目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第2章 仮面、美優

 前島さんが言った。

 たとえば、掃除中に全員が駄弁っている中、一人黙々と床を掃く生徒がいる。スカートの短さを競う中、一人校則を守る生徒がいる。小柄で、ショートボブで、ちょっと顔が良くて。ただ、集団に馴染めない生徒がいる。

 あの子は空気が読めない。

 前島さんの意見に、みんなに賛成した。私もそうせざるを得なかった。これが同調圧力だと思い知らされた。

 小学校の頃みたいに、自分の意見を言うことはできない。求められているのは、議論ではなく同意だ。

 大人にも子供にもなれない私たちは、多数派になることを強制されている。


 放課後のチャイムが鳴って、文化祭の準備が始まった。教室が騒々しくなる。

「部活の出し物がある人は、そっち優先でいいから」

 声を張り上げたのは前島さんだ。去年も一昨年も同じクラスで、行事のたびに張り切っていたことを思い出す。威圧感があって、逆らえない人。いわゆるクラスのリーダー的な女子だ。揉め事を起こしたくないから、私はいつも彼女に肯定していた。

 ただ、今日の彼女は都合が良い。私には文劇部の出し物がある。それならば、息苦しい教室から退出してもいいと、女王が直々に許可したのだ。「ありがたき幸せ」と心の中で深くお辞儀をする。それから、美優と一緒に部室へ向かおうとした。

「あ、渡辺さんは残ってよ。ちょっとでいいから」

 教室から出たとき、美優だけが呼び戻される。私は要らないのか、とは思わない。私が余り物なのは知っている。それよりも、美優が必要とされていることが嬉しかった。「またあとで」と告げて、私は私の居場所へと向かうことにした。

 部室に入ると、丁度鏡花が台本の中に入る途中だった。疑っていたわけではないが、やはり、昨日の出来事は現実だったらしい。

「宇野、美優はどうしたんだ」

 首から下を沈めながら、鏡花が訊く。「美優はクラスの仕事がある」と伝えると、彼は親指を立てながら台本に潜っていった。台本の中が溶鉱炉だったらどうしよう、と馬鹿げたことを考える。

 鞄を置いた私も、鏡花に続く。体が吸い込まれるようにして、ヴォリエラに辿り着いた。

「おー、二人とも。一日ぶり」

 銀が怠そうに手を振ってくる。隣にはフランがいて、彼の真似をしていた。風に揺れる花みたいな手で、なんとも可愛らしい。私も手を振り返した。

 それから「美優はどこだ」と辺りを見渡す銀に、私から説明する。

「美優がクラスで頑張っているなら、うん。負けてられないな」

 油が水に溶けないように、私たちはクラスに溶け込めない。これは文劇部の共通認識だ。だからこそ、部員が教室で作業しているという事実は、気だるげな銀すら奮い立たせることだった。もちろん、私も例外ではない。

「フラン、最初の悩みを教えてくれよ。一旦僕たち三人で考えてみる」

 昨日と打って変わって、銀は堂々としていた。私と鏡花がいない間に、何かがあったのだろうか。それとも、美優の件で意気込んでいるのだろうか。どちらにせよ、今の銀は頼もしい。背中を預けられるほどの威厳だ。

 ふさり、と草を掻き分けるような音がする。美優が来たのだろうか。辺りを見回すものの、彼女の姿はない。しかし、風が吹いたわけでもない。なぜなら、フランの髪が揺れていないから。

「こんにちは」

 今度は声も聞こえた。ソプラノリコーダーを彷彿とさせる、高い声だ。だが、やはり姿はない。どうしたものか。フランに視線を向けると、彼女は涼しい顔で見つめ返してきた。まさか、幽霊が現れたとは言わないだろう。

「下です。下を見てください」

 下。昨日の銀との会話があるから、「ヴォリエラの下を見ろ」という指示だと解釈した。ただ、何気なく視線を下ろしたときに、その解釈が間違いだったと気付く。

 足元に、一羽の白いウサギがいた。草むらにまぎれていたからか、見落としてしまったのだろう。そこで、そっとウサギを持ち上げてみる。すると、「うわあっ」という間の抜けた声を出した。日本語を喋る動物。まるで幻想が具現化したような能力だ。

「ええと、私には悩みがあります。相談に乗ってください」

 私の腕におさまったまま、ウサギは話した。よく見ると、頭にたんぽぽの花が乗っている。白と黄色のコントラストが美しい。カチューシャのようなものだと思えばいいのだろうか。いや、深く考えるのはよそう。これはウサギなりのオシャレなのだ。

「悩みかあ。頭を使うことなら、俺に任せてくれよ」

 鏡花がウサギの背中を撫でる。それが心地良いのか、ウサギがうっとりするように目を細めた。銀は遠巻きにして眺めながら、フランと談笑していた。とても悩みを聞く状況ではない。

 少しして、はっと目を見開いたウサギ。思い出したかのように「ああっ」と声を漏らす。それから、私と鏡花を交互に見据えた。一回、二回、三回目の後に、ウサギが言った。

「時間を巻き戻す方法が知りたいのです」

「なんだって」

 声を張り上げたのは、遠くにいたはずの銀だった。よほど大きな声だったのか、隣にいたフランが耳を塞いでいる。

「許せないことが起こったのです」

 高い声のまま、ウサギは重苦しく語る。私の中では、ウサギは温厚で優しい印象があった。だから、ウサギが感情を露わにする様子は、新鮮であると同時に、いかに重大な事件が発生したかを物語っているようでもあった。

「時間を巻き戻すなら、タイムマシンがあれば――」

 私は言いかけて、やめた。ウサギが相談しているのは、タイムマシンの乗り方じゃない。タイムマシンの造り方だ。

 つまり、これから私たちが行うのは、世紀の大発明。

無謀としか言いようがない。どれほど偏差値が高い高校に行っても、どれほどの難関大学に進学しても、時間を戻せる方法は教えてくれないだろう。私に至っては、中学の勉強すら怪しいのに。

「さすがに、無理だよ。私たちには」

 不可能を可能にする天才は、確かに存在するのかもしれない。しかし、札幌の公立中学校から現れることはないだろう。

 持って生まれた才能は、例外なく傲慢で目立ちたがり屋だ。IQ二百越えとか、ギフテッドとか、つまりは親が「神童だ」と騒ぎ立てて、東京の私立小学校に入学させることから始まる。

 私は違う。日陰の存在で、成績も悪くて、親から「まずは平均より上を目指しなさい」と鬱陶しいくらいに言われる人間だ。スタートラインにも立てていない。だから無理だ。諦めよう。自分たちで台本を作る方が、よっぽど現実的に違いない。

「馬鹿言うなよ」

 馬鹿。それは、間違いなく私に向けて投げかけられた言葉だ。

「『悩み』だぞ、これは。判断の基準は、可能か不可能かじゃないだろ」

 急ぎ足で詰め寄ってきたのは、銀だった。不快そうに眉間にしわを寄せている。彼が感情をむき出しにするのは、珍しいことではない。

「思い悩んでいたことを、勇気を出して打ち明けてくれたんだ。台本を手に入れないなんて、二の次だよ。まずは真摯に向き合うのが、僕たちの役目じゃないのか」

 美優が頑張っているから、自分たちも頑張らないと。そういった使命に近い感情が、彼の中にはあったのかもしれない。もしくは、フランに体裁よく見せたかったのだろうか。

いや、それは違う。「真摯に向き合う」という言葉は、上っ面だけでは生み出せない。

 本心だ。上辺の言葉が、私の胸に刺さるわけがないのだから。

「うん、銀が正しい。ちょっと、私、浅はかだった」

 非を認めた。ウサギにも謝った。「いいですよ」なんて言ってくれたけど、本当は呆然としていたかもしれない。軽率な発言だったと反省する。

「頼むよ。ややこしいことは言わないでくれ」

 苦笑混じりに注意された。銀に叱られる日が来るとは想像すらしなかったものだ。ただ、決して彼を見下すわけではない。むしろ、熱い一面が知れて喜ばしく思う。

 ふいと後ろから気配を感じた。振り向くと、美優が立っていた。いつからいたのだろうか。銀に説教されている様子を見られたとしたら、なんだか気恥ずかしい。

 すぐに鏡花は、これまでの経緯を彼女に説明した。細やかな気遣いというか、彼は周りがよく見えている人だと感じる。中学校でも私と接してくれるのは、彼なりの優しさだろうか。

 混ざろうと思えば、もっと騒がしくて明るい集団にも混ざれたはずだ。それなのに、彼は文劇部の部長を務めて、私たちと同じ「駄文劇部」の十字架を背負っている。

 鏡花が話し終えると、美優は静かに頷いた。

「うん、うん。そっか」

 不自然だ。彼女の表情が、星のない夜のように暗かった。悩みも台本も興味ない、とでも言いたげな、無気力で空っぽな雰囲気と仕草。クラスの準備に疲れたのかもしれないし、女子特有の、あの日が訪れたのかもしれない。ただ、美優の憂鬱をすんなりと受け入れることはできなかった。私と美優は、ただの部員同士じゃないのだから。

 しかし、それを指摘することもできなかった。私には、一歩踏み出すための勇気が、話をややこしくする覚悟が、どちらもなかったのだ。

 結局、進展はなかった。時間を巻き戻す方法も、美優についても。

 フランが下校時間五分前を教えてくれる。私はウサギを草むらに下ろし、それから「諦めないよ」と声をかけた。

「諦める選択肢もないでしょう。問題から目を逸らしたくせに」

 声が聞こえた気がして、そちらに顔を向けた。自分自身だった。


 鏡花と鉢合わせたのは、昼休みの図書館だった。

「俺たち、同じことを考えてたらしいな」

 彼は『君もタイムトラベラー』と書かれた分厚い本を抱えている。一方の私も『時をかけよう』という小説を借りるところだった。

「ここだけの話、時間を巻き戻すなんて、俺も無理だと思ってるよ」

 図書館だからか、それとも内緒話だからか、鏡花がひそひそと話す。距離が近い。図書館特有の香りが、夏を迎えた男子の匂いへと変わっていく。胸の高鳴りを隠すように、本を両手で抱えた。

「でも、銀があんなに張り切ってるの、珍しいからさ。俺も一肌脱いでやろうって考えたんだよ。あいつ、良い奴だからな」

 歯を見せて笑う鏡花。彼の頬が緩むと、えくぼができる。小学生の頃から変わっていない。そのえくぼを見るたびに、独占欲に似た感情を覚える。私だけが知る、鏡花の一面。

 それから私たちは、各々の本を借りた。廊下に出ると、人が少ないのを確認できる。昼休みも文化祭の準備に勤しんでいるのだろう。私たちが本を借りたのも、準備の一環と言えるだろうけど。

「なあ、宇野」

 私の教室に着いたとき、鏡花が言った。

「美優は、大丈夫なのか」

 瞬時に、何を言わんとしているか察した。昨日の美優についてだ。彼女の異様な雰囲気を、彼もまた案じていたのだろう。

 美優は相変わらずだった。相変わらずというのは、昨日から改善していないということだ。どこか憂鬱で、目に光が宿っていない。いわばマネキンのような状態だった。

「個人の敏感な問題だからこそ、安易に首を突っ込むのは気が引ける。本人から話してくれるのが理想的だが……あの状態が続くようなら、俺たちが動くことも考えよう」

 神妙な面持ちのまま、鏡花は自分の教室へと戻った。彼は、理性的な一面を持ち合わせている。小学生の頃から、大きく変わってしまった一面。

 午後の授業は身が入らない。それはクラス全員が一緒だろう。文化祭の準備だとか、眠たいだとか、そういった理由で。教科書も広げず、俯いたままの美優が気がかりなのは、きっと私だけだ。

 放課後になって、美優と部室に向かう途中も、一切会話がなかった。途中で合流した銀も、それとなく察した様子で黙っている。一方、部室にいた鏡花はいつもと変わらず振る舞っていた。彼のことだから、自然体でいることが適切だと判断したのかもしれない。そこで、私も同様に、いつも通りの行動を心掛けることにした。

 鏡花が、鞄から分厚い本を取り出した。『君もタイムトラベラー』だ。それを右手で抱えて、左手を台本に伸ばす。すると、彼は本ごと吸い込まれていった。どうやら物も移動できるらしい。もっとも、それができなければ、私たちは制服を脱いでヴォリエラに向かう必要があるのだが。

 かくいう私も、借りた小説ごとヴォリエラに到着できた。フランとウサギとも再会する。準備は整った。さて、時間を巻き戻そう。

「みんな、魔法陣を作るぞ」

 鏡花曰く「とびっきりデカい四重丸の中に、六芒星を描く」らしい。子供騙しのように思える。だが、やらなければ分からないだろう。幸いなことに、ヴォリエラは広い。銀は意欲的であるし、フランも協力してくれるという。

「でも、どうやって地面に線を引けばいいのかな」

 私が言うや否や、鏡花がまた台本に飛び込んだ。呆気に取られていると、数分後に、鏡花が車輪のついた青い箱を持ってきた。ラインカーだ。小学校の運動会で、先生が白い線を引くために使っていたのを思い出す。

「ちょっと待ってくれ。あと三台ある」

 ヴォリエラに持ち込まれた、計四台のラインカー。フランが手伝うとなると、一人余ることになる。そこで、フランを含めた五人でじゃんけんをした。結果、美優が休むことになった。男子も女子も平等なじゃんけんで休みを勝ち取ったのだから、美優は誇るべきだろう。申し訳なさそうな彼女の表情を見て、そんなことを思う。

 ヴォリエラの外側から、銀、鏡花、私、フランの順番で並ぶ。もちろん、これもじゃんけんで決めたのだ。「足滑らせたら死ぬだろ」と銀が震えている。一番内側だからか「心配すると本当に落ちますよ」と無邪気に笑うフラン。案外、彼女は茶目っ気があるのかもしれない。

 そして、最初に走り出したのもフランだった。はしゃぎ声を出しながら、ラインカーを傾けて、白い粉の足跡を地面に刻んでいく。負けじと私も追いかけた。後ろから、鏡花の笑い声も聞こえる。銀の絶叫も響く。私が銀の立場だったらと考えると、彼を馬鹿にはできない。

 休憩も挟みつつ、どうにかヴォリエラを一周した。見渡すと、確かに白い丸が出来上がっている。まだ銀が一周していないため、四重丸ではないが。

 何気なく杉の方を見やった。美優が座っているのを遠目からでも確認できる。ウサギを抱きかかえて、優しく背中を撫でているようだった。

 思いがけず、美しいと感じた。小柄で、ショートボブで、清潔感がある。ウサギを撫でている姿だけでも絵になる。演劇をする上で、これほど整った女性はいるだろうか。そう私に考えさせるほどだった。

ただ、彼女は平常ではない。憂鬱そうで、目に光が宿っていない。

 間もなくして、銀が帰ってきた。次に描くのは六芒星だ。一旦杉の下に集まり、『君もタイムトラベラー』を見直す。おおよその位置に目印をつけて、体力が回復してからラインを引いた。美優が立ち上がることはなかった。

 魔法陣が完成する頃には、とっくに六時を回っていた。草の上に線を引いたからか、粉が風に飛ばされている部分もある。しかし修正する時間はない。一発勝負だ。

「最後に、魔法陣の中心に立って『時よ、戻れ』と叫ぶらしい」

 そう言いながら、鏡花は杉を見上げた。目線は、遥か上空。嫌な予感がする。

「魔法陣を最大限広げた結果、中心は木のてっぺんになった」

 鏡花が言うと、案の定、銀が批判の声を上げた。「落ちたらどうすんだ」と文句を言っている。ただ、それも鏡花には想定内だったようで、彼は顔色一つ変えずに反論した。

「俺たちには、頼もしい仲間がいる」

 その瞬間、思い返した。この中には、高い場所から落ちても無傷でいられる人がいる。まるで階段を降りたときのように、足からすたりと着地できる少女がいる。

「フラン、引き受けてくれるか」

 返事はなかった。フランが既に登り始めていたからだ。猿のように機敏な動作で、彼女はひょいと跳び上がる。枝を掴み、ぐいと体を持ち上げる。勢いを殺さずに、更に高く跳躍した。

 瞬く間に、フランは頂に到達する。思わず銀が拍手するほどに速い。杉の下では、美優の腕の中から、ウサギがじっと上を見据えている。当の美優は、まだ不調なのだろうか。

 強い風が吹き、髪が暴れる。フランが心配だ、と彼女に目を向けるも、微動だにしていない。思うに、初めて会ったときに落下したのは、私たちへのドッキリだったのではないだろうか。これまでに見たお茶目な一面が、その仮説を裏付けた。

 杉と繋がっているかのように、全く揺れないフラン。彼女が、大きな声で叫ぶ。

「時よ、戻れ!」

 風が止まる。静けさが訪れる。五秒か、十秒か、それ以上か。私たちは、セメントで固められたかのように停まっていた。本当に時が止まったかのようだった。

 しかし、それが錯覚だということも分かっていた。

「……失敗だ」

 銀が呟くと同時に、私はため息をついた。

 考えてみれば、あまりに突拍子もない案だ。しかし、本当に巻き戻せるのではないかと考えてしまったのも事実だった。台本の奥に別世界が広がっているなら、時間を巻き戻すような魔法陣も生成できるのではないかと期待してしまった。

勝手に期待して、勝手に落ち込んでいる。時間がかかった分、喪失感も大きい。

 ただ、それ以上に、心を覆い尽くすほどの充実感を得ていた。ラインカーを押して丸を描き、自由気ままに六芒星を生成した。単純に楽しかったのだ。

「じゃあ、明日は宇野が借りた本で実験しようか」

 腰に手を当てて、口角を上げる鏡花。しかし、その視線は美優に向いている。

 今日の美優は、一度たりとも笑っていない。


 翌日、『時をかけよう』を徹夜で読了した私は、想像とやる気で満ち溢れていた。これから試す方法が、実に簡単なものだからだろうか。

「正座をして、口に水を含んでから目を閉じる。そのまま五分待つんだよ」

 ヴォリエラに水筒を持ってきて、次々と水を含む私たち。五人のうち、誰か一人でも成功すれば万々歳だ。

 しかし、すぐに隣から水を飲み込む音が聞こえた。誰だろうか。つい気になって、目を開けてしまう。

「ああ、すまない。邪魔しちゃったな」

 鏡花だった。よほど喉が渇いていたのだろう、とは考えない。鼻を鳴らしながら、嫌味を交えて言う。

「鏡花の魔法陣作戦が失敗したからって、私の実験を無下にするのは許されないなあ」

 もちろん冗談だ。やってしまったものは仕方ない。できる限り笑い話にしようとする。

「ごめんな。溺れてるみたいで、どうしても我慢できなかったんだ」

 ただ、彼があまりに寂しそうに笑うものだから、それ以上何も喋れなくなってしまった。安全なコンクリートを歩いていたつもりが、いつの間にか地雷原だった、という感覚だ。

 ふと、小学五年生の頃を回想した。その頃にもなれば、男女で体の変化が訪れるからか、お互いがお互いの体について繊細な時期だった。学校のプール授業では、露骨に異性を意識している水着やら、視線やらで、とりわけ居心地が悪かったのを思い出す。

 鏡花は体格が良かった。手足が筋肉質で、背中が勇ましくて、腹筋も割れていた。おまけに高身長。小学校では鏡花と行動していた私だが、プールの時間だけは、どうにも近寄れなかった。今でこそ思春期だと説明できるが、当時の私には、その理由がさっぱり分からなかった。

 しかし鏡花は水泳をやめた。六年生になってから、毎回プール授業を見学するようになった。彼は「嫌いになった」としか話さない。

 その言葉の本当の意味を、未だに訊けていない。一歩踏み出すための勇気も、話をややこしくする覚悟も、どちらも兼ね備えていない私だから。

 何気なくヴォリエラを見渡すと、魔法陣が欠けていることに気付いた。四重丸は跡形もなく消えて、六芒星を型づくる線も薄れている。風が飛ばしてしまったのだろう。

 鏡花が腕時計を持っていたから、実験の失敗を知らせるのは彼の役目だった。「五分経過」と彼が呟くと、フランは水を飲み干して「失敗ですね」と残念そうにしていた。「お前たちが喋るからだろ」と抗議する銀に、私は手を合わせる。それから美優を一瞥した。

 美優の様子は、今日もおかしい。目を伏せたまま、ウサギを抱きかかえている。

 彼女が静かになってから二日が経つ。「これ以上放置できない」という本能が、「本人の手で解決すべき」という理性を、とっくに凌駕していた。そこで鏡花と目線を合わせる。彼は一度だけ頷いた。どこまでも察しがいい部長だ。

「美優。最近、苦しそうだよ」

 まずは、その言葉から始めた。美優を傷付けないために、何度も考えて、頭の中で推敲した言葉だった。それがどれほど彼女を救うか分からないが、誰かが自分に手を差し伸べている、という事実だけでも知ってほしかった。あわよくば、救われてほしかった。

「何があったのか、話して」

 ただ、次の言葉がいけなかった、と即座に気付く。「何があった」では、事件が起こったことを知っていると暗示するようなものだ。彼女を救うには「何かあったのなら」と続けるべきだった。もっとも、事件が起こったのかは定かではないが。そもそも考えすぎている可能性もある。言葉を取り消すことはできない。黙って美優の反応を待つ。

「なんでもない」

 そのとき、私は考えすぎていなかったことに気付いた。

 ウサギをフランに渡した直後、美優が逃げるように台本に手を伸ばす。やはり何かがあったのだ。しかし、「待って」と声をかける頃には、もはや彼女の姿はなかった。

「フラン、留守番頼んだ」

 言うが早いか、既に鏡花は台本に飛び込んでいた。さりげなくフランを見ると、私に「行ってあげて」とでも言いたげな表情だ。それに応えるように、私も鏡花に続く。

 美優は、文劇部にもいなかった。それがまるで「文劇部は自分の居場所じゃない」と主張されているようで、妙に寂しかった。そして鏡花の姿もない。既に校舎の中を探し回っているのだろうか。

「僕たちも探そう。まだ遠くには行ってないはずだ」

 そう言いながら、銀が台本から出てきた。言われなくとも、私は扉に手をかける。いつもより扉が重い。寝不足だから力が入らないのだろう。そこで、ドアノブを強く握りしめながら、腰を入れて押した。

 ようやく扉が開く。その向こうには、二人の女子がいた。

「あら、駄文劇部のお二人さん」

 同じクラスの前島さんだ。隣には、常に行動を共にする清水さんの姿もあった。二人して部室を覗き込んでいる。冷やかしに来たのだろうか。いや、文劇部は学校の隅にある。何か目的でもない限り、校舎を往復するのは億劫だ。労力の割には結果に合わない。

「ちょっとね、渡辺さんを探しに来たんだけどね」

 前島さんがくすくすと笑う。冷や汗が出そうだ。つい拳を握ってしまう。

「教室にもいないのに、部室にもいないんだ。駄文劇部って、本当じゃんって思って」

 それから、二人は声をもらして笑った。もはや嘲笑を隠す気はないらしい。

「駄文劇部、駄文劇部って……何も知らないくせに」

 銀が呟く。心なしか、声が震えていた。必死に感情を抑えこんでいるのだろう。少し油を注ぐだけでも、轟音を響かせながら噴火してしまいそうだ。

「何も知らないから駄文劇部って呼ぶんだよ」

「あたしたちが知ってるのは、去年、勝手に劇を中断した哀れな文劇部だけだからね」

 言い終える前に、前島さんが噴き出した。連鎖するように清水さんも。怒りで我を忘れそうになった。ただ、私以上に険しい表情を浮かべる銀を見て、どうにか冷静を保つことができる。

 それでいい。私は、この二人の前で、感情を露わにしてはいけない。

「ごめんね。美優の居場所は分からない。さっきまでいたんだけど」

 銀の言葉を遮るようにして、私は言った。「どうして謝るんだよ」と後ろから声が聞こえる。しかし、今は無視しなければならない。あの二人は絶対なのだ。

「桜井さんも思うでしょ? 渡辺さんって、本当に空気読めないよね」

 苦笑いを浮かべながら、頷くしかなかった。ふと美優の顔が浮かぶ。物憂げで、魂のない表情。「ごめんなさい」と心の中で呟く。手を叩き、高笑いしながら部室から遠ざかる二人。睨むことしかできなかった。私は、ピラミッドの最底辺だから。

「宇野。お前は今、陰口を叩いたんだぞ」

 知っている。前島さんが発した悪意の言葉に、私は同調することを選んだ。友達を売った。そんなこと、私が一番分かっている。それができるほど、自分が弱い立場にあるということも。

「プライドはないのかよ。自分で自分が恥ずかしくないのかよ、お前」

「黙ってよ」

 振り返って、銀の顔を見る。怒りに満ちた表情だ。

 馬鹿みたい。何も知らないくせに。

「前島さんには逆らえない。逆らったら、どんな目に遭うか分かる? 分からないでしょ。銀だって、鏡花が部活を守ってくれてるから強気でいられるくせに」

 感情をまくしたてて、それからは口論に発展した。陰口は最低だ。本当は思っていない。口に出したら同罪。銀は嘘を知らない。嘘にも加減がある。理想ばっか並べないで。

 言いたいことだけ喋っていたから、銀の言葉は少しも耳に入らない。

「美優、泣いてたよ」

 喧嘩が止まったのは、鏡花が部室に戻ったときだった。

「空き教室で、一人きりだった。もっと早く見つけたかったけど、俺だけじゃ無理がある」

 直接触れはしないものの、その声色が、私たちを軽蔑しているように感じられた。当然だ。私は陰口に同調して、なおかつ彼女を放置して喧嘩していたのだから。今になって、ようやく自分の愚かさを知る。

 鏡花は美優を保健室に連れて行ったらしい。部室を出て、三人で廊下を歩く。

「宇野、さっきは言いすぎた」

 唐突に、銀が話した。私もつられて謝罪する。ただ、平静を取り戻した今なら、銀の言い分も理解できる気がした。

 クラスの準備を頑張っていた美優が、女子二人と部員一人に陰口を叩かれていたのだ。私は思う。「文劇部の部員が陰口を叩いた」という事実こそ、美優の居場所を奪う行為だったのではないか。

「男子と女子じゃ、事情が違うんだろうな。男子の僕が感情のままで喋るのは間違いだったよ」

 ほどなくして、保健室に着いた。不本意とはいえ、美優の陰口に同調したこともあり、少し気まずくなる。すると、鏡花が扉に手をかけながら、低い声で喋った。

「間違えたのは優先順位だろ」

 保健室には、白石先生が座っていた。膝に手を置いて「待っていたよ」と口にする。先生は私たちの喧嘩を知らないだろうけど、それを咎められているようで不甲斐なかった。

「渡辺さんはベッドで横になっている。私はちょっと席を外すから、あとはよろしくね」

 生徒の苗字を覚えていたり、私たち四人だけの空間を作ってくれたりで、白石先生には頭が上がらない。ベッドの横に三人分の丸椅子が置いてあるのも、至れり尽くせりだ。先生は気が利く。決して「便利」の言い換えではない。

 私たちは椅子に座りながら、横になっている美優の声を聞いた。

「さっきは逃げてごめんね。心配かけたくなくて」

 ごめんだなんて、とんでもない。陰口を肯定したことも含めて「私もごめんなさい」と謝った。今日はよく頭を下げる日だ。人に迷惑をかけずに生活するのは、きっと台本を作るよりも難しい気がする。繊細な私のことだから。

「ねえ、宇野。二日前だったかな。わたしが前島さんに呼び止められたの、覚えてる?」

「うん。覚えてるよ」

 忘れるわけない。あの日から、美優がおかしくなったんだ。

「わたし、前島さんに『渡辺さんって空気読めないね』って言われたんだ。教室にいたみんなも頷いてた。だから、わたしはそういう人間なんだ、って思った」

 昨日の授業を思い出す。教科書も広げず、俯いたままの美優。もしも、私以外の全員が前島さんの言動を聞いていたとしたら。

 あの子は空気が読めない。なぜなら前島さんが言ったから。暗黙の了解で定まった、クラスの同調圧力。

「どうすればいいかなって考えて、喋らないことにしたんだ。だって、文劇部のみんなにも、空気が読めないって思われてたかもしれないから」

「そんなことない。思っていない」

 銀が語勢を強めた。ただ、「嘘つかなくていいよ」と美優が返す。

「思い当たる節があるんだ。一人で掃除したり、スカート短くしなかったり。わたし、みんなとまるっきり違うから」

 ルールを守った美優が「空気が読めない」と言われるのは、理不尽だ。それが理不尽だと声を大にして叫べないのは、もっと理不尽だ。だから中学校が嫌いなのだ。

 今度こそ美優を傷付けずに、手を差し伸べたい。陰口に同調してしまった私だからこそ、やらなければならない。

 深呼吸してから「それでもいい」と呟いた。

 視線を向けてきた美優に、私は向き直った。

「それも含めて、私は美優の友達になりたいって思ったんだよ」

 身に覚えのある短所があるなら、それごと愛してしまえばいい。

 美優は、もしかしたら、本当に空気が読めない性格かもしれない。だとしても、それを含めて美優だ。今まで私たちが接してきたのは、ありのままの美優だ。

「ありがとう」

 震えた声だった。しかし、怒ってはいない。

 なぜなら、怒りに震えている状態で、涙を流すことはできないから。


 銀とフランが、流行りのアイドルの曲を踊っている。鏡花も足を動かし、ぎこちなく踊る。それを見て、美優が声を出して笑っていた。幸せだと思った。

 ヴォリエラでは、相変わらず失敗ばかりの実験が続いている。文劇部の机には、部員一人一人が図書館で借りたであろう、SF小説とオカルト雑誌が積み重なっていた。大抵は一日で消えていたが、次の日には違う本が置いてある。

 ただ、なぜかメーテルリンクの『青い鳥』だけはずっと残っていた。SFでもオカルトでもないのに、不思議なものだ。

 今日の実験は「流行りの曲を十回連続で踊る」という、子供でも騙されないような噂の検証だ。途中で馬鹿馬鹿しくなった私は、ウサギを抱えながら杉にもたれかかっていた。

「私のために、ここまで必死になってもらって。なんだか申し訳ないです」

 ウサギは、まるでしゅんとするように、耳を後ろに倒した。

 そういえば、ウサギが話していた「許せないこと」を知らない。何気なく訊いてみると、腕の中から返事が戻ってきた。

「冤罪ですよ。お父さんが『俺のニンジンを食べただろ』って怒るんです。それで、私が食べてないってことを証明するために、時間を巻き戻して、真犯人を見つけようって」

 ニンジンの冤罪だなんて、なんともウサギらしい。鏡花の不器用な踊りを一瞥して、彼はニンジンのために踊っているのだと考えたら、笑いがこみ上げてきた。ただ、当事者のウサギにとっては真剣な悩みなのだ。そう思い直す。

「絶対に私じゃないのに。ああ、どうしたら濡れ衣を晴らせるのでしょう」

 耳を上下に動かしながら、ウサギが唸る。

 ふと、ある考えが頭をよぎった。

「時間を巻き戻すよりも、信じてくれる誰かを探す方が簡単だよ」

 ウサギが私を見上げる。丸っこくて、なんとも可愛らしい目だ。その丸い目を見据えながら、できる限り穏やかな声色で話を続けた。

「まずは『私はやってない』って主張しよう。ありのままを伝えよう。そうしたら、誰かが手を差し伸べてくれる。時間を巻き戻すより、確率は高いよ」

 私が美優を救いたいと願ったように、ウサギを助けたいと思う誰かがいるはずだ。根拠のない推測だけど、魔法陣を描くよりは確実だろう。

「そうですね。そうに違いない」

 腕の中の声を聞きながら、また鏡花の方を向いた。

 彼は、私に手を差し伸べてくれた。不器用な手段だけど、確かに孤独の穴から救い出してくれた。

 それと同じように、ウサギを抱きかかえてくれる親切な誰かが、この先現れると信じていた。

「みなさん、一つ目の悩みが解決しましたよ」

 いつの間にか、隣にフランが立っていた。先程まで踊っていた鏡花たちも、理解できないと言いたげな表情で、私たちに駆け寄ってくる。

「あれ、ウサギがいないぞ。草むらに隠れてるのか」

 銀が辺りを見回している。妙に腕が軽くなった気がして、そちらを見ると、抱きかかえていたはずのウサギが消えていた。ふわふわとした手触りがなくなって、代わりに風が撫でてきた。物足りないものだ。

「悩みがなくなったならいいんだよ。また会いたいなあ」

 美優が顔をほころばせる。私も同じことを考えた。彼女が笑顔になって良かった。

「では、二つ目の悩みですが……」

 フランが言いかけて、渋る。「ああ」と鏡花が腕時計を見て、下校時間七分前だと言った。続きはまた明日だ。

「借りてきた本も、ちゃんと読んで返さないとな」

 文劇部の机にある小説と雑誌。その量を想像して辟易しながらも、同時に消化したときの快感も思い描いた。ジェンガが崩れたときに、子供がはしゃぐような、そんな快感。

 風船のように膨れ上がった期待に、私は胸を弾ませた。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?