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第3章 祭囃子、銀

 前島さんに声をかけられた。

「人手が足りないから、ちょっと手伝って」

 朝の八時。土曜日で授業がないといえども、文化祭の準備期間だ。廊下には、ワイシャツの裾を出した男子や、やたらスカートの短い女子がたむろしている。居心地が悪いから、今日は文劇部で過ごそうと思っていた。その矢先、前島さんに遭遇してしまった。

 実を言えば、私は彼女が嫌いだ。しかし、逆らえない。召使いが女王に指図できないように。

 結局、前島さんの頼みを断れず、私は三階に足を運んだ。

 教室に入ると、全ての机が後ろに下げられていた。中央には、私の身長くらい大きなベニヤ板が四枚置いてあり、それぞれに森を題材とした絵が描かれている。教室の端では、私が話したことのない男子二人と、清水さんが退屈そうにしている。

「これを文劇部の部室に置きたいんだよね」

 一瞬、前島さんが何を言っているか分からなかった。教室の出し物で使う道具を、文劇部に保管する。点と点が繋がらない。私が黙っていると、清水さんが続ける。

「教室にあったら邪魔でさ。でも、どうせ一階に置く展示物だし、それなら文化祭まで文劇部で保管できるじゃんって考えたんだけど」

「えっと、えーっと」

 私が動転しているからか、前島さんが忍び笑いした。心が縛られるように苦しくなる。

「うちのクラスって、文劇部が二人もいるでしょ。それに、それにさあ」

 前島さんが大きな声で笑う。連続して清水さんも。きっと馬鹿にされているのだろう。

「この前文劇部に行ったとき、全然活動してなかったよね。渡辺さんもいなかったし。ろくな活動してないのに部室があるの、ちょっとずるいなあって思って」

 助けを求めるように、男子へと視線を向ける。しかし、「なんでもいいから早くしろ」とでも言いたげに睨まれるだけだった。

 この空間に、私の味方はいない。

 私が一度頷くと、四人はそそくさと板を持った。男子がそれぞれ一枚で、計二枚。前島さんと清水さんが二人で一枚。残った一枚を見つめていると、清水さんが話しかけてきた。

「桜井さんは文劇部だから、案内してくれるよね。ほら、早く持ってよ」

 逆らえない。言われるがままに板を持った。教室の机よりも重くて、両手で支えてもふらふらする。しかし、急かすような男子たちの視線を思い出したら、「一人じゃ厳しい」なんて言い出せるはずがなかった。

 視界もままならない状態で、私は廊下を歩く。すれ違う人たちが避けてくれたおかげで、衝突は免れた。しかし、階段はそうもいかない。胸と板のわずかな隙間から足場を見つけて、一歩一歩踏みしめるようにして下る。

 二階まで到達した。手はとっくに限界だ。しかし、それを言い出せる雰囲気ではない。震える体を動かして、踊り場へ一歩ずつ。この調子だ。束の間の休息を経て、一階へ続く階段に踏み出した。

 油断していた。踏み出したはずの右足は、宙に浮いていたのだ。

 考える間もなく、体が重力に囚われていく。ふくらはぎに鋭い痛みが走り、木が割れるような音がした。

 何段転げ落ちたのだろうか。ふくらはぎを押さえながら、階段を見上げる。だが、一瞬で目を逸らした。前島さんの目つきが、刺さるように痛かったからだ。

「あれ、宇野じゃないか」

 偶然通りかかったのは鏡花だった。板と共に横たわる私を見て、すぐさま駆け寄ってくる。それから「怪我はないか」と、心配そうな表情を浮かべていた。

 直後、階段を下りる足音が、わざとらしく響く。前島さんだ。二人で持っていた板は、清水さんが一人で、体を震わせながら支えている。

 悠々と一階に下りてきた女王は、倒れ込む私に一瞥もせず、睨むようにしてベニヤ板を見つめた。その視線が私に向けられたら、夏のアイスみたいに、数秒で溶けてしまう気がした。

「あーあ、やり直しだね。やり直し。これは」

 前島さんが、大げさに声を張り上げた。きっと鏡花がいたからだろう。私が装飾品を台無しにしたのだと、目撃者の彼に思わせたかったに違いない。

「絵を描いた子の気持ち、ちゃんと考えなよ。ああ、可哀想に」

 私は知っている。少し前に、前島さんと清水さんが美術部の陰口を叩いていたことを。考えすぎかもしれないが、前島さんは、私と美術部の子を同時に傷付けようと思い立ったのではないだろうか。

 いや、板を運んだのも、転倒したのも私だ。本当に考えすぎだ。いくら前島さんと馬が合わないとはいえ、自分の過失を認めないのは最低だ。

「あんたこそ、ちゃんと人の気持ちを考えるべきだ」

 だが、その前島さんに真っ向から反論した人物がいた。鏡花だった。

「宇野が横たわっていたとき、どうして周りに人がいなかったんだ。まさか、宇野一人に運ばせていたんじゃないだろうな」

「運ばせたよ。だって、何も言わないんだから」

 前島さんの言い分を聞いて、清水さんは相変わらず揺れ動きながらも、賛成と言わんばかりに頷いている。その清水さんをちらりと見て、鏡花が話を続けた。

「あの子、重そうにしてるぞ。二の舞を踏む前に助けてやれよ」

 前島さんは、不貞腐れた態度を隠そうとはしない。しかし、これ以上板を破壊しては出し物に支障が出るのだろう。清水さんの持つ板を支えるべく、素直に階段を上った。

「絵を描いた子の気持ちになって考えろ」

 私の落とした板を持ちながら、鏡花は強い口調で言った。

「何も言わないからって、宇野みたいな女子一人に大事な絵を預けられるかよ。俺なら無理だな。たとえ面倒でも、もう一人来るのを待つべきだった」

 鏡花から「女子」として扱われたときに、一瞬だけ血の巡りが良くなった気がした。それを誰にも見られたくなくて、咄嗟に下を向く。

 見ると、右のふくらはぎから血が出ていた。それを知っていたのだろう。鏡花に、保健室で診てもらうように念押しされてしまった。

「この板は俺が直しておくよ。それで、どこに持って行く予定だったんだ。これ」

 板を持っていた男子の一人が「文劇部」と答えると、鏡花がたいそう驚いた様子を見せた。それから鏡花が「一つのクラスが部室を使うのは不平等だ」とか「乙黒先生から何も聞いてないぞ」とか、あれこれと主張した。その結果、ベニヤ板を文劇部に保管することすら白紙に戻してしまった。

 鏡花は凄い人だ。文劇部の中でも、彼だけは異質の存在のように思えた。何事にも前向きに取り組んで、前島さんにも物怖じせず、それでいて明るい人。

 私のような余り物でも、彼の隣にいていいのだろうか。そう勘ぐってしまったときは、いつも彼の笑顔を思い出すようにしている。

「ありがとう。鏡花」

 私が名前を呼ぶと、彼がえくぼを作りながら笑った。私だけが知る鏡花の一面だ。それを見れば、女王からどれほどの仕打ちを受けようと、私が笑顔を失うことはないと思うことができた。

 なぜなら、私には居場所があるから。異質で頼れる友達がいるから。

「ちょっと、鏡花って。女の子みたいな名前」

 ふと前島さんが噴き出したとき、鏡花の顔が強張った。初めて見る形相だった。


 保健室で処置を終えた直後、扉が開かれて、美優が入ってきた。

「鏡花から聞いたよ。足の怪我、もう痛まない?」

 不安そうにする彼女に、私は右手の親指を立ててみせた。先程まで、白石先生が元演劇部だった話で盛り上がっていたことは言い出せそうになかった。

 二人で保健室を出る。白石先生の笑顔が、扉が閉まると共に隠れていくのが寂しかった。思うに、保健室も私の居場所なのかもしれない。もっとも、私だけの場所ではないけど。

「そういえば、鏡花が『怪我が治ったら先にヴォリエラに向かってくれ』って言ってた。もう二つ目の悩みが発表されてるみたい。『また本を借りないとな』って鏡花が苦笑いしてたよ」

 最近、美優の口から、やたらと鏡花の名前が出てくる。彼女が保健室に運び込まれたときからだ。

 ふと考える。一人空き教室で嗚咽していた美優に、鏡花はどういった言葉を投げかけたのだろうか。無難に「泣くなよ」だろうか。いや、彼のことだから「今は泣いてもいい」と語りかけたのかもしれない。そういった鏡花だから、私も心を許してしまう。

 文劇部に着くまでに、自分の頭を空っぽにしようと試みていた。もしも、万が一、美優に好きな人ができても、まず鏡花ではない。鏡花は男子だけど、それ以前に美優の友達だ。「部活の友達」として振る舞っているはずだ。

 鏡花から「女子」として扱われるのは、私だけでいい。

 頭の中では、ビリヤードのように感情の球が暴れている。球と球が衝突して、そのたびに胸が苦しくなる。

 もう考えるのはよそう。思考を断ち切るように、台本に手を伸ばした。

 ヴォリエラに着くと、フランが出迎えてくれた。「待ってました。会えて嬉しい」と、敬語を崩しながら話しかけてくる。眩しいほどに煌びやかな彼女だから、最初は近寄りがたいと思っていた。今でこそ、胸の中に遊び心が溢れていると知っているけど。

「次の悩みは、あちらのオオカミさんからです」

 フランが指さした方向には、鼻から背中の毛が焦茶色のオオカミ。私たちに背を向けている。腹と足は草むらに覆われて見えない。なにやら、どこかを見つめている様子だ。

 私もその「どこか」を見やると、銀が腕立て伏せをしていた。なんだかおかしくなって、思わず視線を逸らす。それでも笑いを隠し切れなかった。まさか、腕立て伏せを百回繰り返したら時間を巻き戻せるとでも言うのだろうか。

 ふいにオオカミが振り返った。私と目が合うと、そのまま歩み寄ってくる。鋭い眼光だ。私が笑ってしまったことが、よほど気に障ったのだろうか。なにしろ、オオカミのことだ。「こいつは敵だ」と思った瞬間に、噛みついてくる性格かもしれない。

「見ての通り、僕はオオカミです。悩みを相談しに来ました」

 予想に反して、オオカミは紳士的だった。ふくらはぎの傷が増えることはなさそうだ。

 こっそりと安堵していると、肩を叩かれた。美優だ。「昨日までなかったのに」と、台本のそばに咲いているたんぽぽを気にしていた。たんぽぽなんて、珍しい花ではない。草と杉以外に植物が存在しないヴォリエラ以外では。

「オオカミさん、たんぽぽを守りたいんですって」

 後ろからフランの声が聞こえる。私が振り向くと、オオカミは顔を背けていた。恥ずかしがっているのだろうか。オオカミにも意外な一面があるものだ。

「だから銀が筋トレしてるんだ。多分、『筋肉が守ってくれる』とか考えたんだろうね」

 他人事のように、美優が呟く。しかし、これから私たちも腕立て伏せをする、という展開が予想できるから、悠長にしていられない気もする。

 案の定、銀が「二人もやろう」と汗だくの状態で誘ってきた。ジャージなら一考の余地があるものの、私も美優も制服だ。何ヶ月も洗濯できない制服で汗をかきたくはない。

 言葉を濁していると、鏡花がやってきた。そこで彼に助けを求める。男子からの反対意見が得られれば、銀も腕立て伏せを催促しないはずだ。

 一連の流れと悩みを説明すると、鏡花は神妙な面持ちで言った。

「たんぽぽに口はない。だから、守られたいか否かを説明することもできない。そもそも、たんぽぽは自分から守られたいって思ってるんだろうか」

 鏡花は常に明るい性格だが、一方で、理知的というか、私には理解が追いつかないことを話す人だった。同じ人間といえども、頭のネジが違うのだろう。私が土で、彼はダイヤモンド。

 小学校こそ「秀才」で落ち着いていたはずの彼は、中学では全科目三位以内で、模試でも道内一桁。学力が知能を指し示すわけではないと分かっているものの、中学生の私にとっては、全ての先生から「五」と称される彼が、全知全能の存在のように思えていた。

「ごめんなさい。ちょっと、分かりません」

 オオカミも首を傾げて戸惑っている。当たり前だ。人間の私ですら分からない。

「ですが、どちらにせよ、僕自身が守りたいと思ってます」

「ははあ。片思いにそっくりだね、これは」

 美優が目を泳がせた。一瞬の出来事だったが、しっかりと脳裏のフィルムに焼き付いた。鏡花が発した「片思い」の言葉と、目を泳がせる美優。たった数秒のフィルムが、脳内映画館で何度も上映される。暗い空間の中、スクリーンの光が眩しかった。

「ウサギやオオカミが喋るんだから、たんぽぽだって何か言えると思うけどな」

 そう呟いた銀は、また腕立て伏せを始めた。「オオカミも一緒にやろうよ」と、四足動物には非現実的な催促もしている。だが、彼を否定することはできない。「たんぽぽを守りたい」という漠然な悩みを解決するには、筋トレが唯一の手段に思えてしまったからだ。

 何かを守るためには、自分が強くなければいけない。

 それが、私の出せる最適解だ。

 三時間ほど経っただろうか。銀が腕立て伏せをやめて、草むらで寝転んだ。全身汗まみれだ。その頃には、私も鏡花も、悩みの解決方法を考えることに疲れていた。

 ふいに美優が、「そうだ」と目を輝かせた。ショートボブを揺らしながら、声も弾ませていた。

「思い出した。神社で夏祭りがあるよ」

「もうそんな時期か。いつからだっけ」

 鏡花が訊くと、美優は彼に顔を近づけながら、更に抑揚をつけて話した。

「今日だよ、今日。忘れちゃダメだって。せっかくの大イベントなのに」

 毎年、近所の神社で祭りが開かれている。地域の子供たちが一斉に集まるわけだから、自然と小学校の同窓会になるものだ。数人で揚げパスタをつまみながら「そっちの中学校はどうなの」とか「あの子彼氏できたらしいよ」とか、そういった談笑をしている女子たちをよく見かけた。それを一人で眺めていたのが私だった。

 去年は文劇部が発足したてで、お互いに交友が浅かった。一昨年やそれ以前は鏡花がいたものの、二人で行動することはなかった。男女で祭りを回っては、それを目撃した同級生に変な噂を立てられそうで、無性に怖かったのだ。第一、鏡花には男友達もいただろうから。

「浴衣の準備もしないと。ねえ、宇野も一緒に行こう」

 ただ、今年は違う。私は美優の友達で、向こうも同様に思っている。それなら、一緒に祭りを回るほかない。そっけなく返事しながらも、ウサギのように胸が跳ねるような気持ちになっていた。

 無邪気な笑顔を浮かべる美優は、そのまま鏡花と目を合わせた。

「鏡花も銀も、ね。どうせなら四人の方がいいよ。四時くらいに行こう」

 中学生。男女四人で、夏祭り。

 私は呆然としていた。それから正気を疑った。私たちは中学生だ。小学生のように無邪気でもなければ、高校生のように余裕を持っているわけでもない。それにもかかわらず、美優は鏡花と銀を誘った。

 私は考える。数式のように複雑で散らかった感情がなければ、異性とプライベートで会う意味も、会いたいと思うこともない。なぜなら中学生だから。

 女子は男子が苦手で、男子も女子が苦手。表面上は上手に取り繕っても、たとえば前島さんや清水さんは、女子トイレで男子の陰口を叩いている。うるさいとか、汗臭いとか、邪魔だとか。

「それなら、僕は家に帰って着替えたい。シャワーも浴びようかな」

 ただ、すぐに思い直した。文劇部のみんなは別だ。疎まれるようにして学校の隅に追いやられた私たちは、男女の壁を越えるほど通じ合っているはずだ。

 私たちの共通点は、怠惰な気持ちかもしれないし、現状を打開したいという希望かもしれない。どちらにせよ、私たちはただの中学生同士じゃない。余り物同士で、磁石のように強く繋がった仲間だ。そう信じていた。

「じゃあ俺も帰ろう。浴衣は持ってないけど、財布とか必要だろうし」

 しかし、どうしても「浴衣」の言葉が引っかかっていた。一年以上苦汁を味わってきた私たちならば、今頃着飾る必要もないだろう。恋愛感情が存在しない限り。

「ねえ、美優」

 鏡花と銀が去ったヴォリエラで、彼女を呼び止めていた。考えるより先に喋っていたから、次の言葉に詰まる。それでも、美優は静かに待ってくれた。

 今から私は、繊細で一歩踏み込んだ話題に触れようとしている。もしかしたら、彼女との友情に亀裂が入るかもしれない。しかし、当の本人は平気な様子で、私に視線を合わせている。

 これ以上待たせてはいけない。意を決して、口を開いた。

「あの二人の、どっちかが好きなんだよね。美優は」

 本当は、どちらかなんて分かっていた。彼女が保健室に運ばれたときから見え透いていた。複雑な計算式なのに、辿り着く解答はあまりにも単純だった。

 それでも、私は「二人のどっちか」と訊いた。特定の名前を出すかは、最後の最後まで悩んた。その結果、答えを曇らせることにしたのだ。

 その理由は「好きな人を特定することで、美優に恥をかかせたくなかった」ということではない。いや、それも少しはある。ただ、一番は私が耐えられそうになかったからだった。

「どっちかが好きなんだよね」と訊いてから、美優は動揺を隠せずにいた。何度も「えっ」と繰り返し、前髪を触り、フランに助けを求めるような視線を送っている。

 だが、フランは微笑んだままだ。動く気配すらない。近所の公園で、子供が走り回る姿を眺めている母親に似た雰囲気だった。

 観念したのだろう。美優は私に目線を合わせて、そのままこくりと頷いた。

「私、美優の邪魔してないよね」

 言い終えて、自分で驚いた。美優は私も祭りに誘った。なぜなら、私たちは友達だから。邪魔だなんて、思い上がりかもしれないが、自分でも思っちゃいない。案の定、美優も首を横に振っている。そうだ。彼女はそういう子だ。分かっている。

 ならば、なぜ思ってもいないことを訊いたのか。簡単だ。嫌われたくなかったからだ。部活内で色恋沙汰が起きても、私と美優は、これまで通り友達でいられると信じたかったからだ。

 誰が誰を好きになったって、居場所が奪われることはない。私が我慢すればいいだけの話だ。

「じゃあ、またあとでね。宇野と祭りに行けるの、本当に楽しみだよ」

 美優が去って、私とフランだけになった。オオカミは見当たらない。だが、悩みが解決したわけでもないだろう。なぜなら、私は三つ目の悩みを知らないのだから。

「宇野さん」

 フランが、ゆっくりと歩み寄ってくる。それから、包み込むように私の手を握った。温かい手だ。冬に飲むポタージュみたいに、全身を満たしてくれる。

「青い鳥が、鳥かごの中に閉じ込められています」

 彼女が私の目を見据える。宝石をはめ込んだかのような、美しい瞳だった。

「いつか見せてください。ありのままの姿を」

 ありのままの姿。私は肩をすくめながら「無理だよ」と返していた。フランが寂しそうに笑っても、意見を変えることはできなかった。

 本音を話したら、また誰かを傷付けてしまう。鏡花を変えてしまう。

 構わない。私が我慢することで、彼を守れるならば。笑ってくれるならば。


 浴衣もなく、着替えるのも面倒だったので、セーラー服のまま神社に向かった。申し訳程度に髪型を変えて、桜のかんざしを挿したものの、きっと誰も気付かないだろう。いや、鏡花だけは「苗字が桜井だから桜か」と指摘するかもしれない。

 神社は家から徒歩三分の場所だ。案の定、すぐに朱色の錆びれた鳥居が見える。しかし、私が到着する頃には、鏡花と銀の二人が待っているようだった。おかしい。私は集合時間の十分前くらい、つまり四時前に来たというのに。男子と女子では準備時間が違うというのだろうか。

「よっしゃ、宇野が制服で来たぞ。俺の勝ちだ」

「絶対浴衣だと思ったんだけどなあ」

 どうやら、二人は私が何を着てくるかで勝負をしていたらしい。こういう一面は中学生そのものだ。

 鏡花は学ランを着ているが、銀は青い甚兵衛だった。髪も少しばかり濡れている。シャワーに入ったから着替えたのだろう。

「みんな、ごめん。遅くなっちゃった」

 間もなくして、美優の声が聞こえた。「私も今来たところだよ」と返すべく、声の方向を見やる。

 その瞬間、言葉を失った。目を奪われた。

 紺色を基調としながらも、所々に、白い花が咲く浴衣。くるぶしから首まで、体全体を覆っている。袖からは細い腕が伸びて、手を振る姿は風に揺られる花のようだ。下駄が鳴るたびに、一人、また一人と振り返っている気がする。

 美優は美しい。容姿が整っているだけじゃない。彼女は、恋をしているのだから。

「わたあめ、食べに行こうよ」

 罪のない笑顔だった。彼女を美しいと感じたのは二回目だ。一回目は、ヴォリエラでラインカーを引いていたときに見た、目に光を宿していない彼女。一方、今回は顔色が良い。

 カランコロン。下駄の音と共に、美優が歩き出した。私たちも続く。杉の優しい香りに包まれて、心躍るような祭囃子が聞こえた。

 まずは、わたあめを二袋購入。男子と女子で分け合いながら、和気あいあいとして石畳を歩いた。不意に銀が「ズボンの横ポケットに財布入れるやつ、本当にいるんだ」と鏡花に言った。彼曰く「父さんがやっていて、カッコよかったから」らしい。

 次に、りんご飴の屋台を訪れた。目玉商品こそりんご飴だが、いちご、さくらんぼといった種類もある。今年はレモン飴も売っているようだ。珍しいと思ったので、それを買うことにした。美優から「一口ちょうだい」と催促されたので、素直に差し出す。案の定、酸っぱそうに口をすぼめた。

 夏祭りということもあり、四方八方から騒ぎ声が聞こえる。ほとんどが小さな子供のものとはいえ、中にはブレザーを着た男性二人も混じっていた。高校生だろう。良くも悪くも、祭りは人を賑やかにさせる。

 わたあめと飴を食べているからか、手と口がべたべたになった。すると、美優がウエットティッシュを分けてくれた。用意周到だ。ゴミと化したティッシュは、鏡花のリュックに入れてもらった。しっかりとチャックを閉める鏡花。ゴミを落としたくないのだろう。そういった真面目な一面も、私は知っている。

 わたあめも飴も食べ終えて、次に向かう屋台を決めていたときだった。美優が「痛っ」と小さく悲鳴を上げる。何事か、と振り返ると、どうやら足を痛めてしまったらしい。慣れない下駄を履いていたから、鼻緒ずれを起こしてしまったのだろう。

「私が付き添うから、二人は野蛮な店でも回ってきなよ」

 友達が怪我をしているのだ。そばにいないと不安で仕方なかった。

「野蛮な店ってなんだよ」と苦笑いする銀たちを送り出して、私たちはテントの中にあるベンチに腰掛けた。先程の高校生たちが近くにいるから、少しだけ身がすくむ。だが、そのベンチ以外に休める場所は見当たらなかった。

 喧騒の中で美優と二人きりになったとき、なんだか申し訳ないと思った。確かに私と美優は友達だ。しかし、付き添うのは私ではなく、美優の好きな人だった方がよかったのではないか。今になって不安を感じていたら「ありがとう」と、彼女から話しかけてくれた。

「こんな恥ずかしいところ、一秒でも見られたくなかったから」

 今の私には、言葉をそのまま受け入れる力がなかった。本当は、好きな人と二人きりの状況を夢見ていたのではないか。「テントが相合傘みたいだね」と、それとなく好意を伝えたかったのではないか。

 つくづく、私には空気を読む力がない。前島さんに「空気が読めない」と言われるべきなのは、美優ではなく私だろう。

 美優が柔和な笑顔を浮かべる。無性に眩しくて、視線を逸らした。少しの沈黙が場を包んで、息苦しい。そこで、思い出したかのように訊いた。目は合わせられなかった。

「どんなところが、好きなの?」

 彼女は、穏やかな口調で答えてくれた。

「優しいところ。いつも周りを見てる」

「美優のことも見てるの?」

「うん。すごい見てくれてる」

「どうして、そう思うの?」

 気が付けば、立て続けに質問していた。どうにも落ち着かなかったのだ。

「この前、わたしが保健室にいたときに、親切にしてくれた。『文劇部は美優の居場所だ』って。『俺たちがいる』って。そう言ってくれた。わたしを見ていなきゃ、そんなことは言えないはずだから」

 それを聞いた途端、私は押し黙った。代わりに美優の目を見据える。

 もう明白だった。これ以上質問しては、私が耐えられなくなりそうだ。一つ一つのエピソードが、まるで私を指さして嘲笑しているように思えた。まるで去年の文化祭の劇みたいな感覚。ありとあらゆる感情が、刃を持って私に襲い掛かろうとしている。

「でもね」

 美優が、ゆっくりと視線を逸らした。頬をゆがませて、寂しそうにしていた。

「きっと、違う人が好きなんだろうなあ。その人が好意に気付いて、両思いになったら、わたしに勝ち目はないんだよね。だから、気付く前に振り向かせようって。そう思ったの」

 それ以上喋らなかった。喋りたくなかったのだろうか。もしも思いを打ち明けたら、文劇部は、居心地の良い場所ではなくなるかもしれない。私も美優も、それを十分に理解している。

 気まぐれが居場所を奪うこと。気まぐれで居場所を奪われてきたこと。その残酷さを。

 私たちは余り物だ。しかし一人ではない。ただ、それは今だけかもしれない。

 高校生たちが、こちらを見ながら内緒話をしている。陰口ではないだろう。人に悪意を向けるときは、目つきが鋭くなるはずだ。前島さんがそうだったから。

 やがて高校生たちは席を立ち、鼻の下を伸ばしながら話しかけてきた。

「あっ、その制服。俺たち、同じ中学校に通っていたんだよね」

 同じ中学校。だからどうしたのだろうか。心の中で考える。

「浴衣のお姉さんは同級生かな。一緒に祭りを回ろうよ」

 高校生は、美優だけに視線を向けている。その瞬間、私はだしに使われたのだと知った。最初から美優目的で声をかけたに違いない。当然だ。今の彼女はとりわけ美しいのだから。

 しかし、ありきたりのナンパとはいえ、生理的な嫌悪感を覚える。私と美優、どちらが魅力的なのか、痛いほどに思い知らされるからだ。

 万が一、私目的のナンパだったとしても、そのときは美優の身になって考えてしまうだろう。浴衣や下駄といった背伸びをして、華やかに装ったにもかかわらず、異性からは気に留められない美優。もしかしたら、彼女が大切に育んできた恋心すら、風船のように割れてしまうかもしれない。

 だから美優目的で良かった。私じゃなくて良かった。

 私が我慢すれば、誰も不幸にならないから。

 ところが、高校生たちは強引だった。「待っている人がいるので」と美優が断っても「その人は、違う人が好きなんでしょ」と食い下がる。私たちの会話に聞き耳を立てていたのだろう。いや、話す声が大きかったのかもしれない。どちらにせよ、気持ち悪い。傍観者の私ですら鳥肌が立つ。

 高校生たちが、不意に美優の手を掴む。そのとき、銀が間に入ってきた。

「すいません。その手を離してください」

 言葉こそ発しないものの、背中からは憤りが感じられた。彼の雰囲気に圧倒されたのか、強引だったはずの高校生は、いとも簡単に手を離した。

「なんだよ。男たらしか。気色悪いな」

 暴言を吐き捨てた高校生は、背を向けて歩き出す。捨て台詞のつもりだろうか。見苦しいと分かっているものの、目の前で友達が傷付けられて、冷静でいられる私ではなかった。

「今、なんて言ったんですか」

 ただ、最初に口を開いたのは、私ではなく銀だった。

「僕の友達に、なんて言ったんですか」

 振り返らずに立ち去ろうとする高校生二人。堪えきれなかったのか、銀が一人の腕を掴み、「逃げんなよ」と声を荒げる。年上相手に敬語を忘れるほど、彼は興奮している。

「男のくせに、年下相手に逃げんなよ。謝れ」

「鬱陶しいな、お前」

 高校生が手をはねのけて、銀を睨みつける。坊主頭に甚兵衛で、おまけに身長も低い銀だから、高校生に見下ろされている。彼は震えていた。それでも逃げなかった。背中からは、臆病な憤り。彼は、友達のために感情を行動に出せる人間だ。前島さんの陰口に同調していた私とは、きっと違う。

 心苦しく思ったのか、美優が仲裁に入ろうとする。だが、ここで駆け寄ってきた鏡花が制止した。私と美優の前に立って、庇うように両手を広げる。

「ごめんな。遅くなって」

 彼曰く、前島さんと清水さんに偶然遭遇したという。そこで、今朝のことを謝っていたら、時間を取られてしまったらしい。「今朝のこと」とは、鏡花と前島さんが、板のことで言い争ったことに違いない。

 どうしてだろうか。鏡花が謝る理由なんてないのに。事の発端は、板が重いと言い出せなかった私にあるのに。そう問いかけると、彼は振り向かずに答えた。

「言い過ぎたなって思ったんだよ。勝手に文劇部の部室を使おうったって、俺は別クラスの問題に首を突っ込んだわけだし」

 銀を見つめながら「多分さ」と話を続ける鏡花。

「気張っていたんだろうな。あの場で宇野を守らなきゃ、小学校のときみたいに、また教室で孤立するんだろうなって思って。そんなの、もう嫌じゃないか」

 このとき、私はずっと守られていたのだと知った。廃部寸前の文芸部と演劇部を合併して、居場所を守ってくれた。前島さんに歯向かって、立場を守ってくれた。そして今、高校生たちから守ってくれている。

 それは、私が友達だからか。それとも、女子だからか。

 男子に守られる女子。想像した途端に、得も言われぬ緊張に襲われた。どうにか気を逸らそうとしたからか「リュックのチャック、開いてるよ」という場違いなことを喋っていた。

「その桜のかんざしも、似合ってるよ」

 ようやく振り返った鏡花は、屈託のない笑顔を浮かべた。彼のえくぼを見て、心臓が暴れ回る。治まってよ、美優がいるのに。そう念じながら、セーラー服のリボンを握りしめた。幸い、鏡花はチャックを閉め直していたから、私の表情を見られずに済んだ。

「何をしているのですか」

 乙黒先生の声が聞こえたのは、それからすぐのことだった。

「佐藤くん。説明してください」

 先生は、いつの間にか銀の横に立っていた。黒いパンツスーツだからか威圧感がある。すると、高校生が助けを求めるようにして喋り出した。「彼が突然腕を掴んできた」とか「逃げんなよと挑発された」とか、事実だが、都合の良いことをまくしたてる。

 高校生たちがひとしきり話し終えると、間髪を入れずに、先生が吠えた。

「恥を知りなさい」

 銀ではなく、高校生に向けられた言葉だった。私は呆気にとられる。当事者の銀も同様だったはずだ。

「何がしたいんですか。急に割り込んできたのに『恥を知りなさい』って」

 高校生が不服そうに声を張り上げる。しかし動じることもなく、先生が言った。

「佐藤くんは、自分から喧嘩を売るような生徒ではありません」

 銀を一瞥してから、語勢を強める先生。

「部員のために感情を露わにできる、優しい心を持った生徒です」

 言動から察するに、先生は事件の一部始終を見ていたのではないだろうか。

 それとも、去年の出来事を思い出していたのだろうか。


 去年の文化祭。劇を中断してしまった直後、私たちは先生たちから非難を浴びた。大人にとって、スケジュールは心より重いものだったらしい。駄文劇部、という屈辱的な呼ばれ方も棚に上げて、職員室で叱ってきた。

「みんなが笑えば、宇野も美優も鏡花も、どうでもいいんですか」

 文化祭の終わりを告げるチャイムが鳴った。その瞬間、銀が先生に歯向かった。

 今思えば、あれは若気の至りだったのだろう。見栄を張ろうとしたのかもしれない。それでも、確かに声を上げた。私たちのために。

「美優は、役者が四人しかいなくても劇ができるように、時間がない中で一から台本を作ってくれた。宇野と鏡花は、元々文芸部だったのに、僕たちの劇に付き合ってくれた。それを全部笑いものにされて、駄文劇部って呼ばれて、それでも我慢しろって言うんですか」

 乙黒先生も含めて、職員室にいた先生全員が、銀の方を向いていたように思える。当の彼は、体格の大きい学年主任を前にして、下を向きながら、拳を震わせていた。

「プログラムを守って、全校中から笑われても我慢して、みんなのために、喜んで晒し首になる。そんな友達の姿なんて、僕は……」

 彼のかすれた声を制止して、深々と頭を下げたのは鏡花だった。

「ごめんなさい。軽率でした。部長の俺が、もっと考えるべきでした」

 それから先の記憶は途切れ途切れだ。銀だけが居残りで怒られて、玄関で乙黒先生が慰めてくれて、銀が獣のように呻きながら泣いた。「鏡花が止めなければ」と言いながら。

 結果的に、鏡花が残念な優等生になって、銀が問題児になった。

 大人にも子供にもなれない私と美優。大人に近い鏡花と、子供に近い銀。

 四人揃って、余り物になった。


「ところで、台本の進捗はいかがですか」

 先生の仲裁によって、どうにか事態は収束した。高校生が謝り、美優が許した。それから先生は、思い出したかのように、台本の進み具合を尋ねてきたのだ。

「まあ、ぼちぼちです」

 銀が言った。嘘ではない。ヴォリエラで悩みを三つ解決すれば、台本が手に入るからだ。

「では、あらすじを聞かせてください」

 ただ、その質問には答えられなかった。悩みを全て解決するまでは、台本の中身が分からない。かといって、先生にヴォリエラの存在を伝えるわけにもいかない。「私たち五人の秘密にしてください」というフランの言葉を思い出す。

 黙りこくる私たち。先生はため息をついて、呆れるように眉をひそめた。

「明日と明後日は、部室を閉鎖しましょう」

 思わず「えっ」と声を漏らす。美優も同様だ。ただし、否定的な理由ではないという。

「二日間も台本が書けない環境に置かれれば、自然と台本を作りたくなるはずです。四人それぞれ、自分の家で考えてくるだけでも違います」

 部室が閉鎖されれば、ヴォリエラには行けない。なぜなら、あの台本を持ち出そうとすれば吸い込まれてしまうから。かといって、代替案が思い浮かぶわけでもなかった。

「物語を作るコツがあります。それは、序盤に大事なものを持ってくることです」

 きっと、乙黒先生は劇や物語といった創作物を愛しているのだと思う。そうでもなければ、わざわざ「余り物の駄文劇部」に助言を与えることはしない。

 文劇部が使えないということは、これから二日間、学校から居場所が消えることになる。耐えられるだろうか、と美優に視線を合わせた。彼女の表情を見るに、私と同じ心配をしているようだ。

 しかし、美優は意を決したように頷いた。それから、先生に問いかける。

「明日、一時間だけ部室を使わせてください」


 日曜日は雨が降っていた。しかし、ヴォリエラでは青い空が広がっている。雲の上にあるのだから、雨も届かないのだろう。

 美優の交渉は成立し、九時から十時まで部室を使うことができた。だから、私たちは九時になった瞬間にヴォリエラへ向かった。鏡花だけは少し遅れたようで、落とし物の財布を届けていたようだった。

 昨日、なぜ「一時間だけ部室を使わせてほしい」という提案をしたのか、当の本人に訊いたところ「悩みが解決するかもしれないから」とのことだった。

「ねえ、オオカミ」

 ヴォリエラに到着した美優は、すぐさまオオカミを呼んだ。草むらから飛び出してきたオオカミを、たんぽぽの元まで誘導する。まるで犬と飼い主がドッグランで遊んでいるかのようだ。

「誰かを守ろうって思ったとき、まずは強くなろうって考えるかもしれない」

 私とフランは、草むらに座りながらそれを見ていた。「おとぎ話みたいだね」と二人で笑い合っている。もっとも、物語の中では、しばしばオオカミが悪役になるけど。

「でもね、大切なのは強さなんかじゃない」

 何気なく辺りを見渡すと、前に描いた魔法陣が、跡形もなく消えていることを知った。心なしか、ヴォリエラが縮んでいるように見える。いや、私が疲れているだけだろう。気をまぎらわすように、フランの頬を突く。白い肌がゆがんで、やけに面白かった。

「守りたいものの、そばにいてあげること」

 美優の言葉を聞いて、昨日の鏡花を思い出した。高校生たちから私たちを守るために、庇うように両手を広げる彼の姿。

 そうだ。私はあの瞬間、「鏡花が守ってくれている」と感じた。ならば、恋をしている美優は、なおさらそう思ったに違いない。

「前に、鏡花が『たんぽぽは守られたいと自分から思ってるのか』って言ってたよね。覚えてるかな」

 オオカミが頷く。銀と走り回っていた鏡花も、ちらりと美優の方を向いた。名前を呼ばれたから反応したのだろう。

「女の子はね、『そばにいてくれる男の子に守られたい』って思うんだよ」

「どうして、それが分かるのでしょうか。たんぽぽに口はないのでしょう」

 鏡花みたいなことを問うオオカミ。美優は微笑みながら、「わたしがそうだから」と答えた。

 風が吹いて、彼女のショートボブが優しく揺れる。

 私が三度瞬きする頃には、オオカミもたんぽぽも消えてしまっていた。視界には、一人佇む美優の姿が映る。

「大切なものは、いつだってそばにあるのでしょうね」

 フランが呟いた。その横顔が、今では苦しい。永遠の別れでもないというのに、二日間会えないというだけでも、無性に寂しかった。

 彼女に「またね」を告げることすら苦しいのならば、文劇部の三人と別れるとき、私はどうなってしまうのだろうか。笑顔で手を振れるだろうか。そもそも、別れるまでに友達でいられるだろうか。不安が不安を呼んで、自分で首を絞めて、苦しんでいる。

 ただ、これから三年間は安心できることに気付いた。成績優秀な鏡花でも、塾に通い始めたと言っていた銀でも、偏差値の高い高校に行くために、札幌を離れたりはしないと思う。

「二つ目の悩みが解決しました。お見事です」

 いつの間にか、私たちの周りに三人が集まっていた。「また僕の知らないところで」と銀が落胆している。ただ、悩みの解決方法は、鏡花も銀も知らない方がよかったのかもしれない。美優の恋心は、安易に打ち明けるものではないから。

「さて、三つ目にして最後の悩みを公開しましょう」

「ちょっと待ってくれ」

 フランの言葉を遮ったのは銀だ。彼は、申し訳なさそうに眉尻を下げている。

「実は僕たち、これから二日間来れないんだ。そこで、悩みを聞くのは次に来たときにしたい」

 不思議に思った。悩みを聞くだけなら、今日だってできる。それに、悩みの解決方法を考えるだけなら、ヴォリエラに来なくたって可能だ。

 しかし、銀には理由があるらしい。

「昨日、僕は乙黒先生に助けられて、台本を作るコツも教えてもらった。だから、この二日間は先生の言う通りにしたいんだ」

 彼らしくない発言だ。ただ、それをからかうような私たちじゃない。重い口調で呟く彼の言葉を、汲み取るようにして聞く。

「先生が僕を信じてくれたんだから、僕も先生を信じようと思う」

 去年の文化祭から問題児とみなされた銀にも、乙黒先生は変わらず接し続けた。彼の中では、「乙黒先生」はただの教師ではないのだろう。前には「最近ちょっと厳しすぎる」なんて愚痴を漏らしていたが、それも信頼の裏返しなのだと考える。

 美優も鏡花も、銀の意見を尊重した。もちろん私もだ。同調圧力なんかじゃない。私の意思で、悩みを聞かないことにしたのだ。

「承知しました。寂しくなりますね」

 フランが立ち上がって、三人の顔を交互に見た。それから「お気を付けて」と、一人一人と握手を交わす。美優、次に鏡花。それから銀の手を握って「温かい手です」と言っていた。案の定、銀の耳が赤くなる。顔を背ける銀を見て、私と美優で笑った。

「宇野さんも、握手しましょう」

 一つ頷いて、私は立ち上がった。手に付いた草を落として、スカートで二度擦った。「大丈夫ですよ」と、フランが口に手を当てて笑う。その麗しい肌を汚したくないから、衣服で拭うことを選んだのだ。

「また会いましょう。今度は、翼を広げた状態で」

 手を差し出される。それを無言で握る。やけに冷たかったから、私の熱を分けてあげた。まるで命が戻ったかのように、フランが微笑みかけた。

 間もなくして、私たちは部室に戻った。まだ五分ほど過ごせたものの、すぐに全員帰ってしまった。きっと、考えていることは同じだろう。乙黒先生を信じて、一度自分で台本を作ろうと心に決めているのだ。そこで、私も帰路についた。

 家に帰って、自室のベッドに倒れ込む。そのまま空想の世界に入った。頭の中では、炎を吐くドラゴンとか、白馬に乗った王子様とか、円盤から姿を現す宇宙人とか、そういったアイデアが暴れ回っている。難しいのは、それらをまとめて物語に落とし込むことだ。

 宇宙人を一列に並べていると、お母さんが「勉強しなさい」と騒ぐものだから、物語があっという間にバラバラになってしまった。今日中に考えるのは厳しそうだ。

 次の日は月曜日で、ちゃんと授業があった。相変わらず前島さんとは気まずいものの、土曜日に鏡花が謝ってくれたおかげか、陰口も罵倒もなかった。美優もそうだったらしい。

 また、五月に行われた学力テストの結果が、六月の今日になって通知された。いつも通りの酷い点数で、どこの高校にも受からないのではないか、と勘ぐってしまう。

「この学年から、全道一位の生徒が出ました」

 担任が言うも、男子たちが呆れるように「どうせ神崎だよ」と嘆いた。

「欠点が駄文劇部ということしかないよな。あいつ、推薦狙っているんだっけ。頭良いなら一般で受けろよ」

 とある男子が、同意を求めるように呟く。しかし誰も頷かない。成績が全てのテストでは、一位を勝ち取った生徒が偉い。だから、たとえ駄文劇部と嘲笑しようが、それは嫉妬としか捉えられないのだった。

 覗き見るつもりはなかったのだが、前島さんの結果が目に入ってしまった。全道三六二位で、学年二位。私からすれば十分な学力だが、当の本人は拳を握りしめていた。第一志望の合格率は、五パーセントと書かれていた。

 その日はさっさと家に帰って、目を閉じれば火曜日だった。今日から部室が開放されるはずだ。結局、私の中でアイデアがまとまることはなかった。多分、三人も同じだろう。それでも、台本を作ろうとしたこと自体が、私の中で大きな自信となっていた。

 朝といえども、早くフランに会いたい。教室よりも先に部室へ向かった。

 部室の扉を開けると、同じ考えを持っていたのか、銀と美優も椅子に座っている。胸が弾んでいた私は、「おはよう」と声も弾ませてみた。

 しかし、返事がない。聞こえなかったのかと思い、もう一度挨拶する。今度は「座ってくれ」と銀に言われた。挨拶が聞こえているなら、返事くらいしてもいいだろう。私は不機嫌になりながらも、どうにか平静を保った。せっかくヴォリエラに行けるのだから、この程度のことで機嫌を損ねたくはない。

 荷物を置いて、椅子に座る。そこで異変に気付いた。美優が顔に手を当てて泣いていた。前島さんに辛辣な言葉を浴びせられても、彼女が涙を見せることはなかった。そのときは我慢していたのだろうが、今回は違う。涙を隠そうともしない。

「さっき、乙黒先生から聞いたんだけどさ」

 銀は一度顔を下に向けて、大きく息を吐いた。緊張が走る。私の肌が、震え始める。

 まるで「目を逸らすな」と命令するかのように、銀が私を鋭く睨む。そのまま数秒間、彼は瞬きもせずに、口を開いた。

「鏡花が前島を殴った」

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