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第4章 さざ波、鏡花

 ゆっくりと、首を横に振った。

 理知的な彼が暴力を振るうなど、まず有り得ないと思った。しかし、ドッキリだとも考えられない。銀は目を伏せているし、美優は声を詰まらせながら泣いている。夏も本番に差し掛かる時期なのに、私は冷や汗が止まらなかった。

「駄文劇部も、暴力に頼ったらゴミだな。ゴミ」

 開かれた扉の向こうから、見覚えのある男子がからかってきた。昨日「一般で受けろよ」と呟いていた男子だった。邪魔者の鏡花が起こした事件を聞いて、堂々と文劇部を批判できると思ったのだろう。事実、私たちは何も言い返せなかった。

 文劇部の部室は学校の隅にある。何か目的でもない限り、校舎を往復するのは億劫だ。つまり「鏡花が生徒を殴った」という事実は、それに値する目的ということになる。

 その後も、三回ほど冷やかしを受けた。ただ、銀が取り乱すことはなかった。冷やかしの足音が遠ざかるたびに「ふざけんな」と声を震わせるだけだ。

「真実なんかどうでもいいんだよ。何か起こったから騒ぎたいだけなんだ、あいつら。前島がどういう人間か知らないのに。出しゃばんなよ」

 銀は一度、前島に面と向かって「駄文劇部」と呼ばれたことがある。個人的な恨みもあるのだろう。拳を机に置いて、声を張り上げた。

「鏡花。お前、何があったんだよ」

 鏡花は、小学校の頃から無遅刻無欠席だった。私が部室に入ると、彼に先を越されていることがほとんどだった。扉を開けると、「今日もお疲れさん」と声をかけてくれる。その声を聞くことで、肩の力を抜くことができる。ここが居場所なんだと思える。

 その彼が、文劇部に来ていない。

 始業を告げるチャイムが鳴っても、私は立ち上がれなかった。「宇野、行かないと」と美優が声をかけてくれる。だが、足に力が入らない。生まれたての小鹿みたいに震える。

「先に行ってて」

 二人にそう伝えると、銀は一度だけ振り返り、そのまま部室を出た。でも、銀に行ってほしくなかった。「行って」と口に出したのは私なのに。それが矛盾をはらんだ感情だと、私自身ですら分かっていた。

 一方、美優は立ったままだ。しかし唇を震わせている。「行くよ」と何度も私の腕を引っ張る。それでも動けない。私が自分勝手なのは、心の深いところで十分に理解している。

「ずるいよ。わたしだって、行きたくないのに」

 数分ほど経った頃だろうか。美優が語気を強めて、私を睨んだ。

「教室に行けば、みんなから馬鹿にされなきゃいけない。前島さんの、宇野の悪口に同調しなきゃいけない。それでも、文劇部があったから、教室に行けたんだよ」

 私が美優の陰口を聞いていたように、彼女も私を罵倒する声に頷き続けたのだろう。あの日、美優が保健室で涙を流していた理由が、少しだけ分かったような気がする。

「文劇部が生きてこれたのは、鏡花が部長だったから。頭が良くて、明るくて、優しい鏡花が中心だから」

 その言葉には、鏡花に対する特別な思いが含まれていたのだろう。そうだ、美優は鏡花が好きなんだ。私の友達に恋をしてしまったんだ。

「あろうことか、部長の鏡花が女子に暴力を振るった。わたしには、もう文劇部も居場所もない」

 無性に腹が立った。「居場所もない」なんて、まるで私と銀が友達ではないかのような、自己中心的なな言い方だ。だったら、保健室で見せた涙は、元演劇部らしく演技だったと主張するのか。

 鏡花に好かれるために、私を利用したのか。美優は。

「それでも、教室には行かないといけない。わたしたちは受験生だから」

 うるさい。吐息のような声が漏れる。

「宇野は、自分だけが傷付いたって思ってるんだよ」

 うるさい。今度は、部屋に響き渡るように叫んだ。美優がのけぞり、言葉が途切れる。沈黙を迎えることなく、私は座ったまま息を荒くした。

「『文劇部も居場所もない』って、私と銀を無視したようなこと言ったのに、偉そうに説教しないでよ」

 正常ではなかった。反射的に、脊髄だけで喋っていた。

「本当は見下してるくせに。自分の方が美人だとか、成績が良いとか、思ってるんでしょ。前島さんの陰口も、本当にそう思って――」

 最後まで言えなかった。美優が「絶対に、違う」と声を張り上げたからだ。

「宇野は友達だよ。だから一緒に来てほしいのに。ねえ、宇野がいなかったら、わたし、とっくに不登校になってる。信じてよ。どうして、どうして見下してるなんて思うの」

 ようやく、自分が愚かだということに気が付いた。それからすぐに「ごめん」と呟く。しかし、目を合わせることができない。目を向ける資格もない。

 鏡花が前島さんを殴ったなら、私は美優の心に包丁を突き立ててしまったんだ。

 美優が部室に来なくなったら、私のせいだ。

「無理に説得して、ごめんね」

 散らかった部屋みたいに乱れた感情が、大事な友達を傷付けてしまった。謝らせてしまった。それなのに、机の落書きを見つめることしかできない。大切なものが、どんどん手の中から離れていく。翼を広げずに、まるで零れ落ちるかのように墜落する。

「わたし、教室で待ってるから」

 扉が開いて、また閉まり、足音が遠ざかる。

 私だけが取り残された部室。現実から逃げるように、私は机に突っ伏せた。ほのかな木の香りだけを残して、何も分からなくなりたかった。

 机に突っ伏した私に声をかけるのは、決まって鏡花の役割だった。それは小学六年生の頃から続いていたものだ。話す話題も「おすすめされた本読んだよ」とか「図書館に行こうよ」とか、いつも私に合わせてくれた。彼は昔からそういう人だった。

 思えば、鏡花が変わってしまったのも、その頃からだった。彼はどんどん賢くなって、理知的になって、プールの授業に参加しなくなった。私の知らないところで、大人になってしまった。

 小学六年生は、私がクラスから疎外された時期だ。

 鏡花のお父さんが植物状態になり、鏡花が水泳をやめた時期だ。

 私に声をかける友達は、もう部室の中にはいない。各々が考えて、自分の意思で行動している。自分が自分でいられる鳥かごから、翼を広げて、残酷で苦しい現実へと飛び立つ。

 私だけが取り残された部室。

 おもむろに顔を上げたとき、未だに置いてある『青い鳥』と、台本が目に入った。

 ヴォリエラの景色が頭に浮かぶ。霧のような雲から垣間見える、あの青い空が思い浮かぶ。杉の下には、美しい少女が座っている。

 台本に手を伸ばせば、私はフランに会える。しかし、美優を待たせてしまう。

 右手を出した直後に、引っ込めた。それを何度も繰り返した。

 空想に逃げることも、現実と向き合うこともしない。前にも後ろにも進めなくて、手を動かすこともやめた。それから、うなだれるしかなかった。

 間もなくして、足音が響く。それからドアノブを回す音が鳴る。振り向くや否や、勢いよく扉が開かれた。現れたのは、銀でも美優でも、鏡花でもなかった。

「おはようございます」

 乙黒先生だ。荒々しい仕草とは裏腹に、言葉と表情は穏やかだった。それがかえって息苦しい。文劇部に失望したのかもしれない、と思った。なぜなら、先生も事情を知っているはずだから。

 先生は、机の上にある台本を見やった。表紙に書かれている「フランチェスカ」の文字を読み上げて、それから、台本に触れた。体が吸い込まれることはなかった。

 まるでウサギを撫でるかのように、大事そうにページをめくる先生。疑問を抱いたものの「どうしてヴォリエラに行けないのか」なんて訊けるはずがない。その存在は、文劇部とフランの秘密だからだ。そこで、おずおずと、もう一つの疑問を尋ねる。

「どうして、私が部室にいるって分かったんですか」

「渡辺さんが教えてくれました」

 どうやら美優は、自分が部室から離れた後も、私のことを案じてくれたらしい。一度でも「見下してるくせに」と彼女に言い放った事実が、今となって胸に突き刺さる。

 先生曰く、美優とは廊下で出くわしたという。「桜井さんと一緒じゃないのですか」と尋ねたところ、正直に私と喧嘩したことを話したらしい。それから「教室まで一緒に来てくれますか」と頼まれて、二人で階段を上ったものの、途中で美優がうずくまってしまったという。

「今は保健室にいます。白石先生に任せているので、大丈夫でしょう」

 それを聞いて、安堵と悔しさを同時に覚えた。

 美優が教室に行かなかったことで、悪意の矢を向けられることはなかった。しかし、私は彼女のそばにいられなかった。感情が先走って、美優を怒鳴って、大事なときに一人ぼっちにさせてしまったのだ。

 友達失格だ。スカートの裾を、しわになるほど強く握る。すると、先生が静かに台本を閉じた。

「渡辺さんを保健室に連れて行く途中に、伝言を預かりました」

 伝言。思いがけず、去年の文化祭を回想した。乙黒先生に慰められた瞬間、感情を露わにした銀が泣きじゃくる。彼は「鏡花が止めなければ」と言った。

 そういった恨み言が襲ってくることを連想した。「宇野がいれば」と、歯を食いしばる美優の顔が浮かんでくる。私は目を強く閉じて、それを受け止める覚悟をしていた。

 ただ、耳に届いた言葉は、あまりにも想定外だった

「『あのとき保健室で言ってくれたことを、そのまま宇野に返します』と」

 あのときとは、きっと、前島さんに「空気が読めない」と言われたときのこと。保健室のベッドで横たわる彼女に、私は声をかけたのだ。

「それも含めて、美優の友達になりたいって思ったんだよ」と。

 身に覚えのある短所があるなら、それごと愛してしまえばいい。万が一、美優が本当に空気が読めなかったとしても、私の友達だということに変わりはない。そう思ったから言ったのだ。

 そして、美優はその言葉を返してきた。

 何が言いたいのか、ひしひしと伝わってくる。あのとき美優が流した涙の意味が、私の感情として伝わってくる。

 たとえ喧嘩しても、自分が体調を崩すことになっても、宇野は友達だ。

 なぜなら、それを含めて宇野だから。

 私がどう思うかを見通して、その言葉を先生に預けたのだろう。奥手な彼女らしく、なんとも回りくどい方法で。

 自分が一番苦しかったのにもかかわらず。

「一緒に、保健室に行きましょう」

 先生の言葉に一つ頷いた。それからすくっと立ち上がった。私の友達でいてくれる美優には、これから最大限の敬意を示さなければならない。その敬意とは、一秒でも長く隣にいることだ。私が美優の居場所になるんだ。

 背筋を伸ばした私を見て、先生は微笑んだ。

「そう、堂々としなさい。神崎くんが財布を盗んでも、みんなに罪はないのですから」

 次の瞬間、私は後ずさりして、また椅子へと舞い戻っていた。

 鏡花が財布を盗んだ。

 先生は、一体なんのことを喋っているのだろうか。


 鏡花が、窃盗。とうに頭が混乱していた私は、壊れたレコードのように「えっ」と何度も呟くことしかできない。

 先生も私の異変に気付いたようで、ゆるめた頬を戻していた。そして、怪訝そうな表情を浮かべて「どうして落ち込んでいたのですか」と問いかけた。

 私は、鏡花が前島さんを殴ったと聞いている。しかし先生は「財布を盗んでも」と言った。暴力と窃盗。私が聞いた話と、内容が食い違っているのだ。

「暴力は、結果のことです」

 結果。そう復唱すると、先生が「部員として、事情を知る必要がありますね」と、私の向かい側にある椅子に腰かけた。いつもは美優が座っている席だった。美優と銀を交えず、私だけに話すつもりだ。いや、二人は既に事情を知っていたのだろう。三人の中で、最後に部室に来たのは私だったから。

「土曜日の夏祭りを、覚えていますか」

 先生に訊かれた。もちろん覚えている。美優の浴衣、銀の甚兵衛、鏡花の制服姿が、今も鮮明に思い出せる。私の大切な記憶だ。文劇部の思い出だ。

「同じクラスの清水さんがいるでしょう。神崎くんは、清水さんの財布を盗んだのです」

 耳を疑う。鏡花は物を奪う人じゃない。それどころか、与えてくれる人だ。居場所も、友達も、思い出も。何もかも彼からの贈り物だ。そんな鏡花のことだから、仮に暴力を振るったとしても、絶対に窃盗なんかしない。

 とはいえ、先生の話は聞こう。私は居住まいを正した。

「翌日の日曜日、午前八時半くらいかな。神崎くんが職員室に来て『バッグに入ってました。清水さんという人に渡してください』と、財布を届けてくれました。私が立ち会って確認したら、中には二万四千円が入っていましてね。中学生にしては大金でしたから、よく覚えています」

 ここまでは問題ない。財布は鏡花によって届けられたし、中身も入っていた。それにもかかわらず、どうして鏡花が悪者になってしまうのかが解せない。

「問題は、月曜日の放課後です」

 先生が私の目を見据えた。「覚悟して聞け」と宣告されているかのようだ。

「財布を取りに来た清水さんが、お金が足りないと主張し始めたのです。『四万円を持って祭りに来たのに、一日で一万円以上減るわけがない』と」

 その裏付けとして、家を出る前に、母親に財布の中身を見せたという。「今日はこれだけ持って行くよ」という意味合いを込めて。四万円だなんて、中学生が持つには大金のように思える。しかし、それは家庭の事情なのだろう。

「それを聞いて、すぐに清水さんのお母さんに連絡を取りました。すると、確かに四万円あったそうです。そこで、神崎くんを呼び出しました。ですが『自分は盗んでない』と反論します」

 当たり前だ。鏡花に同調するように、私は「そうですよ」と小さく呟いた。

「だから、清水さんと一緒にいた前島さんも呼んだのです。前島さんも言ってました。『清水さんがお金持ちアピールをしてたときに、確かに四万円入っているのを見た』と」

 前島さんも清水さんも、そのお母さんも、全員ピエロだ。そうとしか思えない。思えないのに、「現実から逃げるな」とでも言わんばかりに、先生は目を離さない。

「居合わせた私は、神崎くんと一緒にいた桜井さんたちを探そうと、一旦その場から離れたんです。今思えば、あのとき目を離してしまったから……」

 月曜日の放課後、私は校舎にいなかった。台本のアイデアをまとめるために、すぐさま帰ってしまったからだ。今朝の銀と美優を見るに、二人も私と同じだったのだろう。

「他の先生が話していたのですが、前島さんは、神崎くんが盗んだと決めつけていたようです。だから、神崎くんの名前を何度も馬鹿にして、怒るように挑発した、と」

 土曜日の朝、鏡花と前島さんが言い争ったことを回想する。彼女が「女の子みたいな名前」と失笑したとき、鏡花の顔が強張った。その顔を見ていたのは私だけだと思っていた。しかし、前島さんも同様だったに違いない。そうでなければ、鏡花を感情的にする手段は思いつかないはずだから。

「文劇部の誰も見つけられず、私が戻ってきたときには手遅れでした。前島さんがお腹を押さえながら、床に横たわっていました」

 その横には、自分が殴ったと隠す気すらない鏡花がいたという。

「これで全てです。神崎くんは、最後まで窃盗を否定していました。ですが、暴力を振るってしまった以上、神崎くんのことを信じるのは……」

「窃盗なんかしません」

 今度は、私が先生の目を見据えた。「聞いてください」と願うように。

「夏祭りで、私は鏡花とずっと一緒にいました。離れたのは、鏡花が銀と射的に行ったときだけです。そして銀は、たとえ友達だったとしても、自分の正義を押し通す人です。銀が隣にいるのに、鏡花が窃盗なんてするでしょうか」

 頭に浮かんでいたのは、私と銀が言い争いをしたときに聞いた言葉だ。彼の「プライドはないのかよ。自分で自分が恥ずかしくないのかよ」という、部員である私に向けての軽蔑。

 友達にも、高校生にも、平等に歯向かう銀だ。彼がそばにいながら、鏡花は窃盗という姑息な行為に及ぶだろうか。

「今からでも抗議しに行きます」

 私が椅子から立ち上がる。しかし、すぐに止められた。

「まずは、当事者同士の話し合いの場を設ける必要があります」

「鏡花はどこにいるんですか」

「自宅です。一週間の停学処分ですから」

「前島さんは、どうなったんですか」

「今日は病院ですが、明日には登校するでしょう」

 そういうことじゃない。あいつに罰は与えられないのか、という質問だ。拳を強く握りしめる。私の意図を察したのか、先生は「前島さんたちは被害者ですから、何もないですよ」と言い直した。

 確かに鏡花は前島さんを殴った。でも、一生つきまとう名前を否定したことだって同罪だ。私だって、「宇野」という苗字みたいな名前だから、小学校の頃は何度も馬鹿にされた。それでも鏡花がそばにいてくれた。

 その「鏡花」が否定されたとき、誰がそばにいてくれたのだろうか。誰が守ってくれたのだろうか。居合わせた他の先生は、どのような対応をしていたのだろうか。

「学年一位と二位が起こした騒動ですから、できれば穏便に済ませたいのでしょう」

 さも当然のように、先生が話す。「生徒を信じないのですか」と訊くも、「どちらも生徒なら、私は中立的でいなければいけない」と返された。

 乙黒先生と白石先生だけは、文劇部を助けてくれると思っていた。しかし違う。思い上がりだった。平等に指導して、平等に優しくする。「中学生なんて、こんなもんだ」と、物事を甘く考えているんだ。だから鏡花だけが苦しんて、文劇部だけが叱られるんだ。

 友達のために声を張り上げた銀は、先生たちから問題児として扱われた。

 財布を届けた鏡花は、自分自身を否定されて、停学になった。

 私と美優だって、そうなるかもしれない。他人事なんかじゃない。

 余り物だから、何をしても許されると思われているんだ。あいつらも、先生たちも。

「神崎くんが苦しんでいたとき、桜井さんがいればよかったのに」

 先生が伏し目がちに、吐息のような声で言った。それが無性に腹立たしかった。

「その日は台本を考えろって言ったのは、先生でしょ」

 声が震える。

「『自分の家で考えてくるだけでも違う』って言ったのは、先生でしょ」

 拳が震える。

 先生が「桜井さんがいれば」と呟いたのは、「文劇部の誰かがいれば、鏡花が暴力に頼ることもなかった」という思いがあったのかもしれない。

 だが、考えれば考えるほど「お前のせいで鏡花は苦しんだ」としか受け止められなかった。鏡花は優等生で、私は劣等生だから。

 だから私は、先生がいかに矛盾した存在で、いかに上っ面だけで喋っているか、証明しようとしたのだ。

「文劇部は、鏡花が守ってくれた居場所です」

 八畳の部室。私が私でいられる場所。

「鏡花にとっても、居場所でもあるべきです」

 落書きが目立つ木の机。

「顧問の乙黒先生が『もう信じることは』って諦めちゃったら、鏡花、もう帰ってこれません。一人になっちゃいます。そんなの、私が絶対に許しません」

 机を囲う椅子が四つ。もう一度、埋まる日は来るのだろうか。

「文劇部は鏡花の居場所だって、教えに行きます」

 席を立って、ドアノブに手をかける。

「待って。桜井さんの言いたいこと、分かりますよ」

「嘘つかないで!」

 先生に対して、私は大声を出してしまった。去年の銀みたいに、私も問題児として扱われるのかもしれない。でも、鏡花が一人になってしまうよりは全然いい。

「分からないでしょう。鏡花が内気だったことも、どんな思いで文劇部を守ってくれたかも」

 恥でも、若気の至りでも、なんでもいい。自分を奮い立たせないと、水晶玉のように綺麗な、鏡花の笑顔が壊れてしまう。二度とえくぼが見られなくなってしまう。

 勢いのまま廊下に飛び出した。とっくに授業が始まっていた。美優は保健室にいるはずだ。銀は、たった一人で悪評と立ち向かっているのだろうか。

 それなら、私が鏡花の元に行かないと。私がそばにいないと。歯を食いしばる。

 次の瞬間、地面を上手く蹴れなかった。靴ひもを踏んでしまったのだ。

 大きな音を立てて転ぶ。肘をぶつける。痺れるような痛みだった。

 横には一年生のクラスがあった。初老の男性教師が私を一瞥して、大きく舌打ちする。教室の中から生徒が顔を覗かせた。その一人が、「夏祭りで窃盗犯と一緒にいた人だ」と声に出した。

 立ち上がろうにも、肘が痛くて力が入らない。その間にも、私の無様な姿が晒される。悪意の目と、嘲笑の唇。「駄文劇部」と誰かが呟き、男性教師が私を睨む。先生のことだから「授業が中断された」とでも思っているに違いない。

 なんとか立ち上がり、走る。しかし、もう熱意は残っていなかった。転んで、舌打ちされて、鏡花が窃盗犯と決めつけられた。屈辱だった。プライドを踏みにじられた。名前も知らない誰かに、顔に泥を投げられたのだ。

 それでも私が走ったのは、もはや鏡花に寄り添うためではない。都合の悪い現実から、私一人で逃げるためだった。

 先生は一度「堂々としなさい」と言った。できるわけなかった。田舎のようにすぐ噂が広まる中学校で、肩身を狭くして本心を隠すこと以外に、どうやって生き延びる術があるのだろうか。

 ぶつけた肘が痛くて、頭が回らない。

 どうして私は走っていたのだろうか。何から逃げていたのだろうか。さっきまでは鮮明に思い出せたことが、足音を響かせるたびに消えていった。

 やがて、玄関に辿り着く。立ち尽くす。なぜ走っていたか、忘れてしまったから。

 後ろから、パンプスの音がする。それが誰なのかすぐに分かった。

 熱が冷めたからか、先生に向けた私の悪意が、どれほど残酷か分かった。

「ごめんなさい」

 振り返ることもできない。呟くことしかできない。

「先生は、ずっと寄り添ってくれたのに」

 銀の言葉が、ふと頭をよぎる。「真実なんかどうでもいいんだよ。何か起こったから騒ぎたいだけなんだ。あいつら」という、部室でのぼやき。

 仮に生徒がそうであったとしても、乙黒先生がそうだとは限らない。さっきまでの私は、文劇部以外は敵だと思っていたのだ。それに、先生は顧問なのに。

 感情的な私だから、乙黒先生という特別な存在が見えていなかった。確かに先生は、私よりも鏡花のことを知らない。でも、知ろうとしてくれた。

 私を黙らせるのではなく「話し合いの場を設ける必要があります」と、大人らしく冷静に、中立的に考えてくれた。

 何気なく「あのとき目を離してしまったから」と、鏡花のために後悔してくれた。

 乙黒先生は、何か起こったから騒ぎたいんじゃない。そのことに私は気付かず、先生を悪者扱いした。怒鳴った。都合が悪いから排除しようとした。

 それを教えてくれたのは、肘の痛みと、「駄文劇部」という嘲笑だった。

「鏡花みたいに、大人じゃなくてごめんなさい」

 私はしゃくりあげた。泣きたいのは先生の方なのに、と思った。余り物の文劇部にも普通に振る舞う先生は、きっと職員室でも少数派だ。自分が窮屈になると分かっているはずだ。

 それなのに、私たちを気にかけてくれた。その私から「何も分かってない」と言われた。

「大丈夫。子供だからできることだって、たくさんありますよ」

 私が振り返った瞬間、先生が抱き寄せてきた。やけに冷たい肌なのに、温かく感じた。

「神崎くんにぶつけてあげてください。ありのままの桜井さんを」

 どうしてだろうか。先生がフランのように思えた。本当にフランが現れたかのような、不思議な感覚だった。彼女はヴォリエラにしかいないのに。

 それから、二人で保健室に寄った。白石先生は席を外しているらしい。美優はベッドに腰掛けているものの、顔色は悪くない。それを確認した先生は「私は授業に戻ります」と、そのまま行ってしまった。

 このとき、先生は授業の時間を削ってまで、私を気遣ってくれたのだと知った。先程「ごめんなさい」と謝ったとはいえ、本当に無礼なことをしたと、心の中で反省する。

 私は美優にも頭を下げた。彼女の優しさを踏みにじったことを、今になって思い出したのだ。思うに、私は学習能力がないのだろう。成績も悪く、過ちを次に活かせず、何度も身近な人を傷付けてしまう。

「それを含めて友達だよ」

 美優が発したその一言で、どれだけ救われただろうか。少なくとも、ベッドに二人で腰掛けられるほどには、仲直りできたはずだ。

 扉が開いて、白石先生が入ってくる。私を見て少しきょとんとしていたものの、一部始終を話すと、すぐに納得してくれた。それから、遠い目をして呟いた。

「乙黒先生、昔の自分と重ね合わせてるのかなあ。文劇部のことを」

 昔の自分。どういうことか問う前に、白石先生は退室してしまった。とはいえ、追いかけてまで訊いては失礼に値すると思い、私はそのままベッドの上にいた。

 一時間目が終わるチャイムが鳴る。そして数分後、銀が保健室に入ってきた。

「二人とも、今から鏡花の家に行くぞ」

 やたらと興奮しているようだ。一旦落ち着かせて、何を計画しているかを尋ねる。

「一時間目が英語なんだけど、乙黒先生が遅れてきたんだ。で、授業が終わった後に呼ばれたんだよ。先生に」

 先生が授業をしていたのは、銀のクラスだったようだ。相槌を打ちながら、話に耳を傾ける。

「『欠席扱いにはしないので、二人を連れて、今から神崎くんの家に向かってください』って。だって、先生だぞ。先生が、学校にいなくてもいいって言ったんだぞ」

 白石先生の呟きも相まって、乙黒先生の立場が分からなくなる。教師という中立的でありながらも、私たちに執着している気がする。

 乙黒先生は、ただの先生ではない。それだけが確かだ。


 鏡花の家は、小さな二階建てだった。

 神崎と書かれた表札には、三つの名前が並んでいる。一番下には、神崎鏡花。それだけが殴り書きというか、子供が書いたかのような字だった。

 インターホンを鳴らすと、すぐに鏡花のお母さんが姿を見せた。髪を束ねていて、優しそうな人だった。表札を見るに、花江さんというらしい。

 花江さんは、なぜ私たちが来たか察している様子だった。「ありがとね」とだけ言って、家に上げてくれた。言われるがままに、玄関に入る。

 靴を脱いだ瞬間、汗の混じった男子の匂いが広がった。いつも部室で漂っていた鏡花の匂いだった。ワイシャツの袖を雑にまくって、茶色い前髪をかきあげて、えくぼを作って笑う鏡花の姿が、くっきりとした輪郭で、頭の中に浮かぶ。

 場違いだと分かっているのに、心臓が騒ぎ立てるのを抑えられない。正体の掴めない感情。

 花江さんが階段を上るので、それに続いた。ぎしり、と床が悲鳴を上げる。年季が入っているのだろう。

「口数が少ない子なのに、こんなに多くの友達がいたなんてね」

 誰に言うともなく、花江さんが呟いた。

「パパも喜ぶだろうなあ」

 花江さんが指す「パパ」とは、きっと鏡花のお父さんのことだ。子供の友達を見て喜ぶと思われているなら、絶対に優しい人だと思う。

 一度も話したことはない。しかし、会ったことはある。鼻に管を通された状態で。

 鏡花のお父さんは、植物状態だから。

「じゃあ、私はリビングに戻るね。お菓子とジュース、後で持ってくるから」

 花江さんに頭を下げてから、扉に向き直った。鏡花の部屋に繋がる扉だ。真ん中には、「きょうか」と彫られた木のネームプレート。私の家にもある。小学校の図工で作ったのだ。鏡花とプレートを見せ合って、互いに褒め合ったものだ。

 私は三度ノックした。それから、ドアノブを力強く握る。その一方で、ウサギと触れ合うときのように、そっと扉を引いた。鍵はないようで、扉は重くありながらも、徐々に、確実に開く。

 全てが開け放たれたとき、ベッドの上で体育座りをする鏡花を見た。光を失った瞳。初めて会ったときとそっくりだった。

 部室よりも小さな空間だ。部屋に入らずとも、内装が分かる。参考書が積み上げられた、膝ほど低い机、鏡花の身長では収まらないと思われるベッド。正面には、カーテンに隠れる形で窓が一つある。胸元まである三段の本棚は、ギチギチに本が詰まっている上段を除けば、泥棒に入られたかのように乱れていた。

 鏡花の服は、オーバーサイズの白いTシャツと、黒い短パンだった。その彼自身は、右側の壁にもたれかかり、ベッドの上で足を伸ばして座っている。左側の壁をじっと見つめているようだ。時折口を開くものの、言葉が出ないのか、すぐに閉じてしまう。私たちを一瞥すらせず、口の開閉を繰り返していた。

 彼の目は、赤く腫れている。泣いていたのだろう。

「来たよ、鏡花」

 美優が声をかけて、ようやくこちらを向いた。第一声は「宇野」だった。

 部屋に入る私たち。不安を誘うほど薄暗い。湿気がこもっていて暑苦しい。ずっと換気をしていなかったのだろうか。扉を閉める代わりに、窓を開けた。カーテンはなびかない。涼しくも暑くもならない。風の吹かない彼の部屋は、心地良くなんかない。

 私たちは床に座った。鏡花から見下される位置だ。「鏡花が部長だからね」と私が言っても、彼が口角を上げることはない。

 不意に、先程まで鏡花が見ていた左側の壁が気になった。目をやると、画用紙に描かれた絵が飾ってあった。上下左右をテープで留めただけの簡素なものだ。絵の中では、男性と女性が、子供と手を繋いでいる。親切なことに、人物の上には「パパ」「ママ」とクレヨンで書かれていた。

「俺は、財布なんか盗んでない」

 小さな声を出す鏡花。間髪を入れずに「当たり前でしょ」と言った。そうだ、私はそれを伝えに来たのだ。

「鏡花は窃盗なんかしない。信じてる」

 同調するように、美優も銀も頷く。やはり、二人も乙黒先生から事情を聞いていたのだ。何もかも聞いた上で、「鏡花が人を殴った」という変えがたい事実だけを私に伝えた。そして、窃盗の話題には一切触れなかった。

 銀も美優も、最初から鏡花を疑っていない。だから窃盗の話題は出さなかったのだ。おかげで乙黒先生に迷惑をかけてしまったが、それ以上に、二人が鏡花に寄せる信頼を知れて良かった。

 それでも、前島さんに手を上げたことは消えない。鏡花の様子からして、周りから窃盗を疑われることよりも、取り返しのつかない過ちを犯してしまったことに、深く傷付いているように見えた。

 机の上にある一冊の参考書を、ふと美優が手に取った。それから「英検準二級」と呟く。私は知っている。準二級は、高校生で習う英語の範囲だということ。そして、英検は推薦にほぼ必須だということを。

「鏡花、推薦狙ってたよね。確か、特待生……だっけ」

 美優が発した「特待生」という言葉の響きは、この空間では、あまりにも残酷だったように思える。鏡花も苦笑するしかないみたいだ。

「どこの高校も無理だろうな。三年間積み重ねてきたことが、一瞬で崩れた。崩してしまった」

 震えた声。美優が「ごめん」と呟いても、彼が言葉を飲み込むことはない。

「家族で遊んだジェンガを思い出したよ。いつも父さんが積み上げてくれてさ。でも、当時の俺には退屈で仕方なかったんだ。だから、未完成のジェンガを崩して『焦るなよ鏡花』って父さんに構ってもらってた。それが、やたらと楽しかったんだよな」

 鏡花がため息をついて、天井を見上げる。「子供だったからさ」と呟いて。

「父さんがいなくなって、俺が積み上げる番になった。理性的になって、大人になろうとしたんだ。それから三年間、積んで積んで、積み続けた。でも、完成間近のジェンガを崩したのは、感情的で、子供っぽい自分自身だった。そういうオチだ」

 積み上げたものとは、学力のことだろう。机に積み重なった参考書の量が裏付けている。

 美優が目を伏せながら、持っていた参考書を元の位置に戻した。その途端、雪崩のように押し寄せて、参考書が床一面に散らばってしまった。

 それらを慌てて拾い集める美優に、「もういいんだ」と鏡花が穏やかに言った。参考書はどれもボロボロで、全てに名前が書いてあった。しかし、神崎鏡花とは一つも書かれていない。

 その名前とは、私たちが中学一年生の頃に、文芸部に所属していた三年生のものだ。五人分はあるだろうか。

「全部、先輩からもらったんだ。参考書を買う金も惜しいから」

 疑うはずもないのに、鏡花が説明してくれた。それから、ベッドに腰掛けて「先輩の期待まで、無駄にしてしまった」と、悔やむように声を漏らしていた。

 突如、舌打ちをする音が聞こえる。沈黙の中だったから、聞き間違えることはない。この中の誰かが、何かを不愉快に思ったのだ。

「利用してたんだな」

 声の主は、銀。

「利用することが、目的だったんだな」

「そんなわけないだろ」と鏡花が声を荒げた。ただでさえ暑苦しいのに、気まずい空気になってしまう。だが、私が口を挟む余地もない。

「先輩がくれるって言ったから、もらったんだよ。むしろ、俺の方が顎で使われたのに」

「そうじゃねえよ」

 睨むような眼で、銀が鏡花を見つめた。私は一度、銀と口論に発展したことがある。しかし、これほどまで敵意に満ちた視線を向けられてはいない。

「文芸部と演劇部を合併したのは、お前の推薦が目的だったんだな」

 銀の言葉に、私は思わず「違う」と反論した。それだけは絶対に誤解だ。しかし「黙れ」と怒鳴られて、一蹴されてしまった。その途端、鏡花の表情が引きつった。

「今、宇野になんて言ったんだ」

「聞いてなかったのか。お前みたいなクズの味方なんか、同じクズしかいないって言ったんだよ」

 床の参考書を掴んだ鏡花が、それを思い切り振りかぶる。これ以上は容赦しない、と言わんばかりの目つきだった。

「去年の文化祭で、僕の言葉を遮ったよな。僕を止めたよな」

 しかし、銀はまくしたてるつもりだ。「やめて」と叫んで耳を塞ぐ美優の姿は、きっと、どちらにも見えていない。彼女の背中をさするのは、私の役目だった。

「本気でみんなのことを想ってた。信じてた。たとえ僕の評定がどうなったって、みんなを庇うことができて嬉しかったよ。文劇部は居場所だと思ってたよ」

 銀が目を見開く。

「今の、今まで!」

 耳鳴りがした。だが、両耳を塞げない。背中をさする手を、震える美優を、二度と手放してはいけないから。

「本当は、お前が推薦をもらうためだけの部活だった。部長を引き受けた理由だって、推薦で有利になるからだよな。入試の面接で『廃部寸前の部活を立て直し、居場所のない同級生を救いました』なんて言ってみろ。常に学年一位で、夢物語を実現させたお前を、馬鹿な大人はみんな信じる。怒鳴れば素直に頭を下げて、機械のように働く都合の良い人材を、誰が見逃すかよ」

 さっきから、心臓が体に悪い音を立てている。今にも逃げ出したい。でも、震える美優を残してはいけない。今朝のように、都合の悪い現実から一人で逃げようだなんて、二度と考えてはいけない。

「分かってないだろ。僕はな、進路のために外面を保つお前の態度が、本当に、本当に大嫌いなんだよ」

 それから「お前だけじゃない」と銀が視線を向けたのは、私だった。鋭い目つきで、逃がそうとしてくれない。

 そうだ。私は外面を保つために、前島さんの陰口に同調した。

「みんなのことを考えた僕は、みんなよりも怒られた。真っ直ぐに勝負できない元文芸部のお前は、副部長を務めてる。逃げたくせに。何もできなかったくせに」

 次の瞬間、参考書が空を切り、壁に激突した。

 鏡花が投げたのだ。友達に対して、参考書を。いや、もはや友達と呼べる仲なのかは分からない。分かるのは、お互いがお互いに向ける敵意だけだ。

「塾に通っても俺に勝てないような馬鹿が、理想だけをつらつら並べやがって。乙黒先生に甘やかされて、何もしなかったのは、いつだってお前なんだよ」

 間一髪で参考書が当たらなかった銀は、まるで弱点を見つけたかのように「ほら、そうやって」と声を張り上げた。

「そうやって前島を痛めつけたんだよ。暴力にしか頼れないお前の方が、馬鹿に決まっている。ええっと、前島にどんなことを言われたんだっけな」

 鏡花の顔が強張る。それ以上は、本当にダメだ。だけど、私が叫んでも相手にされない。二人に何を伝えることもできない。私ができるのは、第三者の美優だけでも、部屋の外に避難できるように動くことだった。

 扉とは真逆の位置にいる私が、二人をなだめるように振る舞うことで、どうにか彼女は部屋の外に脱出できた。

 しかし、扉が閉まった途端、銀が引きつった顔をした。

「女の子みたいで気色悪い名前、だよな」

 二冊目の参考書。間髪を入れずに三冊目が飛ぶ。その間にも、銀がはやしたてた。どちらも狂っている。私も逃げなければならない。

 だが、激しく参考書が飛び交っていたのは、部屋と廊下を繋ぐ扉の前だった。外には出られない。そこで、私はベッドの下に潜り込んだ。視界が奪われたが、もはや五感全てが無事でいられるとも思っていなかった。耳鳴りも、まだ収まらない私のことだから。

 ようやく耳鳴りが収まった頃に、「鏡花」という鋭い声が聞こえた。花江さんだろうか。美優に助けを求められたのか、お菓子を運びに来たのかは知らないが、ひとまず騒ぎは収まるだろう。

 落ち着きを取り戻したのか、銀の声も、物がぶつかる音も聞こえなくなった。聞こえるのは、鏡花の悲痛な叫び声だけ。

「どうしてだよ。大事なものを傷付けてきたのは、あいつからなのに。あいつが悪いのに。どうして俺が叱られるんだよ」

「あいつ、じゃないでしょ。鏡花」

 花江さんが、諭すようにゆっくりと語りかける。

「友達だって、大事なものなんだよ」

 大きなため息が聞こえた。それが鏡花のものだと分かったのは、聞き慣れていたからだった。

「何も知らないのに、偉そうに説教しないでくれよ」

 今朝、美優に「偉そうに説教しないで」と吐き捨てたことを思い出した。今すぐにでも、ベッドの下から抜け出して、鏡花に反論したい。花江さんは、鏡花を知ろうとしてくれている。それがどれだけ救われることか。

 ただ、私と鏡花は事情が違うことも知っていた。私がその言葉を吐き捨てたのは、自分を守るため。でも彼は違う。親からもらった名前と、クズと罵られた私を守るために、参考書を投げた。友達に向けて。

 先輩から譲り受けた参考書を投げるほど感情的な鏡花が、どれだけの怒りを宿していたのかなんて、私に分かるはずもない。

「銀、母さん。ごめんな。もう、部屋から出てってくれないか」

 少しの沈黙を挟み、二つの足音が響く。扉が閉まれば、それっきりだった。


 五分ほど経っただろうか。とうに私は、ベッドの下から抜け出す機会を失っていた。暗闇に目が慣れてしまいそうで、無性に恐ろしくなる。闇が怖いのは、一人きりだからだ。だから孤独に慣れてしまいたくはない。

 そこで、散らばる参考書の隙間から、部屋の様子を覗き見た。薄暗い部屋といえども、久々の光だ。眩しくなる。

 壁が目に入った。物をぶつけられたからか、至る所が黒ずんでいる。穴こそ空いていないものの、少しでも喧嘩が長引けば、無事では済まなかったのかもしれない。

 その中で、壁に飾られた絵だけは無傷だった。クレヨンが、依然として三人の輪郭を表している。周囲の黒ずみから比較しても、不自然なほどに維持されていた。

「ぼくのお父さんは、漁師です」

 不意に、小学校の記憶が蘇る。六年生、授業参観の光景。教室の前に立つ鏡花が、原稿用紙を持ち、よそよそしく喋っていた。

「海に行って、魚をとります。休みの日は、一緒にジェンガで遊びます。ぼくがぐちゃぐちゃにしても、笑ってまた積んでくれます」

 今や部長まで務める鏡花とは思えないほど、控えめで自信がなさそうだった。興味がないのか、小さな声でひそひそ話すクラスメイトさえいる。

「ぼくの名前は、そんなお父さんがくれました」

 心の中で「静かにしてよ」と叫んでいた。私が黙ることで、喋り声を相殺できないかと考えていたものだ。

「海に行ったとき、お花が水に浮いてたそうです。かがみのように反射して、すごいキレイだったって言います」

 そのお父さんは、漁に出るため、授業参観には出られなかったという。

「みんなに『女の子みたい』って言われるけど、ぼくは自分の名前が大好きです。どうしてかというと、大好きなお父さんが付けてくれたからです」

 授業参観を終えた後に、「いつかお父さんの前でも言いなよ」と、鏡花に言った。恥ずかしそうにしながらも、えくぼを作って笑う彼の顔を、今でも思い出せる。

 数週間後、鏡花のお父さんは植物状態になった。「二度と話せないかもしれない」と嗚咽する彼の顔を、今でも思い出せる。

 思えば、鏡花の生活が苦しそうになったのは、この頃からだった気がする。参考書を買うお金すら惜しいほど、お父さんの治療は多額のお金を必要とするのだろう。算数が苦手な当時の私には、一千万円がどれほど貴重か分からなかった。

 扉をノックする音で、私の意識はベッドの下へと戻された。鏡花が小さく「はい」と返事をすると、今度は女性の声が聞こえる。

「こんにちは。扉越しでいいから、話を聞いてくれますか」

 乙黒先生だった。今朝、私に「おはようございます」と言ったときのように、穏やかな声だ。それを耳にすると、なんでも受け入れてしまうと思う。当事者の鏡花がどう感じるかは分からないけど。

「不甲斐ない先生で、ごめんなさい」

 まず投げかけられたのは、謝罪の言葉だった。自分の力不足を嘆くように、訥々と語りかける先生。

 私は何度「そんなことない」と声を張り上げようとしただろうか。否定の言葉が喉まで昇るたびに、これは先生と鏡花だけの空間だと考え直すことで、どうにか私は空気のように振る舞うことができた。

 今は、私の出る幕じゃない。唾を呑み、言葉を腹へと戻す。

「桜井さんから聞きました。元々神崎くんは内気な性格で、何か特別な思いがあって文劇部を守ってくれたのですね。そのとき、痛いほど感じました。大人が生徒を分かったように思っても、それはほんの一部分でしかないって」

 先生に言われた「子供だからできること」の意味が、なんとなく理解できる。立ち込めていた霧が、わずかに晴れただけなのかもしれないけど。

「さて、私から、伝えなければならないことがあります」

 打って変わって、事務的で抑揚のない声だ。鏡花、更には文劇部にとって、都合の悪いニュースがあることを告げ知らせる。

「部員の三人は、神崎くんが財布を盗むわけがないと信じています。しかし、前島さんを殴ってしまったのは事実。だから、中学校から推薦状を出すことはできません」

 淡々と話す先生だが、消え入りそうな声で「二人で勉強して取った英検も、もう使う機会はないでしょう」と続ける。薄暗い部屋の中に、角の折れた「英検準二級」の参考書が横たわっていた。

 私たちがフランもヴォリエラも知らなかった頃に、鏡花は「英語の文法だって、分かるまで教えてくれる」と言っていた。その頃から、乙黒先生と勉強していたに違いない。彼が崩れたジェンガの重量など、私に分かるはずもない。

「その窃盗についてですが、私は教師という中立的な立場にあります。清水さんの肩を持たない代わりに、神崎くんの味方にはなれません。ごめんなさい」

「ごめんなさい」という言葉からして、鏡花を信じている可能性が高いだろう。それでも本音を隠し、中立的な立場になることを選べる先生は、感情と仕事を割り切れる大人なのだと思う。私とは違う。銀とは正反対だ。

 ただ、もしも去年の銀みたいに、鏡花が一人で立ち向かっていたとしたら、先生は必ず味方になる。先生は、苦しんでいる生徒を見捨てない人だから。

「だから、神崎くんを信じてくれる、文劇部のみなさんを頼りなさい」

 先生が鏡花の肩を持たないのは、きっと、私たちがいるから。信じてくれているから。それを暗にほのめかしているように聞こえた。

「俺、でも、銀に悪いことしたんです。大事なものをけなされて、腹が立って、物を投げつけてしまった」

 吐息のような声で喋る鏡花に、先生が語りかける。

「佐藤くんも、同じように後悔していましたよ。今は、渡辺さんとリビングにいます」

「分かりました。俺、色んな人に謝らないと」

 鏡花が名前を呟き始める。宇野、銀、美優、母さん、父さん、と続いたところで、言葉が詰まったのか、それ以降何も喋らなくなってしまった。

 しばらくして、先生が口を開き「そろそろ行かないと」と呟いた。今が何時かは分からないものの、きっと授業の合間を縫って、鏡花の家に来たのだろう。感心を通り越して恐ろしい。先生は私たちの担任じゃないのに。

「最後に、これは桜井さんの言葉ですが」

 部屋の外から、深く息を吸うような音が聞こえた。

「文劇部は、神崎くんの居場所です」

「俺の居場所、ですか」

 一息おいてから、先生が続ける。

「ありのままの神崎くんを、見せてあげてください」

 少しして、部屋には静けさだけが戻った。床には参考書が散らばり、壁は一面中黒ずみ。なにより、ベッドの下には私が潜んでいた。

 暗闇に身を投じてから、何分ほど経っただろうか。沈黙が続くから、乙黒先生はとっくに学校へ戻ったのだろう。リビングにいる銀と美優も、私を置いて帰ってしまったのかもしれない。逆に、私が帰ったと思われている可能性もある。

 確実なのは、まだ鏡花が部屋にいるということ。部屋に二人きりだということ。

 まず「鏡花」と声をかけた。それから、返事を待たずにベッドから這い出た。

「宇野」

 彼はベッドの上にいた。驚きと安心が混ざったような表情を浮かべながら、壁にもたれかかり、足を伸ばして座っている。心なしか、先程よりも目が赤く腫れている気がした。

 不意に本棚が目に入った。上段に本が一冊だけ残っている。『青い鳥』だ。それ以外は、全て床に散らばっている。

「『青い鳥』だけ、投げなかったんだね」

「これには、願いが込められているから」

 何気なく鏡花の隣に座る。心臓がうるさいけど、今は隣にいたかったのだ。

 足を伸ばしたら、彼の足とも隣り合わせになった。私よりもすっかり長くなって、筋肉質な足。男子の足。叩けば折れてしまいそうな、私の足とは全然違う。

 変わってしまったんだな、と思う。当たり前のように過ぎ去る季節が、私たちの当たり前を連れ去ってしまった。

「俺たちが友達になって、五年経つんだな」

 鏡花が口を開いたから、私もそうする。

「私たちが共犯者になって、四年経つんだね」

 揺れないカーテンの隙間から、わずかに青い光が差し込む。


 小学五年生。始業式の日に、鏡花は転校してきた。桜が咲いて、強い風が吹く日だったことを覚えている。

 転校生ということもあり、初日の鏡花は人気者だった。しかし、自分からは喋らず、話題を振っても言葉に詰まる彼だから、すぐに興味を失われた。

 神様のいたずらかは知らないが、鏡花の隣は私の席だった。

 当時の私は、向こう見ずというか、自由だった。好きなものを好きだと主張し、やりたいことを気ままにやった。夏休みの宿題は、慌てて最終日に取り組むも、しばしば間に合わなかった記憶がある。

 友達は多かったように思う。男子も女子も、分け隔てなく話していた。当時、男女の体つきはさほど変わらなかったから、昼休みの校庭て、ドッジボールをするだけでも仲良くなれた。

 だから、昼休みには読書をする鏡花と仲良くなる方法が浮かばず、同時に、それを考えるのが楽しみだった。

「『青い鳥』、いいよね」

 そう話しかけるのに四日必要だった。なぜなら、教科書すらまともに読まない私が、鏡花に話しかけるためだけに本を読んだからだ。

 窓からは、校庭でボール遊びに夢中なクラスメイトの声が聞こえた。その日の昼休み、私は教室に残り、黙々と読書に勤しむ鏡花と会話を試みたのだ。

「うん。結末が好きで、読み返してるんだ」

 初めて私に向けられた声は、頼りなくて、しかし弾むようなものだった。

 それから、話す機会は増えた。時には休み時間、時には授業中。話すたびに、彼の声は通るようになっていった。それがやたらと嬉しかった。

 仲良くなれた私と、興味を失ったクラスメイト。どこに違いがあったのかと考えると、話題だったのだと思う。当時の鏡花に、ゲームの話もスポーツの話も、一切伝わるわけがなかったのだから。

「物語には、願いが込められてるんだよ」

 私が鏡花に執着した理由は、話が面白かったからだ。小さな頃から本に没頭し、私と真逆の成績をもらう彼の言葉は、いつも私の知らない場所に置いてあった。知らないことを知ることが、どれだけ楽しいかを教えてもらった。

 一方の私は、鏡花が知らないことを教えた。たとえば、水泳を習っているのに海水浴に行ったことがないと聞いたから、二人で海に行った。電車に揺られながら、鏡花と話していた往復二時間の記憶。服を着たまま海に入って、二人して水浸しで帰ったことだって、私の大事な思い出だ。

 鏡花は本を一気読みしてしまうから、しおりを持っていなかった。そこで、誕生日プレゼントとして、名前入りの押し花しおりをあげたことがあった。鏡花が泣いて喜んでいたのを、今でも覚えている。

 瞬きする間に、私たちは最高学年になった。その頃になると、鏡花は本と授業以外の知識も蓄えていて、私も国語のテストだけは得意になった。

 鏡花は相変わらず人見知りで、クラスメイトとは話せるものの、どこかよそよそしかった。その様子を見るたびに、なぜか愉快だったものだ。その頃から、彼に対する独占欲があったのかもしれない。

 六月の下旬、昼休みを終えた午後の授業。その時間は、学芸会で行う劇の配役を決める時間だった。その劇はファンタジーで、主役に選ばれた女子は煌びやかなドレスを着れる、という噂があった。

「主役を希望する人は手を挙げて」と先生が声を出すと、お互いに視線を向けたり、逸らしたりする女子たちが散見された。今思えば、六年生になってから、女子による悪意の目が多くなっていたような気がする。私も女子だったが、当時は気にも留めていなかった。「大人行き」の電車に乗り込むクラスメイトを、私は眺めていただけだったから。

 最初に手を挙げたのは、クラスでも気が強い子だった。「あの子なら仕方ない」という諦めに似たため息も聞こえてくる。ただ、これ以降手が挙がらないことに、私はどうも納得できなかった。

 その日の昼休み、私が話しただけでも、五人は主役を希望していた。「ドレスが着たい」と意気込んでいた。それにもかかわらず、誰も手を挙げない。その五人は顔を伏せていた。

 だから、私は大きな声を出してしまったのだ。「どうして手を挙げないの。昼休み、やりたいって言っていたのに」と。当時の私には、本当に不思議だったのだ。勇気を振り絞れず、自分に嘘をつくことの何が楽しいのか。

 このときの私は知らなかった。このクラスには、暗黙の了解のようなピラミッドが存在して、上に立つ者には逆らえないのだと。気が強い子は、その上の者だったのだと。

 無知な私は、自分が話した女子たちの名前を呼んで、「希望しようよ」と言った。その子たちの顔が真っ青になって、ようやく何が起こっているかを知る気になった。

 それからだ。クラスのほとんどから無視されたのは。

「あいつに喋りかけると、なんでもバラされるぞ」というひそひそ話も、しっかりと聞こえてくる。それは学年中にも広まって、大量にいたと思っていた友達にも、いつしか見限られていた。

 誰かと話すことで嫌われるなら、本心なんか隠した方がいい。

 そう決意したのに。

 鏡花だけは、変わらず接してくれた。必ず「おはよう」を言って、放課後になれば「じゃあな」と手を振ってくれた。

 授業参観で私が発表したときにも、彼だけが惜しみない拍手をくれた。「良い名前だな」と褒めてくれたのだ。それから、自分の名前に引け目を感じることはなくなった。それどころか、彼から呼ばれる「宇野」の響きが好きになった。

 その頃、札幌の隣町にあたる小樽の海で、船が沈没したというニュースが耳に入った。その船に乗っていたのが、鏡花のお父さんだったという。

「俺だけで、立ち会える気がしないんだ」

 憔悴する鏡花を支えるため、私も一緒に病院へと向かった。重いランドセルを背負って、坂の上に位置する病院まで、まっしぐらに走った。その汗は、まだ男子の香りがしなかったものだ。

 そして、私たちは対面したのだ。鼻に管を通された、彼のお父さんと。

 動揺する鏡花に、居合わせた看護師さんが説明してくれた。

「お父さんはね、脳がぐっすり眠ってる『植物状態』なのよ。心配しないで。絶対に元気になるからね」

 子供騙しだった。本ばかり読んでいた私たちは「植物状態になったら、ほとんど目覚めることはない」ということを既に知っていた。

 間もなくして、鏡花は水泳をやめた。「嫌いになった」と話していた。その理由は未だに訊けていないが、心の中で理解している。

 段々と鏡花が社交的になったのは、それからだ。彼はクラスメイトと対話を試みたのだ。最初こそ不慣れな様子だったものの、一ヶ月も経てば、学年中の男子が鏡花を知っていた。女子とは違って、男子は明るいやつが人気者になれるのだろう。そのときは、羨ましいとだけ思っていた。

「桜井と喋らない方がいいよ。あの子、嫌われてるし、私も嫌いだから」

 昼休みの教室で、あまりに突然の出来事が起こった。私がいる目の前で、あの気が強い子が、鏡花に向かって話しかけたのだ。「宇野と喋らない方がいい」と。

 耳を塞ぎたかった。それでも塞げなかった。鏡花が私を一瞥したからだ。まるで「今から言うことを聞け」とでも命令されているかのようだった。

 クラスに響き渡る大きな声で、彼は言った。

「それなら、俺はお前が大嫌いだ」

 それから、何事もなかったかのように「図書室に行こう」と私を誘ってきた。喜びと戸惑いが混じった感情を覚えた。

 二人で廊下を歩き、階段を上っていた。一歩進むたびに、「お前が大嫌いだ」と言い放った瞬間の、鏡花の険しい顔が浮かんだ。

 居た堪れなくなった。三階に上る途中の踊り場で、立ち止まった。

 私、嫌われているのに。

 そう呟くと、場違いなほど明るい声色で、鏡花が返した。

「同じだな。さっき俺も嫌われた」

 それから、私の目を見据えて、今度は語りかけるように言った。

「俺たちは共犯者だよ」

 その言葉に、どれだけ救われただろうか。「君は悪くない」というかりそめの慰めも、「それは向こうが悪いよ」という都合の良い解釈も「共犯者」という響きには敵わなかった。

 共犯者なら、たとえ私が悪者だったとしても、鏡花だけは絶対に味方だと信じることができるから。

 その瞬間から、私たちは、友達から共犯者になった。お互いが居場所になった。

 やがて中学校に進学したものの、同じ小学校出身の同級生もいた。私と鏡花は三年間別のクラスになり、唯一の接点だった文芸部も、私たちが二年生になるときには、廃部が怪しまれていた。

 そこで、鏡花は文劇部を作った。面倒な手続きも、先生への説明も、全て彼が引き受けた。駄文劇部と馬鹿にされるようになっても、居場所を守り続けてくれた。

 私たちの繋がりは途切れることなく、今も残っている。

「クラスが違うと、俺たちに居場所なんかないからなあ」

 鏡花はそう話すけど、私は知っている。小学校でも中学校でも、彼は嫌われてなんかいなかった。教室には友達がいて、職員室には成績を褒めてくれる先生がいた。

 それでも、彼は文劇部を作って、部長として毎日顔を出している。それに、誰よりも早く。

 思い上がりかもしれないが、こんなことを考えている。

 鏡花が文劇部を守っているのは、私のそばにいるためだと。

 これでは、共犯者じゃなくて、献身じゃないか。


 カーテンがなびいて、空の茜色を知らせる。どれほどの間、私と鏡花が隣で座っていたかを示すようでもあった。

「鏡花、そろそろご飯にしよう」

 部屋の外から、花江さんが呼んでいた。銀と美優はとっくに帰ったのだろう。私も夕食の時間まで長居する気はない。うちのお母さんも、遅く帰るとうるさいから。

 鏡花と一緒にリビングに向かうと、予想に反して、まだ銀たちが居座っていた。テーブルには、やたらと多いお菓子。本来は私たち四人で食べるはずだったのだろう。花江さんの姿は見えない。扉を隔てた先のキッチンにいるのだろうか。

「お父さんのこと、お母さんから聞いたよ」

 銀が椅子から立ち上がり、うつむきながら口を開く。その様子を、美優がじっと見つめる。思うに、二人は鏡花と仲直りする方法を考えていたのではないだろうか。やけに力強い銀の声が、それを裏付ける。

「狙うよな、特待生。学費免除になるんだし」

 鏡花のお父さんが生きるためには、一千万円が必要だ。莫大な金額だということも分かっている。数学を習った今の私たちだから。

「それに、文劇部。大体察したよ。推薦のためじゃなくて、本当に、居場所を作るためだったんだな」

 それは私も言おうとした。しかし「黙れ」と一蹴された。そのときは衝撃を受けたものだが、今となっては銀のことを理解できるかもしれない。

 去年の文化祭、先生に歯向かってまで、銀は文劇部の全員を庇ってくれた。その文劇部が推薦のための存在だと考えたら、彼の思考が混乱するのも仕方ないだろう。私が同じ立場でも、きっと同じことをしていたと思う。冷静でいられないだろうから。

「名前のことも含めて、ごめんなさい。自分中心で考えてて、お前のこと、何も理解しようとしてやれなかった」

 一年前、先生にも頭を下げなかった銀が、今深々と頭を下げている。

「俺も、乱暴なことして、本当にごめん。美優も宇野も、ごめんなさい」

 時間にして十数秒だったと思う。二人は互いに頭を下げた。私と美優にもそうした。

「大丈夫。わたしたち、それを含めて友達でいたいと思ったんだよ」

 美優はその言い回しを気に入っているらしい。元々は私が発した言葉だから、少々気恥ずかしかった。

 鏡花に謝った後、銀はすぐに帰ってしまった。美優曰く「たとえ夜になっても、今日中に謝ってから帰ろうと決めていた」らしい。そして、当の美優も「じゃあね」と手を振りながら家を出た。

 間もなくして、リビングに花江さんが入ってきた。そうだ、神崎家はご飯の時間なのだ。私も帰らなければいけない。

「鏡花、明日は海に行ったらどうかしら」

 思い返すと、私が家にいる間、花江さんが窃盗や暴力といった話題を出すことはなかった。鏡花に、もしくは私たちに気を遣っているのかもしれない。どちらにせよ、彼にとっては都合が良かったのだろう。

「海。急に、どうして海なんか」

 どぎまぎしながら鏡花が訊くと、花江さんは、遠い目をしながら答えた。

「鏡花は海が好きなんだよね。小学生の頃に『友達と海に行った』って楽しそうに喋ってたの、覚えてるよ」

「もう水泳もやめたんだ。別にいいじゃないか」

 すると、声に寂しそうな響きを含めて、花江さんが呟いた。

「来年から海には行けないのに」

 鏡花の表情は、迷っているというか、怯えているというか、そういった複数の感情を含んでいた。

 今の私には分かる。鏡花が水泳をやめたことも、口に水を含んでから目を閉じる、というヴォリエラでの実験を早々に離脱した理由も。「溺れてるみたいで、どうしても我慢できなかった」という言葉の意味も。

「一緒に行きたい」

 少し勇気を振り絞って、そう鏡花に伝えた。彼は目を見張り、それから「申し訳ない」とでも言いたげな素振りを見せる。なんとも彼らしい。

「そりゃあ、来てくれると嬉しいけど、明日も学校があるんだろ」

「今日も早退したんだし、明日くらい休むよ。だから行かせて」

 表情を緩める私を見て、ようやく彼がえくぼを作ってくれた。

 私だけが知る、鏡花の一面だった。


 片道一時間の電車に乗りながら、五年前ぶりに海へと向かっていた。

 隣の座席には鏡花がいる。会話こそないものの、昨日の彼よりは清々しい表情だ。泥のようにへばりつくわだかまりが、現在進行形で溶けているのかもしれない。

 先程、病院に寄ったからだろうか。そんなことを考える。

「ぼくのお父さんは、漁師です」

 電車に乗る前、鏡花のお父さんのお見舞いに行った。私が会うのは二回目だったが、特に変わった様子もなかった。一方の鏡花は「父さん、小さくなったね」と呟いていた。

「海に行って、魚をとります。休みの日は、一緒にジェンガで遊びます。ぼくがぐちゃぐちゃにしても、笑ってまた積んでくれます」

 それから鏡花は、何重にも折られた原稿用紙を広げた。四年前の授業参観で、彼が持っていたものだった。

「ぼくの名前は、そんなお父さんがくれました」

 声に出す。四年の月日を越えて、読み上げる。

「海に行ったとき、お花が水に浮いてたそうです。かがみのように反射して、すごいキレイだったって言います」

 何度も言葉を詰まらせていた。鼻をすすり、咳き込んでいた。

「みんなに『女の子みたい』って言われるけど、ぼくは自分の名前が大好きです」

 丸い水滴で汚れた原稿用紙が、仰向けのまま眠る男性の胸の上に、そっと置かれた。

「どうしてかというと、大好きなお父さんが付けてくれたからです」

 暗唱するように、鏡花が呟いた。返事はない。拍手もない。ただ、その無反応を受け入れられなかったから、四年間も原稿用紙を保管していたのだろう。

 その鏡花は、リュックすら背負わず、財布だけを持って電車に乗っている。私も同じだ。

 私たちは同じ服装だった。オーバーサイズの白いTシャツと、黒い短パン。しかし偶然ではない。昨日の鏡花が着ていた服を、私が真似したのだ。すると、鏡花は今日もそのコーデだった。内心嬉しく思ったが、どうして嬉しかったのかは説明できない。

 電車が停まり、駅に着く。五分歩けば海だ。鏡花の隣にいながら、歩幅を合わせる私。

 一言も交わさずに、海に辿り着いた。夏とはいえ、平日だからか人はいない。二人だけ取り残された世界。

 私たちは、ゆっくりと砂浜に足を踏み入れる。そして進む。砂と水の境界線まで、蝉を捕まえる子供のように、静かに歩いた。鏡花のためだった。

 寄せては返す波を見ていた。立ち尽くして、水平線を眺めていた。足に不快感を覚えて、それが砂だと気付くのに数秒もかからなかった。海はそういう場所だ。

 五年前の彼と訪れてから、海は一切変わっていない。変わったのは、私たちの方だから。

 二人、さざ波、夏の海。

 何気なく隣を見ると、鏡花の右手が震えている。鏡花に、もしくは自分自身に言い聞かせるように、私は「大丈夫だよ」と呟いた。

 すると、その震えていた手が、突然私の左手を握った。振動が伝わる。鏡花の気持ちが、指先を通して伝わる。一方の私は、なぜか熱くなる顔と耳が、どうして熱くなるのかを考えていた。

「父さんは、酒が入ると、いつも『自慢の息子』って言ってくれる人だった」

 五年前よりも低い声。ただの友達だった鏡花は、共犯者になって、男性になった。

「だからさ、俺だけでも変わりたくなかったんだ」

 鏡花の手は、私の心臓と連動している気がした。なぜなら、彼の手を握り返したら、胸が苦しくなるから。

「いつか父さんが目覚めたら、社会が変わって、周りも年老いて、なんも分からない状態に投げ出される。そんなの、絶対に寂しい」

 お父さんが目覚める可能性はほぼない。本ばかり読んでいた私たちだから、とっくに分かっていた。それにもかかわらず、鏡花はわずかな奇跡に賭けている。

「だから、自慢の息子だけでも変わってなかったら、寂しくないじゃないか」

 大人の階段を上るにつれて、奇跡は起こらないのだと、心のどこかで察していた。鏡花は理知的になり、物語の話をする機会も消えていった。

 ただ「お父さんの自慢の息子でありたい」という感情的な一面だけは、かすかに残っていたのかもしれない。散らばったガラスの欠片みたいに、繊細で小さくて、自分も傷付いてしまうほど鋭いものかもしれないけど。

 それでも、肌身離さず持っていたのだろう。抱きしめるように。胸に突き刺さるように。

「父さんの願いが込められた、俺の名前。それを散々に否定されたから、前島を殴ったんだ。後悔してるよ。父さんを守ろうとしたのに、自慢の息子に戻れなくなったんだから」

 風が吹いて、髪がなびいた。海は風が強いのだ。

「友達も傷付けた。乙黒先生にも気を遣われた。札幌にも、残れなくなった」

 咄嗟に「えっ」と聞き返した。札幌に残れないとは、一体どういうことなのだろうか。同級生を殴って面目が立たないなら、私が居場所になるつもりだ。しかし、彼の表情を見る限り、それが理由ではないらしい。

「俺、来年から長野に行かなきゃいけなくなった」

「長野って」

 鏡花が、私の目を見据えて「銀と美優には言わないでくれ」と念押しする。

「父さんの治療費を払ってると、家のお金がなくなるんだ。そこに、中一の春くらいだったかな、母さんに転勤の話が来た。三年後に設置される長野の支店に配属されれば、もっと家にお金が入って、もっと設備の良い病院に移れる。そこで母さんが『鏡花も長野に行こう』って」

 たまらず「行くって言ったの?」と訊くと、彼は首を横に振った。振りながら「でもなあ」と苦笑した。

「お金なんて、子供の俺にはどうしようもないんだよな。そのときだよ。特待生の推薦を取れば、学費免除だって聞いたのは」

 それを花江さんに相談したところ、「なんとか札幌に残れるかもしれない」と答えてくれたという。それから、文芸部時代の先輩から教材を譲り受けたり、乙黒先生と英検の勉強に励んでいたようだ。

「俺なりに、頑張ったんだけどなあ」

 手の震えが伝わらなくなった。鏡花が手を離したのだ。彼は水平線に顔を向けて、睨むように波を見る。彼の体温が、まだ私の中に残っている。

 突如、何かが投げ渡された。Tシャツだ。見ると、鏡花は上半身裸だった。手足が筋肉質で、背中が勇ましくて、腹筋も割れていた。

 その姿を、鏡花として捉えることができなかった。

「母さんに海に行くよう提案されたのは、『そろそろ前を向け』ってことだと思うんだ」

 言葉は聞こえるのに、意味が理解できない。私は正常じゃない。

「見ていてくれ。今から、海を克服してやる」

 鏡花が走り出す。「砂が」と叫びながら、足首、膝、倒れ込むようにして全身を濡らす。そのまま立ち上がり、茶色い髪が、筆のようにしなった。水しぶきが飛ぶ。

 五年ぶりの水浸し。

 カッコいいと思ってしまった。

「女の子はね、『そばにいてくれる男の子に守られたい』って思うんだよ」

 美優の言葉が頭をよぎる。

 鏡花は、私のそばにいてくれる。小学校で孤立しかけたときも、文劇部を作ったときも、そして今も。いくら友達がいようと、私を優先してくれる。

 鏡花が文劇部を守っているのは、私のそばにいるため。

 胸が苦しい。喉が苦しい。心臓が音を立てて破裂しそうだ。言葉がつっかえて息ができない。犬のように息を荒くして、首を絞める強さで胸を押さえつける。

 鏡花が海から上がり、厚い胸板を晒す。えくぼを作って笑う。「どうだ、見たか」と腰に手を当てる。

 好きだ。

 私は、鏡花が好きなんだ。

 この人に守られたい。そう思った。

 でも、それは一方的だ。私は甘えてばかりだ。

 寄せた波が、返す。風向きが変わる。鏡花が体勢を崩して、また海に飲み込まれる。浮き上がってきた鏡花の表情には、隠し切れない恐怖がにじみ出ていた。ほんの一瞬だけ、本来の内気な鏡花が垣間見えた。

 そんな彼が、文劇部を守ってくれた。私を守ってくれた。

 献身で終わらせてたまるか。

 今度は、私が守る番だ。

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