのだろう。自分を守る鎧すら振り回して攻撃に使うほど、鏡花を助けたいと思っていたのだから。

 人騒がせな恋心だ、と自分を戒める。感情で物を考えては失敗するのに、大事なことになればなるほど抑えるのが難しい。

「わたしから、ちょっといいかな」

 美優が小さく手を挙げた。私を含めた三人が注目しているものの、彼女は私だけを見つめている。どこか震えているような手の挙げ方と、逸らすことのない目。私を逃してはくれないようだ。

「この仮説を鏡花には言いたいんだ。それで、えっとね」

 一度深呼吸してから、彼女は話を続けた。

「今日は、わたしだけで行くよ。鏡花の家に。ほら、二人は疲れたと思うから」

 嘘が随分と下手だ。私でも分かるほど、声を震わせている。それでも視線だけは逸らさない。間違いない。これは、私に向けての問いかけだ。

 夏祭りの日。思い出すのは、美優の声色。「気付く前に振り向かせようって。そう思ったの」と私に語りかけたときの、あの声色だ。

 今日、美優は鏡花に告白する気だ。

「どうかな、宇野」

 私だって、鏡花が好きだ。でも、だからといって美優の気持ちを無下にはできない。彼女の恋心を掘り下げたのも私だ。その私が「ダメだ」って否定するわけにはいかない。美優の視線が、私を束縛してくる。「察して」とでも言わんばかりに。

 分かっている。察している。だからこそ口にできない。そのまま行かせるわけにはいかない。どうか許してほしい。押し黙る私を見て、なにもかも理解してほしい。

 ただ、声を出さなければ伝わらない。小学校のように、優しい誰かが都合の良いように動いてくれるわけじゃない。大人にならなければいけない。

「うん」

 消えそうな声を出すのが精一杯だった。聞き返されなかったことだけが救いだった。美優は一度頷いて、そのまま「行ってくるね」と台本の中に消えた。

 銀は仰向けになって目を瞑っている。フランは、いつの間にか杉の枝に座っている。邪魔をしないように配慮してくれたのだろうか。「ありがとう」と感謝できる余裕もなければ、「余計なお世話だよ」と文句を言う気力もない。

「良かったのですか? 美優さんを行かせて」

 フランの問いかけに、何も答えられずにいた。杉に寄りかかったまま、気持ちの整理をつけることに必死だったから。

 都合の悪い思い出ばかり蘇る。小柄でショートボブで、前島さんから疎まれた美優は、座ったままウサギを抱きかかえている。浴衣姿の彼女と、高校生。ナンパに利用されただけの私は、おとぎ話の魔女みたいに醜いのかもしれない。

 美優は友達だ。友達だけど、本音を言えなかった。「私も好き」だと言い出せなかった。今頃、彼女は文劇部を出て、ソーダのように溢れて止まらない言葉を、必死に頭の中で並べているのだろう。鏡花を、友達以外の存在とするために。

 頑張れって思う。頑張るなって思う。

「いつか見せてください。ありのままの姿を」

 以前に聞いたフランの言葉が、今は痛い。澄み渡る空の青色を、どうしようもない気持ちに投影する。

 心の中で、雨が降ってほしいと願った。口には出せない。大人になれない私だから。


 数日後、鏡花の停学期間が終わった。私たち三人は、部室で彼を待っていた。

「初めてだ。俺が入ったときに誰かがいるってのは」

 午前八時を迎えて、間もなく鏡花が現れた。「こんな安心するんだな」と呟きながら、私の隣に座ってくる。一つため息をついて、それから口角を上げた。

「知らないやつに、玄関で『窃盗犯』って言われたよ。俺が登校してくるって、どこで聞いたんだろうか」

 その表情が強がっているように見えて、つい不安に思ってしまう。ただ、当の本人は苦笑いを浮かべていた。

「元々『駄文劇部』って言われてたから、今更って感じだけどな」

 ごもっともだ。これ以上心配しても、きっと杞憂に終わるだろう。鏡花が無理に笑っているように見えたって、それも私の考えすぎかもしれない。それに、美優と銀は「確かに」と同調している。おかしいのは、きっと私の方だろう。

 七月を迎えて、太陽が腹をよじって笑っている。文化祭が近付いてきたから、今日から授業がなくなった。朝から晩まで準備に時間を割けるということだ。

 しかし、私たちが教室に向かうことはない。学校から見た私たちは、同級生に暴力を振るった男子と、その友達。教室にいるだけで気まずい雰囲気を作ってしまうだろう。ただし、それが許されるのも、文化祭が終わるまでだ。それからのことは考えたくもない。

 ヴォリエラに着くと、鏡花が目を見開いた。「縮んでる」と呆気に取られているようだ。それを知っていたはずの私も、どうしてか、平静ではいられなかった。

 前よりも小さいのだ。数日前まで八畳ほどの広さだったヴォリエラは、六畳の部屋くらいに縮まっていた。杉に場所を取られているから、実際はもっとゆとりがない。

 時間が経つにつれて狭まったのか、急に縮小したのかは分からない。分かるのは、何かしらの原因があるということ。

「窮屈になってしまいましたね」

 フランの言う通り、私たち五人には狭すぎる。「俺がいない間にリフォームしたのか」と鏡花が苦々しく笑うものの、実際はそうじゃないと分かっているはずだ。聡明な彼のことだから。

 ただ、銀は嬉しそうに声を弾ませる。

「これで四人揃った。最後の悩みを聞かせてくれよ」

 それから「次の動物はなんだろうな」と浮き立っているようだった。彼の中では、ヴォリエラが縮まっていることは二の次なのだろうか。それとも、既に答えが出ているのだろうか。

 どちらにせよ、私たちができることは悩みを解決することだ。「まだ聞いてなかったのか」と困惑する鏡花を横目に、私はフランと向き合った。

「では、最後の悩みを」

 一瞬、地面が揺らいだような気がした。足がふらついて、まともに立っていられない。誰かが肩を支えてくれて、それが鏡花だと気付いた瞬間に、目の前が真っ暗になった。

 体が竜のようにうねる。視界が二転三転する。黄色い花畑、獣の遠吠えが轟く夜の丘、積乱雲を突き抜けて、青空を翔ける。

 青空を翔ける。

「私を眠らせてください」

 フランの声が聞こえたとき、意識はヴォリエラへと戻った。私は走馬灯を見ていたのだろうか。花も丘も青空も、どこかで見た記憶がある。初めて台本に手を伸ばしたとき、だっただろうか。今となっては遠い過去のように思える。

 辺りを見回しても、動物はいない。つまり、相談主はフランということになる。今まで動物の相談に乗っていたからか、人間に相談されると、なぜか責任が重くなってしまう。

「任せてよ」

 最初に口を開いたのは美優だ。悠々たる態度で「寝る前にホットミルクを飲めばいいよ」と、現実的なことを提案している。それは銀も同じようで、一度ヴォリエラを去ったかと思えば、数分後に二冊の本を抱えて戻ってきた。図書館で睡眠の本を借りてきたのだろう。

「急いで実験だ。これ以上ヴォリエラが縮まる前に終わらせよう」

 銀と美優は乗り気になって、フランに話しかけている。しかし、対する彼女は釈然としない表情だった。

 私は考える。全ての悩みが解決したら、ヴォリエラは閉ざされるのではないか。そうなれば、二度とフランには会えない。彼女は寂しいのだろうか。

 いや、違う。悩みを解決したいのに、解決したくないとは思わないはずだ。しかし、美優に対して「頑張れ」と「頑張るな」の感情を共存させた私がいるから、一概に否定はできないだろう。

 フランの顔に影が差すのは、もっと別の理由だと考える。たとえば、「眠る」は目を閉じることではなく、比喩。つまり遠回しに伝えているのだろうか。

「銀、美優。そうじゃないと思う」

 銀が手を止めた。指摘したのは鏡花だ。彼は神妙な面持ちで口を開く。

「ずっと考えていたんだ。ヴォリエラはどこにあるのかって。フランは『どこにもない場所』なんて言ってたけど、信じられない。だって、俺たちがここにいるじゃないか」

 美優も鏡花に顔を向けた。視線を浴びながらも、彼はうろたえずに続ける。

「俺たちは台本の中にいる。台本の名前は『フランチェスカ』だ。それなら、フランは物語の主人公で、ウサギとオオカミは登場人物、ヴォリエラは物語の舞台だと考えられないだろうか」

「とっくに分かってるよ」

 銀が呆れたように言うと、鏡花は眉をひそめた。

「フランが、ヴォリエラのことを『どこにもない場所』と言った理由も説明できるか?」

 それは分からなかったようで、銀がばつが悪そうに視線を逸らしていた。それを一瞥してから、鏡花が話を再開する。

「もしも台本が台本として存在しているなら、ヴォリエラは『部室の机の上』にあると言える。でも、ヴォリエラはどこにもない。なぜか。答えは簡単だ」

 簡単だと断言されたものの、意図を汲み取れなかった。銀と美優も、訳が分からないとでも言いたげな表情をしている。フランに至っては、表情すら変えない。

 一度深く息を吸ってから、鏡花は言った。

「『フランチェスカ』が完結してないからだよ」

 完結していない。それを聞くや否や、銀が「ああっ」と声を出した。

「今度こそ分かったぞ。僕たちが手を伸ばした台本は、未完成。だから、舞台であるヴォリエラも、物語が完成してない以上存在しないことになる。フランの『眠らせてください』という悩みは、台本を完成させること。そう言いたいんだな」

 先程の失態を挽回したかったのだろう。細かく説明してくれたおかげで、私も理解することができた。美優も頷いている。

 ところが、銀は「納得できない」と、鏡花の主張を否定し始めた。

「その場合、ヴォリエラが縮まっている理由をどう説明するんだ。僕はこれを制限時間だと考えてるが、台本を完成させることが悩みなら、制限時間は無駄でしかない」

 銀曰く、ヴォリエラが縮まっているのは、悩みを解決するまでのタイムリミットだということらしい。鏡花も口を挟めないようで、ただ話を聞くだけだった。

「第一、メリットがないじゃないか。悩みに制限時間があったら、僕たちは『望むもの』が手に入らない。フランも悩みが解決しない。それなら、眠るという言葉をそのまま受け止めた方が、よっぽど理に適っている。制限時間だって、僕たちに『ゲーム感覚で悩みを解決させている』と考えればいいからな」

 そう銀が力説するものの、私は反対だった。理由はただ一つ。フランの釈然としない表情が、頭から離れないからだ。それを銀に話せば「気のせいだ」と指摘されるかもしれないが、仮にそれであっても、考えを取り消すことはできないだろう。

「確かに、ヴォリエラが縮まる理由は説明できない。制限時間以外の理由を見つけないと、フランにアイマスクをつける羽目になりそうだな」

 鏡花が苦笑する。それから「眠りたいって、どういうことだろうか」とフランに尋ねていたが、彼女は首を横に振るだけだった。

「すみません。私、ただ『眠りたい』としか思えなくて」

 深く頭を下げるフラン。「大丈夫だから」とみんなでなだめることで、ようやく頭を上げた。それでいい。フランス人形のような彼女が、頭を下げるなんて似合わないのだから。

「鏡花、二手に分かれてみるか」

 提案したのは銀だった。鏡花の意見は否定しつつも、彼の行動まで制限するつもりはないようだ。

「僕と美優は物理的に眠らせようと思ってる。鏡花は台本を完成させようとしている。宇野さえ良ければ、鏡花を手伝ってほしい。これで二手だ」

 願ってもない。私は二つ返事で受け入れた。それから「元々鏡花に賛成だった」と付け加えた。

「さすが宇野だ。物分かりがいいなあ」

 冗談めかした口調。相槌を打ちながら、美優だけを見ないようにした。

 数日前、美優は一人で鏡花の家に行った。告白が目的だと分かっている。しかし、未だに結果を訊けていない。

 あの日以降、私たちはどこか気まずい。いや、私だけがそう感じているのかもしれない。私が何も話そうとしないから、向こうも近寄りがたいのだろうか。

「台本を完成させるとはいえ、勝手に続きを書くのも野暮だな」

 鏡花の声で我に返った。そうだ、今は悩みを解決する時間だ。気持ちを切り替えなければならない。誰にも気付かれないように、自分の頬を一度叩く。

「宇野、『フランチェスカ』の作者に結末を教えてもらおう」

 勢いで頷きかけたものの、疑問が生じた。作者とは誰のことだろうか。頭がクエスチョンマークで満たされる。

 私の様子を察してか、鏡花が教えてくれた。

「初めてヴォリエラに来たとき、杉の根元に『ネロ』って彫られていただろ。あの人だ」

 必死に過去の記憶を探って、すぐに見つけた。ヴォリエラに来た初日、フランが話していたのだ。「この世界を創造した神様です」と。

 鏡花の考えを当てはめると、ネロはヴォリエラを創造した神様、つまり『フランチェスカ』の作者ということになる。

「フラン、ネロについて知りたいことがあるんだ。悩みのためにも教えてほしい」

 鏡花は機敏な人だ。私にネロのことを説明したかと思えば、もうフランに話しかけている。本当に私が手伝う必要があるのだろうか。少しだけ不安になった。

「ネロの特徴とか、覚えてたりしないかな」

「すみません。分かってるのは、ネロという存在だけなんです」

 いつ取り出したのか知らないが、鏡花はノートにメモを取っている。

「フランチェスカとか、ヴォリエラとか、そういったものは造語なのかな」

「いえ、元々存在する言葉らしいです。種類は分かりませんが……」

 つまり、「フランチェスカ」が英語かドイツ語か、はたまた違う言語なのかは分からないが、確かに存在する単語だということだろうか。鏡花に確認すると、「その考え方で大丈夫だよ」と答えてくれた。

「どうしてネロは、台本を作るのをやめちゃったんだろう」

 私が呟くように尋ねる。フランは「分かりません」と答えるだけだ。鏡花のメモも、まだ全然埋まっていない。

「自分が生まれた瞬間、どんな感覚だったのか教えてほしい」

 その彼が真面目な声で訊くと、フランは足元に目を向けた。それから数秒経って、また顔を上げた。寂しそうに笑っている。

「最初に目覚めたのは、真っ白な場所でした。それから間もなくして、杉や草むら、ウサギとオオカミが、まるで最初からそこにいたかのように、突然現れたのです」

 睡眠の本を読んでいた二人も、いつしか彼女の話に耳を傾けているようだ。

「太陽もないのに明るい空、はるか上空に浮かぶ空島。次は何が出てくるのだろうと思っていた矢先、ヴォリエラの下に霧のような雲が現れて、それっきり何も生まれることはありませんでした。寂しい日々を過ごしたものです」

 フラン曰く、そのときに私たちが現れたという。友達になれそうで嬉しかった、とも。

 色々な彼女が思い出される。初めて会ったとき、杉の上に立っていたフラン。はしゃぎ声を出しながら、ラインカーを傾けて走り出す姿。夏祭りの翌日、しばらくヴォリエラに来れない私たちに「寂しくなりますね」と声をかけてきた瞬間や、久々に顔を合わせた私に「寂しかったです」と、何度も孤独感を表現していた彼女、そして表情。

 その表情は、違う。銀が睡眠の本を抱えていたときの、あの釈然としない表情ではない。

 確信した。銀は間違っている。ただ眠ればいいわけじゃないのだ。

 しかし、それを口には出せなかった。頑固な独占欲が、四人で協力することを拒んだのだ。そのような状況ではないことは分かっているのに、私の感情的な一面が、効率よりも独占を優先した。

 思えば、今まで独占欲だと決めつけていたものは、全て「好きだ」という気持ちだったのかもしれない。彼のえくぼを見たときと、鏡花への独占欲を自覚したときは、いつだって胸が苦しかったのだから。

「宇野、一旦部室に戻って、あの台本を見直そう」

 鏡花に誘われて、私は台本に手を伸ばした。最後まで、美優の顔を見ることができなかった。


 真新しい台本を見つめながらも、隣に座る鏡花に意識が向いてしまう。「好きだ」と意識してしまってから、なんだか調子が狂ってしまうみたいだ。「どうしたんだ」と鏡花が心配してくるから、ごまかすために、別の話題を出すしかなかった。

「結局、転勤のこと、まだ二人に話していないんだよね」

 頬杖をつきながら、彼は頷いた。頷くだけで、言葉は返ってこない。

「どうして、私だけに教えてくれたの?」

 続けて私が尋ねたのは、「宇野は特別だから」と言ってほしかったからだと思う。あわよくば「好きな人だから」と答えてくれたら、どれだけ幸福でいられただろうか。

 そんな都合の良いことは起こらない。結局、鏡花は何も答えなかったのだから。分かっているのに、どうして期待してしまったんだろう。

 部室の外からは、はしゃぐような声が聞こえてくる。足音とか、段ボールを切るような音も。それもそのはず。今日は文化祭準備期間だ。部活で出し物がある生徒だって、時間は大量にあるのだから、時々教室に顔を出すのだろう。

 羨ましいと思う。教室に居場所があるなんて。

 窓から差し込む光を見つめて、「いい天気だよな」と鏡花が微笑む。私も笑いたかった。笑えないのは、太陽が明るい人の味方だから。

「俺、美優に告白されたんだ」

 光の方に顔を向けたまま、彼は話し始めた。

「『受験が終わったら付き合いたい』って言われたよ。長野に行くって、もう決まっちゃったのにさ」

 どうやら、先程の話の続きをしているようだ。それに加えて、美優に告白されたことも。どこを向いて話を聞けばいいのだろうか。分からないから、ずっと台本を見つめる。

「どう答えればいいか分からなくて、普通に『ごめん』って言ってしまったんだよ。気が利いてなかったって後悔してるんだ。どうすればよかったんだろうな」

「転勤するって、素直に言えばよかったのに」

 自分で驚いた。どうして私が「素直に」だなんて言えたのだろうか。一番素直になれていないのは私なのに。自分のことを棚に上げて、鏡花にアドバイスしている。

 それに、美優が断られたことも知った。あろうことか、本人ではなく、鏡花から。

「違うんだよ。不条理のせいで嫌な目に遭ったら、誰が悪いか分かんなくて、自暴自棄になってしまうんだ。銀に参考書を投げてしまったときみたいに、普通のことも気が回らなくなる。転勤するから無理って言ったら、あいつは誰を恨めばいいんだよ」

 お父さんが植物状態になり、知らない間に窃盗犯に仕立て上げられた鏡花だからこそ、理不尽に対する独自の価値観があるのかもしれない。私の知らない考えを持っているのかもしれない。

「それなら俺を恨んでほしかっただけだ。そういうのに慣れているから」

 でも、鏡花が抱え込むのは違う。鏡花のせいじゃない。それを伝えようにも、私も同様に抱え込む性格だから、彼を戒めるための言葉が見つからなかった。

「いつか見せてください。ありのままの姿を」

「神崎くんにぶつけてあげてください。ありのままの桜井さんを」

 フランと乙黒先生の言葉が、不意に思い出された。ありのままって、なんだろうか。何年も多数派を強制されてきた私だから、とうに忘れてしまった。

 白石先生の存在が脳裏をよぎったのは、それからすぐのことだった。

 私は鏡花の手を引き、部室を出た。またもや心配されるものの、今度は悪いことじゃない。騒々しい廊下を駆け抜けながら、私は口を開いた。

「白石先生、『フランチェスカ』の台本を手に取って『懐かしいなあ、これ』って言ったんだよ」

 それを聞くや否や、今度は鏡花が私の手を取った。周りから「カップルだ」とはやしたてられる。鏡花に気付かれないように、温まった顔を下に向ける。

 扉が開く音を聞いて、保健室に辿り着いたことに気付いた。白石先生が座っていて、私に微笑みかけてくれる。相変わらず素敵な笑顔だと思う。

「訊きたいことがあります」

 優しい先生のことだから「椅子を用意しよう」と言ってくれた。ただ、そこまで時間のかかる質問ではない。好意を無下にするようで申し訳ないが、立ったままで大丈夫だと伝えた。

「文劇部にあった、『フランチェスカ』のことだよね」

 私は一度頷いた。それから、おもむろに口を開く。

「懐かしいって、どういうことですか?」

 先生は、一旦私から視線を逸らす。顎に手を当てて「ああ」と、思い出したかのように声を出した。「あのときだね」と、先生は再び私を見据える。

「元々『フランチェスカ』は小説だよ。しかも、もう二十年以上も前かな。この学校の文化祭で、未完成のまま展示されていたんだ」

 理解するのに時間がかかった。文劇部に置いてある台本は、元々小説として展示されていた。二十年以上前に、未完成のまま。

 混乱する。頭の中で難解な数式が飛び交っている感覚だ。

「文劇部の様子を見ようと思って部室に入ったら、机に『フランチェスカ』の台本が置いてあって、そりゃあ驚いたね。『ヴォリエラ』とか『鳥かご』とか、懐かしい言葉ばかり並んでいる。文劇部が公演するのかと思って、つい桜井さんに『鳥かごから飛び立って大人になる』なんて言っちゃったよ。その様子を見る限り、違うみたいだけど」

 白石先生は、この学校の卒業生に違いない。そうでもなければ、中学校で置かれているような小説を読まないだろう。また、数十年経っても内容を覚えているということは、先生とネロは親しい関係だったと考えられる。それか、よほど内容に感動したかだ。

 ただ、きっと前者だろう。中学生の表現に限界があることは、私が身に染みて実感しているのだから。

「元々小説だったものが、台本となって置かれている。しかも台本は真新しい」

 鏡花がぶつぶつ独り言を言っている。邪魔してはいけないと思って、私は口を塞ぐ。

 彼が口を開いたのは、それから五秒ほど経ってからだった。

「今年、誰かが『フランチェスカ』を台本にした。その誰かこそがネロに違いない」

 打ち明けて言うと、既に勘付いていた。目的こそ分からないものの、私たち文劇部に台本を渡す意味がある人物は、思い浮かぶ限りでは一人だったから。

「白石先生」

 優しくこちらを向く先生に、こんなことを尋ねてみる。

「ネロって、イタリア語でどういう意味を持っているんですか?」

 決して気の迷いで尋ねたわけではない。私の予想が正しければ、ネロは年に数回イタリアに旅行する人物だからだ。

 そして、白石先生が答えてくれる確証もあった。なぜなら、白石先生とネロが親しいのならば、ネロというペンネームの由来も聞いていると思ったから。

 白石先生は元演劇部で、ネロはきっと文芸部だ。文字で表現する文芸と、動作で表現する演劇は別物。しかし、芸術という範疇では一緒だろう。先生とネロの関係性を信じて、答えが返ってくるのを待つ。

 体感にして十秒後、白石先生は口を開いた。

「黒、だよね」

 鏡花が呆然とする。それから、大きくため息をつきながら、額に手を当てた。

「ネロは乙黒先生だったってことか、これ」

 まだ本人に確認が取れていないものの、その可能性が非常に高いだろう。それにしても、鏡花は察しが良い。

 つまり、これから私たちは、乙黒先生から『フランチェスカ』の内容を訊くことになる。今は職員室にいるだろうか。それより、まずは銀と美優にも伝えよう。

 白石先生に感謝を告げて、保健室の扉に手をかける。すると、ひとりでに開いた。いや、違う。話し声が聞こえる。

 扉の向こうには、前島さんと清水さんが立っていた。

「あれ、神崎くん。休まなかったんだ」

 隠そうともしない、忍び笑い。

「お金、早く返してよ。盗んだんだから」

 はらわたが煮えくり返る。今すぐにでも、あの仮説を言い表したい。二人が鏡花を陥れたという仮説を。銀と美優、それにフランと組み立てた仮説を。

 かりそめの論理だったとしても、少しは形勢が傾くはずだ。なぜなら、有り得なくはないから。私たちの正当性を、乙黒先生のような人が認めてくれるはずだから。

 私が口を開こうとした途端、保健室の外へ引っ張られた。扉が閉まる音。保健室からは笑い声、廊下からは騒ぎ声。

 私を連れ出したのは、よりにもよって、嘲笑の対象だった鏡花だ。

「いいんだ。俺が我慢すればいい」

 それから廊下を歩いていく。部室に戻るつもりだろうか。

「ダメだよ」

 私が横を歩く。目に入るのは、文化祭の準備をする生徒たち。廊下でカードゲームをしていたり、段ボールで野球をしている。「泥棒だ」と鏡花を指さして、丸めたガムテープを投げる男子。それを咎める先生は、この時期にはいない。

 どうして鏡花だけ我慢しなければいけないのか。彼は人一倍努力して、周りにも気を配って、突然奪われた。積み上げたジェンガを崩された。

「いいんだよ」

 我慢しているのに。

「それより、ネロのことを銀と美優にも伝えないとな」

 それより、じゃない。その前に、鏡花が壊れてしまう。

 前に部室で聞いた、白石先生の言葉を思い返す。「色々なものを置き去りにしてでも、一番重要なものを守るために、いつかは鳥かごから飛び立って大人になる必要がある」と話していた。

 そのときは、一番は文劇部だと考えていた。

 でも違う。鏡花だ。鏡花が一番大事だ。

 彼が美優の告白を断って、銀と美優に無理な笑顔を浮かべていた以上、鏡花を守れるのは私しかいない。

 そばにいられるのは、私しかいない。

 そのために、色々なものを置き去りにする必要がある。ならば、見えないピラミッドに囚われていた自分を捨てよう。全く共感できない陰口に同調していた自分を捨てよう。消極的になることで、鏡花を守れると思っていた小学校からの概念を捨てよう。

 周りが動いてくれるから、自分は何もしなくていい。そんな甘ったるい考えは、海に溶かしてしまえばいいんだ。

 勇気を振り絞れ。向こう見ずで自由な私を取り戻せ。子供でいるために大人になれ。

 一番大事な人に、ありのままの姿で向き合うために。


 銀曰く、フランは一向に眠らないらしい。そこでネロの話をすると、「考えられなくもない」として、一旦物理的に眠らせる実験を中止してもらった。

 四人で職員室に入り、乙黒先生の所在を訊く。教えてくれたのは、五十歳くらいに見える男の先生だった。

「乙黒先生は、近くのスーパーから段ボールを運んでいる。自分のクラスで使うらしいよ。今年から四十代に差し掛かったってのに、元気なもんだよねえ。おっと、年齢は禁句か」

 頭をかきながら「今日は都合がつかないだろうから、明日もう一回来てみて」と言って、先生は行ってしまう。鏡花が「ありがとうございます」と頭を下げた。

 それからの時間は、窮屈なヴォリエラの中で過ごした。乙黒先生と話せない以上、今日私たちができることはないからだ。

 小さくなったヴォリエラは、五人が寝転がることはおろか、杉の周りを囲うようにして座るのがやっとだった。「変なことしたら落ちそうだ」と銀が震えている。それでも座っているのは、フランと話したいからだろう。もちろん私も含めて。

 ヴォリエラに来た初日を思い返す。五人で寝転がりながら雑談していた、あの時間。何も知らずに幸せだった時間を思い返す。推薦は絶望的じゃなくて、冤罪にもかけられなくて、陰口も、部員同士の争いごとも、何もかも知らずに、ただ無性に居心地が良かった文劇部。そしてヴォリエラ。

 私は知りすぎた。純粋に楽しかった頃には戻れない。過ぎ去った雲が二度と帰ってこないように。

 まだ六時も回っていなかったと思う。誰とはなしに、文劇部の三人は台本に手を伸ばしていた。気まぐれだったのかもしれないし、誰かが発した「早めに帰ろう」という提案を、私だけが聞き流していたのかもしれない。

 唯一分かることは、フランと二人きりだということ。

「宇野さん、宇野さん」

 視界の端から、ひょっこりと姿を現すフラン。

「みんな、帰ってしまいましたよ」

 きっと心配しているのだろうが、遠回しに「もう帰りなさい」と言われている気もする。いや、彼女に限ってそんなことはない。寂しがり屋のフランが、私に帰ってほしいわけがないだろう。図々しいかもしれないが、そう思っている。

 とはいえ、部室に戻らなければならないのは事実だ。私はすくっと立ち上がり、台本と向かい合った。

「フラン」

 不思議なことに、頭に浮かんだのは「また明日」や「じゃあね」といった別れの言葉ではなかった。今の私は、まるで思い出を回想するかのような心地で、しかし前を見据えているという自信があった。

「もう、自分に嘘つかないよ。自分らしくなるからね」

 目を閉じて、身を委ねるように台本へと手を伸ばした。彼女がどのような顔をしていたか、興味がなかったわけではない。返事を聞きたくなかったと言えば嘘になる。

 ならどうして返事を待たなかったのか。簡単だ。フランの返事を聞いてしまえば、それで自分が満足してしまうと思ったからだ。

 優しい彼女のことだから、きっと「素晴らしいです」なんて返してくれる。でも、それではダメだ。褒めてもらうのは、自分が自分らしくなった後でいい。

「美優」

 部室に戻った直後、そう呼びかけた。彼女を含め、鏡花と銀も残っている。私を待ってくれたのだろう。みんな、良い友達だ。

「二人で話したいことがあるんだ」

 美優は一人で鏡花の家に行った。告白して、鏡花に「ごめん」と断られた。そのことを、本人の口から聞かなければならない。なぜなら、彼女の恋心を引き出してしまったのは私なのだから。

 断られたことを話すなんて、無慈悲だ。そんなこと、とっくに分かっている。

 大切なのは、美優が打ち明けてくれること。そして、あの日「いいよ」という言葉で送り出してしまった私が、自分に嘘をつかないこと。

 空気を察してか、鏡花と銀は「また明日」とお互いに告げて、そのまま部室を出ていった。扉が閉まったら、二人だけの空間だった。

「急に引き留めてごめんね」

 無言の間は作らない。美優に用事があるのは私なのだから、「察してください」と相手に要求するのは間違っている。ただ、考えてもいないのに、言葉がすらすらと滑らかに出てくるのは予想外だった。

「美優が一人で鏡花の家に行ったとき、告白したんだよね」

 元々、私は話すことが大好きな人間だった。しかし、私の言葉は人の不利益になるから、三年余り封じ込めていた。自分の居場所すら、鏡花に委ねていた。

 美優がこくりと頷く。それから、おもむろに口を開いた。

「『ごめん』って、ただそれだけ。最初は戸惑ったよ。鏡花は誰にでも優しいのに、こういう場では気が回らないな、って思って」

 二人して笑う。まともに話すのは数日ぶりなのに、まるで何事もなかったかのように、心から笑えている。それに「気が回らない」なんて、鏡花には絶対似合わない評価だ。それが無性におかしかったのだ。

「だから、理由があるんだろうなあ。何か裏に抱えてるのに、わたしを傷付けないために、あえて隠したんだよ。その結果、『ごめん』が出たんだと思う」

 私が鏡花の性格を知るように、美優もそうだ。転勤のことは知らないとしても、何かがあるということは察しているらしい。

「夏祭りのときから考えてた。鏡花には他に好きな子がいるって。でも、そのまま『他に好きな子がいる』って言ったら、わたしがもっと傷付くって考えたんじゃないかな。『わたしをたぶらかした』って思わせないために。鏡花、優しいから」

 最低限の言葉だけで断れるなら、それに越したことはないのかもしれない。ただ、美優に勘ぐらせては意味がない。現に今、「鏡花には他に好きな子がいる」という結論に至っている。それが本当が嘘かは分からないけど。

「宇野、教えて」

 私の手を握りながら、美優が視線を合わせる。

「わたしは大丈夫だから」

 訴えかける目。偽りの色は見えない。我慢しているわけではなさそうだ。

「鏡花は、誰のことが好きなのかな」

 咄嗟に一つの答えが浮かんだ。しかし、言葉にするにははばかられる。それに恥知らずだ。そう思って視線を逸らすと、手を強く振られた。「逃げるな」と、「逃がさないぞ」と、友達から脅されている。

 それを信じて、深呼吸してから声を出した。

「私だと思う」

 その途端、美優は安堵するように微笑んだ。手を握る力も緩む。カーテンが揺らめいて、彼女の髪がふわりとなびいた。

「どうしてそう思いたいのか、言って」

 そう思いたいのか、という言い回しからして、なにもかも勘付いているのだろう。その上で、私の口から説明させるつもりだ。あざとい子だと思った。

 夏祭り、誰よりも煌めいた美優の姿を回想する。鏡花の気を引くために、何日も前から準備していたのだろう。中学生らしい背伸びが災いして、足を痛めてしまったとしても、綺麗なことには変わりなかった。

 桜のような人だと思ってしまった。今は、夏だから。

「私が鏡花を好きだから」

「だと思った」

 美優が抱き寄せてくれた。同時に、透き通ったガラス玉が割れるような音を聞いた。私よりも、ずっと純粋なガラス玉。ずっと小さくて、青臭いガラス玉。

 たとえ破片を拾い上げても、二度と透明には戻らない。「私」が混じって、濁ってしまったから。

「そばにいてあげてね」

 私を離した美優は、そのまま部室から去っていく。「またね」と言ってから、私のセーラー服が濡れていることに気付いた。まるで雨に打たれたかのような、丸いシミだった。

 これで、心の嘘は消えた。あの日の「いいよ」を取り消すことができた。少しだけ自分らしくなれた気がする。

 ただ、フランから褒められるには、まだ足りない。

 部室を出ると、廊下はもぬけの殻だった。昼は道を塞ぐほど溢れていた生徒の姿も、今は見えない。静かな場所だ。赤と青が中途半端に混ざったような光が、私の足元を照らす。

 不意に、自分の教室に向かおうと思った。自分が加わっていないクラスが、どれほど団結しているかを心に留めておきたかったのだ。考えてみれば、鏡花が窃盗犯呼ばわりされてから、一度も教室に足を運んでいない。

 階段を上る。ベニヤ板を落とした私のそばに、鏡花がいてくれたことを鮮明に思い出せる。足の傷はとうに治った。治っていないのは心の傷だ。前島さんの鋭い視線が、今になっても心を貫いて、苦しいほどに痛い。

 三階に着くと、私の教室のそばで、鏡花が立っているのを見た。何かあったのだろうか。不思議に思って駆け寄ろうとすると、教室の扉の隙間から、二人の姿が見えた。

 前島さんと清水さんだった。話し声まで聞こえてくる。

「足りない、って。勘弁してよ。あの四万円が全財産なのに」

「関係ないよね、全財産とか」

 清水さんの懸命な声に、鼻で笑う前島さん。物音を立てないようにしながら、鏡花の隣に移動した。どうしてここにいるのか尋ねると、「自分のクラスの様子を見に行ったら、あの二人が話していたから」だという。

「あんたの財布には、元々四万円あったのよ。どうして全部抜き取らなかったの?」

「もしかしたら、神崎が盗んでくれるかなって思ったの。そうしたら、神崎は本当に泥棒だから言い逃れできないし」

 あの夏祭りのことだろう。何度も思い返し、何度も腹を立てたものだ。

「で、一円も盗まれていなかった。これじゃあ、あたしが損しただけだよ。四万円もらえたはずが、一万円ちょっとしかなかった」

「四万円も入れたのは、神崎に『一枚盗ってもバレないだろ』って思わせるためだったの」

 すると、前島さんは「馬鹿みたい」と一蹴して声を荒げた。

「全額あたしに渡して、空の財布をリュックに入れるだけでよかったのに。中途半端に残した状態で『盗まれた』なんて、頭悪すぎるよ。それで四万円入ってたってお母さんに言わせても、むしろ不自然になるって分かんないの?」

 清水さんは「ごめんなさい」と涙声で繰り返している。泣きたいのは鏡花なのに。心の中で毒を吐き、また耳を傾ける。しばらくすると、「でもね」と聞こえてきた。

「神崎は暴力も振るった。結果オーライだよ。だから神崎は消えたし……」

「あたしより賢い推薦希望者が消えたから、チャラにしろって言う気かな」

 確かに、前島さんは鏡花の次に学力が高い。この前の学力テストだって、一位が鏡花で、二位が前島さんだった。二人が目指していたのは、札幌で最も頭が良くて、特待生の推薦がある高校だった気がする。鏡花は分からないけど、前島さんの合格率は五パーセント。思わず見てしまった数字だ。

「四万円払ってもらわないと、これ以上友達でいるのは無理だよ」

「ごめん。仲間外れにしないで。お願い」

 同級生かテレビか忘れたものの、誰かが「推薦で入学した生徒は学力不足だ」と主張していた。ただ、必ずしもそうではないと思う。前島さんのような合格率が低い子が狙うかもしれないし、鏡花のような家にお金がない秀才が取るのかもしれない。

「払う、払います。明日には持ってくるから」

「ああ、そう。楽しみにしてる」

 隣を見ると、鏡花が歯を食いしばっていた。心配に思って肩に手を置くと、途端に「なんでもない」と笑顔を浮かべる。今朝、銀と美優に見せた表情と同じだ。

「それにしても、神崎さ。名前を馬鹿にしただけで殴ってきたの、普通に子供だよね」

 えくぼが崩れていく。

「事実なのになあ。男子が『鏡花』って、女子みたいで気色悪いのに」

 しゃくりあげる。息を激しく吸い上げる。

「責めるなら、あたしじゃなくて両親だよね。『パパ、ママ、どうして鏡花って名前なの』って言えばいいのに」

 目を大きく見開きながら、彼が両手で前髪を強く握る。きっと我慢している。「殴っちゃいけない」って、自分に言い聞かせるようにしている。

「大丈夫、大丈夫だから。大丈夫だからな」

 それからも、名前の侮辱が止まることはない。でも、その場を動けなかった。鏡花は堪えるだけで精一杯で、私が離れたら何をしでかすか分からない。もう一度殴ってしまったら、今度は停学で済まないかもしれない。背中をさすることでしか、鏡花を鏡花たらしめることができない。

 保健室を出た、昼下がりの廊下。「俺が我慢すればいい」と言い捨てた鏡花の表情が浮かぶ。それを聞いたときに、一番大事なものは鏡花なのだと知った。

 これまで、どれほど我慢して文劇部を守ってくれたのだろうか。放課後の部室、銀が机に突っ伏せる中、一人で部員名簿片手に廊下を走り回っていたとき、彼は何を考えていたのだろうか。

 どのような意図で、自分が部長になったのか。私を副部長にしたのか。

「私の前で、抱え込まないで」

 背中をさするうちに、鏡花が落ち着きを取り戻す。まだ正常ではないけど、息もだいぶ安定した。髪を握っていた両手も、今ではだらんと垂れている。

「ごめんな、頼りなくて」

 私に視線を向けてから、力なく笑った。その瞳に映るのは、まぎれもなく私だった。

「悔しかったんだ」

 それから、寂しそうな表情を浮かべる。

「父さんがくれた名前を、気色悪いって言われたことが」

 瞳には、相変わらずの景色が反射する。

「友達だと思ってたやつにも、信じてもらえなかったことが」

 そのまま、鏡花はゆっくりと教室から離れる。ふらりふらりと、何キロも走った後のランナーみたいに、朽ち果てた姿で立ち去っていく。

 それを止めたのは、私だ。

 手首を掴み、強く握った。驚いた様子で振り返る鏡花。「手、震えてるぞ」なんて言ってくる。そんなこと知らない。ただ私の言葉を聞いてくれればいい。

「今から私がすること、ちゃんと見届けて」

 教室の方に向き直る。今度は、私が息を荒くする。胸が膨らんで、萎んで、リボンがふわふわと揺れる。場違いなリボンだ、と思った。

 一歩ずつ踏みしめる。視界の端に、二人の姿。扉と向き合い、手をかける。そのまま一度下を向いた。膝が怖がって、スカートがおぼつかない。まだ覚悟ができていない。

 ゆっくりと横を向いて、鏡花がいることを確認した。私を見ながら、またしゃくりあげている。彼が「やめておけ」と口を動かした。

 やめるわけない。私は向こう見ずで自由だ。誰かに縛られるのが嫌いな人間だった。それを知っているはずだ、鏡花なら。

 顔を上げて、その勢いで扉を開けた。教室の中央に、前島さんと清水さんがいる。「逃げるな」と、自分自身に呟く。

 私がどのような表情だったかは知らないが、清水さんは驚きのあまり動揺を隠せていない。獣に襲われる羊のような顔だ。対して、前島さんは悠然と振る舞っていた。

 前島さんが、歩み寄る。足音が聞こえない。心臓がうるさいからだ。心なしか、耳鳴りがする。お腹も痛い。本能が悲鳴を上げている。「黙っていて」と、心に耳栓をする。

「今の会話を録音したのかな」

 鼻で笑う前島さん。私は、ゆっくりと首を横に振る。

「それとも、今のことを言いふらすって、脅すつもり?」

 それも違う。「唇青いよ」と忍び笑いしながら、彼女が続ける。

「部長が暴力を振るった文劇部を、誰が信用するんだろうね」

 分かっている。そんなこと、当事者の私が一番分かっている。いかに自分が無力で、今まで鏡花に守られてきたことだって、全部分かっている。その上で、私は教室にいる。

 前島さんの余裕そうな振る舞いを見てか、次第に清水さんも詰め寄ってきた。二人がかりだ。手が震えて、冷静な自分を奪われる。

「私は……」

 最後の方は、声がかすれた。高い声で笑う二人。文化祭が終わったら、もはや私は教室にいられないだろう。いや、学校にいられるかも不明だ。

 それでも、大事な人が苦しんでいて、黙って見過ごすわけにはいかない。

 一度、美優の陰口に同調してしまったとき、何度も夢に出るほど後悔した。銀に言われなくたって、陰口が最低な行為だということは分かっていたのに。

 自分の立場を守るために、友達を犠牲にした。本心ではないとはいえ、それがどれだけ愚かなことだったか。

 震える手を握り込むことで、私は平静を取り戻そうとしている。「早くしないと下校時間だよ」と笑いものにされながらも、手繰り寄せるように、腹から声を持ち上げている。

 ありのままの姿を。

 フランにも、乙黒先生にも言われたことだ。当初の私は、あまりに嘘の仮面を被り続けていたから、本来の自分を忘れかけていた。鏡花が守ってくれた文劇部で過ごしていれば、それだけでも居心地が良かったから。

 でも、鏡花だって永遠じゃない。中学校では別のクラスだった。卒業したら長野に行くのだろう。彼がいなくなったら、私は脱皮したての昆虫のように、きっと弱くてもろい存在になってしまう。敵に襲われたら、身を守る術もなく食べられるんだ。

 そのような私を、文劇部のみんなはどう思うのだろうか。

 銀は許してくれない。部員のために問題児になった男が、私のような臆病者を受け入れてくれるだけでも、感謝すべきだったのに。

 鏡花も望んでいない。私のために文劇部を守ってくれたのに、離れ離れになったら弱いままだなんて。それに私は副部長だ。その責任を考えないといけない。

 美優だってそうだ。私は「そばにいてあげて」と頼まれた。今年しか一緒にいられなかったとしても、私は彼女の恋心を託されたのだ。その重みが、今だからこそ分かる。

 私たちは余り物だ。でも、一人なんかじゃない。

 四人で余り物なんだ。

 それを証明するために、声を大にして、鏡花に届くように叫ぶ。

「あんたたちが、大っ嫌い!」

 一度は救われた言葉を、今度は救うために。大事な人を守るために。

 そのまま、私は教室を後にした。私は歩いている。影の上には、ありのままの自分がいる。太陽を味方につけた、桜井宇野。ようやく自分の足音が聞こえた。

 後ろから笑い声。私を馬鹿にしているのだろう。でも構わない。「大嫌い」の言葉は、最初から二人に向けたものじゃない。

 強がりのくせに、泣き虫な彼に向けたものだ。

 鏡花が息を激しく吸い上げている。私に「宇野」と呼びかけてくれる。苗字みたいな名前だけど、鏡花に呼ばれるときだけは、この名前が好きになれるんだ。

 蝉時雨が、嘘で塗り固められた私を引き剥がす。溶けたチョコレートのように柔らかくなって、無防備な自分が暴かれる。それを「宇野」だと受け入れてくれる人がいる。

 今なら許されると思って、鏡花に抱きついた。縛り付けるほどに強く、しかし繊細に。汗の混じった男子の匂いがする。それを一思いに吸い込んでやった。

 鏡花は体格が良い。それでいて、中学校では身長も伸びた。対する私は弱々しくて、病人みたいだ。強く抱きしめたつもりだったが、それでも鏡花は苦しそうな素振りを見せない。

「ありがとう」

 急に苦しくなって、鏡花も抱きしめてくれたことを知った。肌が密着する。身長差はあるけど、体の部位一つ一つで感情を共有しあえることが、どれだけ幸福なのかということに気付いた。

 幸せだと思った。でも、この感情は恋心からじゃない。それを説明するために、お互いの体を離す。胸がすっきりとして、なんだか物寂しい。いや、それでもいい。

 廊下が赤い光に包まれる。それに目を細めながら、鏡花に微笑みかけた。

「共犯者だもんね」

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