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第1章 初夏、文劇部

 放課後の廊下を歩いていると「駄文劇部だ」とからかわれた。その冷やかしにも、とっくに慣れてしまっている。本当は馬鹿にされたくない。だが面と向かって言えない。気持ちを押し殺すために、その場を離れるしかなかった。

 文劇部の部室は一階の片隅にある。扉を開けると、鏡花の姿が目に飛び込んできた。ワイシャツの袖を雑にまくった状態で、文庫本を読んでいた。いつもの光景だ。

「お、宇野か。今日もお疲れさん」

 彼の声を聞くことで、数時間ぶりに肩の力を抜くことができた。文劇部は、進路や人間関係といった、面倒なしがらみから逃れられる場所だ。最近は家にいても勉強を強制されるのだから、私が私でいられる領域は、この八畳の空間だけだった。

 鏡花の隣に座った私は、そのまま足をだらんと広げた。それから、セーラー服の襟元をつまみ、パタパタとあおぐ。「はしたない」と咎める者はいない。部室には鏡花しかいないし、彼とは小学校からの付き合いだった。

 中三になった今になって、鏡花が私を異性として扱うことはないだろう。男女の壁が分厚い中学校ですら、躊躇なく私に話しかけてきた彼のことだから。

 そう自分勝手に決めつけて、自分勝手に悲しくなるのは、昔から変わらない私の癖だった。

 後ろ向きな考えを払いのけるように、机の落書きを見つめる。髪飾りをつけたウサギと、情けない表情を浮かべるオオカミの絵だ。その横には、鳥かごから飛び立つ鳥が描かれている。三つとも、私が入学したときからあった。油性ペンで描かれているから、消そうにも手間がかかるのだろう。なんにせよ、私たちには関係ない。

 がちゃり、とドアノブをひねる音が聞こえた。入ってきたのは、部員の銀だ。

「うっす。暑いね」

 銀が坊主頭を軽く下げた。彼曰く、坊主だと床屋で頼むのが楽らしい。

「もう六月だからな。文化祭の準備も、そろそろ始まるぜ」

「やめろ。文化祭なんて知らないぞ、僕は」

「佐藤くん。恥を知りなさい」

 鏡花が顧問の真似をする。彼の髪型は、ボリュームのある無造作ヘア。髪が茶色っぽいのは、決して染めたからではなく、水泳を習っていたからだ。今でこそ先生たちは事情を知っているが、入学当初の彼は、何度も生徒指導室に呼び出されていたらしい。親を呼び出してようやく理解されたとか。

 大抵、大人は子供にとって都合が悪い存在だ。

 少しして、また扉が開いた。同じクラスの美優だ。掃除当番だから遅れてきたらしい。彼女が部室に入ることで、文劇部の椅子が全て埋まった。

「ああ、美優。ちょっといいかな」

 鏡花が文庫本をしまい、代わりに一枚の紙を取り出した。四月にも見た、部員名簿。今更新入部員が来ることもないだろうに。一体何があったのだろうか。

「美優のフルネームは、これでいいんだよね」

 部員名簿には「渡辺美優」と書かれている。美優が頷くと、鏡花は白い歯を見せながら、余白に「憂」と書いた。

「乙黒先生がさ、美優の漢字を、こっちと勘違いしたんだよ」

 左手で前髪をかきあげながら「憂」の文字を指さす鏡花。彼の仕草を見て、私は思わず目を逸らしてしまった。理由は分からないが、彼を見るとよく動悸が起こる。

「分かった、ありがとう。先生に伝えてくる」

 がたり、と椅子を引く音がする。視界の端に、小走りで部室から出ていく鏡花の姿が見えた。扉が閉まっても、廊下を走るような足音が聞こえる。うちの中学校は古いのだ。

 足音が消え去り、部室が静まり返る。銀と美優も、私と同様にくつろいでいるのだろう。文劇部は、ありのままでいられる場所。私たちの共通認識だ。

「今年の文化祭、大丈夫かな」

 不意に美優が呟く。私には分かっている。彼女が心配しているのは、文化祭が開催できるか否ではなく、文劇部が馬鹿にされるか否かだ。ちらりと銀を見ると、彼は露骨に眉をひそめていた。無理もないだろう。それに、私もそうしていたから。

 文劇部は、去年の春に発足した部活だ。前身は、廃部の危機だった文芸部と演劇部。どちらも先輩が卒業してしまったため、部員が二人だけだったのだ。上級生も新入生もいない、空っぽの部活が二つ。

 そこで、私と同じ文芸部だった鏡花は、演劇部の銀と美優に働きかけて、部活の合併を試みた。幸いなことに、二人は合併に意欲的だった。

 ただ、部活名を「文劇部」にするか「演芸部」にするかの議論は熾烈を極めた。なんとも中学生らしいと思う。鏡花と銀の言い争いを見ながら、私は呆れていたものだ。

 最終的に、「演芸部」だと「園芸部」と読み方が被るということで、前者が採用された。文劇部の部室も、文芸部が使っていたものを継続することになった。

 さて、存続は決まったものの、それからが大変だった。文字で表現する文芸と、動作で表現する演劇は、芸術という範疇に属しながらも、全く別の性質を持っている。そして、銀と美優の二人だけで劇を演じることは難しい。

 結論から言うと、去年の文化祭は散々だった。私たちが披露した劇は、何もかも中途半端だったものだから、生徒の観覧席からは失笑が漏れた。どこからか「つまんなーい」という子供の声が聞こえてからは、誰もが笑いを隠さなくなった。私も水増し要員として出演したものの、今にも逃げ出したくなっていたものだ。

 失笑と冷笑の合間に、誰かが「駄文劇部」と叫んだ。それで心が折れたのだろう。銀と美優が、歯を食いしばりながら、舞台からはけてしまった。体育館に響く「駄文劇部」のコール。文化祭の真っ最中だからか、先生が注意することもなく、劇は中断されてしまったのだ。

「去年の文化祭は、中途半端な劇を披露した僕たちにも責任はあるよ。でもさ、納得できるかって言われれば、別だよな」

 銀が声を低くして話す。

「『活動内容を書け』とか『文芸部と演劇部が合併した理由を述べよ』とか言って、文劇部の活動時間を吸い取ったのは先生たちだぞ。それなのに、劇を中断したからプログラムが乱れたとか、保護者の方々に迷惑がかかったとか、叱ってきやがった」

 教育者がやることじゃない、と頭をかきながら銀がまくしたてる。私がなだめても、止まらない。まるで機関銃のようだ。

「ふざけんなよ。劇を中断しないってことは、そのまま学校の晒し者になれってことたぞ。ああ、そうだよ。僕たちは余り物だ。大人にとっては、都合の良い痰壺なんだよな。分かってるよ。ああ、分かってる」

 すると、美優が怯えるような顔で、銀の肩を叩き始める。何らかの衝撃を受けてようやく落ち着いたのか、彼はすぐに口を噤んだ。ただ、美優の表情は戻らない。扉の方向を見つめながら、ぽかんと口を開けている。そこで、私もそちらに顔を向けた。

 開きっぱなしの扉の向こうに、顧問の乙黒先生が立っていた。黒いパンプスを鳴らしながら部室に入ってくる。ふと、鏡花の物真似を思い出した。

「佐藤くん。恥を知りなさい」

 一言一句違わない台詞。笑いが込み上げてきた。咳き込むふりをしながら、口角が上がった顔を逸らす。「恥を知りなさい」の発音が良いのは、先生が英語教師で、今年四十歳のベテランだからだろうか。

 一方、年に数回イタリアに旅行するらしい。色々な言語を知っているからこそ、母語の日本語も流暢なのだろう。銀が慌てているのを横目に、そう呑気に考えていた。

「あなたはろくに準備もせず、大体の時間を雑談に費やしたでしょう。忘れたのですか」

「いえ、忘れてないです」

 先生が正しい。平静を取り戻した私は、緊張をほぐすために喉を鳴らす。

「それに、活動内容や合併の理由を書いたのは、全て部長の神崎くんです。佐藤くんの言い訳を用意するために、彼が部長に選ばれたわけではありません」

 銀の並べた屁理屈が無効化された。彼が塗装した正当性のメッキは、いとも容易く剥がれてしまう。私の視界に、ただ怠惰な坊主頭が一人。

 乙黒先生は、なんとも無様な銀を一瞥してから、部室全体を見渡すようにした。

「それから、みなさんは三年生です。部員全員が写った、卒業アルバム用の写真を提出してもらう必要があります」

 おもむろに、先生が私を見据える。

「ここは桜井さんに頼みましょう」

 つまり、私はどこかで写真を撮らなければいけない。とはいえ、時間が空いたときでいいだろう。そう楽観的に考えていると、急に肩に手を置かれた。

「副部長として、恥のない写真を期待しています。それでは」

 急にダンベルを持たされたかのように、副部長という肩書きに重みを感じた。それと同時に、「駄文劇部」と嘲笑される文劇部の部長を、二年間も担い続ける鏡花の覚悟を知った。

 先生が部室を去ってからほどなくして、鏡花が戻ってきた。手には部員名簿。汗をかきながら、肩で息をしている。

「乙黒先生、いないんだけど」

 私が「さっき見た」と言うや否や、彼はまた廊下に飛び出した。足音が遠ざかっていく。

「あいつ、本当に頑張るよなあ」

 他人事のように呟きながら、銀は机に伏せた。寝るのも時間の問題だろう。

「ねえ、宇野」

 頬杖をつきながら、美優が話しかけてきた。彼女が教室で頬杖をつく姿は、一度たりとも見たことがない。一方、部室で頬杖をつかない彼女も知らない。

「文化祭が終わったら、文劇部の活動はもうないんだよね」

 物好きな新入部員が四人以上現れない限り、間違いなく廃部だろう。私が頷くと、美優は遠い目をした。

「劇の台本、何度も書こうって思ったんだ。でも、居心地の良い文劇部がなくなっちゃうってことを考えたら、一文字も書けなくて」

 情けないなあ、と彼女は仕方なく笑った。

「どうせ、また馬鹿にされて終わるだけだよ」

 銀が同調する。机に突っ伏したままだから、くぐもった声だ。彼の心境を表しているようで、妙に苦しい。私が苦しいのは、同じことを思っているから。

 私たちは無気力だ。現状を打開しようと思い立っても、行動することができない。今年も鼻で笑われる、という予定調和の文化祭に抗うことなく、机に突っ伏して目を閉じる。

 文劇部は、学校の余り物。そして、唯一の居場所。


「宇野、明日から文化祭の準備期間だね」

 帰りのホームルームを終えた直後、美優に声をかけられた。彼女とは同じ三年二組だから、教室でもたまに話す。お互いに、本や劇といった無難な話題しか出せないけど。

 美優の話に相槌を打ちながら廊下に出る。すると、鏡花と銀が近付いてきた。どうやら私たちを待っていたらしい。鏡花も銀も、お互いに別のクラスだ。つまり、私たちのホームルームが遅かったということになる。

「俺たちも丁度終わったところだ。部室まで、今年の劇について話そうと思ってさ」

 三年生の教室は三階にある。一階の部室に向かう途中にも、少しは四人で意見交換ができる、と鏡花は考えたのだろう。ただ、周りの生徒が「駄文劇部だ」とささやき合っている廊下で、声を出せる私ではない。

 私たちが駄文劇部と呼ばれる理由は、周りから見くびられているからだろう。前までは幾分か治まっていたのが、ここ数日で再流行し始めた。今年の文化祭も近付いて、浮かれているのかもしれない。

 考えてみるに、今年の文劇部に新入生が来なかったのは、駄文劇部と嘲笑されることを知っていたからだろうか。いや、それは責任転嫁かもしれない。そもそも、質の悪い劇を披露したのは私たちだ。それを周りの責任にするなんて、いくら軽蔑に値する呼ばれ方をされても、好ましくないのではないだろうか。

「宇野、どうした。顔色が悪いみたいだけど」

 突如、鏡花が顔を覗き込んできた。なんだか恥ずかしくて、咄嗟に顔を背ける。

「確かに、周りの視線は気になるけどさ。本当に大丈夫かよ」

 そうじゃない、と首を横に振る。すれ違う人々に駄文劇部と認識されるのは、苦痛だったけど慣れてしまった。それよりも、鏡花に顔を覗き込まれて、動揺を隠すことができなかったのだ。今まで、こんなことなかったのに。

 激しくノックする心臓を、深呼吸で鎮める。ただ、ずっと横を見ていたものだから、前を歩いていた誰かにぶつかってしまった。

 ぽふり、というお腹の感触。慌てて後ろに退くと、白衣の女性が目に映った。

「あら、桜井さん。ごめんね」

 養護教諭の白石先生だ。彼女は私に向けて、くしゃったとした自慢の笑顔を浮かべた。噂によれば四十代らしいが、先生の多彩な表情を見る限り、とてもそうは見えない。

「桜井さんに、神崎くん。ということは、文劇部だ」

 白石先生は、私の知る中で、文劇部を文劇部と呼ぶ数少ない人だ。その上、親切で朗らかな性格。こたつが擬人化したら、先生のような人物になると思う。

「無理しない程度に頑張ってね。劇、楽しみにしているよ」

 当たり障りのない言葉にすら心打たれる。思うに、名言は言葉自体ではなく、発した人間に影響されるのだろう。ともかく、私はこの人が好きだ。

 白石先生と別れてからも、私は有頂天だった。「元気になってよかったよ」と鏡花が笑っている。そうだ、鏡花も良い人だ。「私の良い人ランキング」の一位と二位を争っているのは、白石先生と鏡花だ。いや、二人とも良い人だから争わないだろう。お互いに一位を譲り合っている気がする。そんなことを考えていたから、自然と口角が上がっていた。

 銀が肩を落としたのは、部室に入った直後だった。

「あーあ、白石先生が顧問だったらなあ。いや、乙黒先生も良い人だよ。あの人がいなかったら今の僕はいないさ。だけど、最近ちょっと厳しすぎるって」

 ため息をついて、倦怠感を露わにする。「そんなことない」という鏡花の反論も、怠惰な中学生には受け入れがたいようだった。

「英語の文法だって、分かるまで教えてくれるじゃないか。厳しいんじゃなくて、俺たちのことを考えてるんだよ」

「知ってるよ。誰よりも分かってる。分かってるんだけどさあ」

 銀は鞄を床に置いて、さっさと椅子に座った。今までの傾向から考えるに、彼は数秒後には机に突っ伏せているだろう。劇について話そうにも、「明日やろうよ。明日」と一蹴されるに違いない。

 ただ、今日は違うようだ。机に腕を置いたはいいものの、そのまま静止している。充電が切れたわけではないだろう。彼には血が通っているのだから。

「鏡花。お前、仕事が早すぎるんじゃないか?」

 彼の視線は、机の中央に置かれた台本に向けられていた。

 その台本は、ノートと同程度の分厚さで、表紙には、「フランチェスカ」と油性ペンらしき筆跡で書かれている。汚れはないとしても、お世辞にも丁寧に作られたとは言い難い。とはいえ、怠け者が多数生息する文劇部においては、台本を仕上げただけでも十分に評価される。

「いや、えっ、なんだろうな。俺も知らないよ」

 しかし、鏡花は首を傾げた。言動が白々しいものの、怪訝そうに台本を見つめる彼の姿に、嘘や偽りの仕草は見られない。演技ではなさそうだ。それに、彼は元演劇部でもない。

「わたしも知らない。宇野も、違うよね」

 美優に同意しながら、謎の台本に眼差しを向ける。文劇部の部員を除外したら、まず疑わしきは乙黒先生。顧問であり、部室にも度々足を踏み入れる先生は、とりわけ黒に近い存在だといえる。

 ただ、その仮説は、伸びをする銀によって否定された。

「それなら、台本に自分の名前を書くだろ。でも、表紙には『フランチェスカ』というタイトルだけが書かれてる」

「演劇部の棚から適当に持ってきたのかもね。駄文劇部にならこれでいいか、って」

「おい、駄文劇部は禁句だぞ。美優、それは本当にダメだ」

 過剰に抑揚をつけながら、銀が抗議する。立場もプライドも関係なく、自分の好きなように喋る彼のことが心底羨ましいと思う。私が好きなように喋ったのは、小学生の頃が最期だろうか。つまり、私は何年も本心を隠し続けていることになる。

「まあ、中身見りゃ分かるって」

 言い終わらないうちに、鏡花が台本に手を伸ばした。そのとき、第六感というのだろうか。なんの変哲もないはずの台本から、風が吹き荒れるような衝撃を覚える。咄嗟に腕で顔を覆った。腕の隙間から、同様の仕草をする美優を見た。

 次の瞬間だった。鏡花の右手が、机にめり込んでいた。

 台本が、ぱらぱらと、自ずからページをめくる。まるで頑固なゴミを吸い取る掃除機のように、彼の体をぐいぐいと引き寄せてしまう。最初は手だけだっためり込みが、袖に、肘に、肩に。

 何が起きているのか。そう思ったときには、鏡花はとっくに呑み込まれていた。

 打って変わって、静けさが漂う。部長が欠けても、依然として平穏を装う部室。強く揺れ動くカーテンだけが、事の顛末を覚えていた。

 少しして、銀が台本に手を伸ばす。

「僕も、やってみるわ」

 声が震えていた。言動とは裏腹に葛藤しているのだろう。この先に広がる世界が知りたい。しかし、部室には戻れないかもしれない。恐怖と好奇心の天秤に翻弄されながら、得体の知れない台本に手を差し出す。

 ただ、私も美優も制止しなかった。そもそも、まずは先生に報告するべきなのに、一歩も動けなかった。考えることはやめていた。そもそも、冷静じゃいられなかった。

 銀も吸い込まれる。残されたのは、私と、震える美優だけ。

 私はとっくに混乱している。美優の背中をさするべきか、銀たちを追うべきか、それとも顧問の乙黒先生を呼ぶべきか。やるべきことが大渋滞を起こして、クラクションが脳内で何度も鳴り響く。感情の天秤も、重力を無視して暴れ始めた。

 落ち着こう。一旦深呼吸をする。それから辺りを見回した。さも当然のように、机の中央に居座る謎の台本。踊り出すカーテン。対照的に、カレンダーは静かに六月下旬を知らせる。

 文劇部の日常。怠惰で、罵られて、余り物。

 このまま何もしなければ、駄文劇部のまま文化祭を終える気がした。

 そのとき、台本から何かが飛び出てきた。手だ。観察していると、まるで穴から這い出るように、鏡花がひょっこり現れた。

「二人も来いよ。めっちゃ楽しいぞ」

 愉快に笑いながら、また潜っていく鏡花。笑顔の彼に、私たちを騙そうという魂胆はないはずだ。なぜなら、彼は優しい人だから。

 それにもかかわらず、正体不明の台本に飛び込む勇気が、今の私にはない。

 すると、美優が台本に手を伸ばした。私が取り残されてしまう。銀も美優も、無気力に見えて積極的だ。本当に受動的なのは、私だけだったのだろうか。裏切られたような気分になる。

「違う」と、すぐに首を横に振った。私は今、友達を悪者扱いして、遠慮がちな性格をひた隠しにした。ものが言えない性格の正体は、何年も連れ添ってきた私の亡霊だ。成仏することもなく、今も隣でケタケタ笑っているんだ。だから銀も美優も悪くない。

 突如、廊下から足音が聞こえた。一階の全体に響くような、パンプスの音だ。きっと乙黒先生だろう。このまま部室で待っていれば、台本の件を知らせることができる。謎の台本は取っ払われて、日常が戻ってくる。

 でも、それでいいのだろうか。

 自分自身に問いかけた。文劇部に入りながら、目の前で発生した非日常に胸を躍らせることのない私。何事もなく全てが収まって、四人で雑談するだけの日常に帰ってきて、それで本当に満足だろうか。

 もしも、台本の中に、駄文劇部を打開できるような魔法が眠っていたとしたら。

「宇野」

 顔と手を出した鏡花が、台本の表紙から浮かび上がる。

 パンプスの足音が、次第に大きくなる。

「宇野がいないと始まらないんだ。ほら、行こうぜ」

 私がいないと始まらない。思わず、涙が零れた。湿った頬を隠すために下を向く。それから、彼の手を強く握った。温かい手だった。

 その瞬間、体が一気に持っていかれる。握った手が、肘が、肩が。

 遂には顔も、全身も引き寄せられる。ぶつかると思って、咄嗟に腹に力を入れた。

 プールに飛び込んだときのような感覚。それからは、ジェットコースターの勢いだった。体が竜のようにうねる。視界が二転三転する。黄色い花畑、獣の遠吠えが轟く夜の丘、積乱雲を突き抜けて、青空を翔ける。

 しばらくすると、私を覆うような暗闇と、沈黙が訪れた。どれだけ待ったか数えていないが、以降、視界が移り変わることはなかった。


 ふと、瞼が重いと感じて、自分は目を閉じているのだと気付いた。そっと目を開く。すると、一面の青が広がった。先程翔けた、あの青空に違いない。水色と空色のグラデーションが、海のように透き通っている。綺麗だと思った。

 ゆっくりと視線を下ろした。ここは草原だった。足首ほどの草が、さあさあと風に揺られている。私が一歩踏み出すと、お辞儀するかのように横たわった。後ろを向くと、杉がそびえ立っている。神社の御神木に劣らない高さだ。杉の周辺に草は生えていない。あの台本がぽつんと置いてあるだけだった。

 辺りを見回すと、手招きする鏡花たち三人を発見した。途端に安心する。ハーフアップの髪型が乱れることを心配する頃には、既に走り出していた。

「宇野。下を見てみろよ。とんでもないぞ、これ」

 三人と合流するや否や、銀が弾むような調子で喋る。「下」とはなんのことだろうか。モグラの穴とか、アリの巣とか、そういったものではない気がする。

 ただ、一瞬で悟った。数歩でも前に出れば、地面がないのだ。そこで私はうつ伏せになって、そっと「下」を見ることにする。たとえるなら、物陰から怪しい取引を覗くかのような。

 視界に飛び込んだのは、霧のような雲。何度瞬きしても、雲だ。そこから一羽の鳥が現れて、私たちを見上げたかと思うと、諦めるように沈んでいく。

 すっと立ち上がった私は、おもむろに振り向いた。空の青が、草原が、高くそびえ立つ杉が、真っ直ぐ視界に飛び込む。風のハミングが聞こえる。

「ここは、空島らしい」

 鏡花の言葉に、何も返すことができない。私は、雄大な景色に圧倒されていた。台本の中に、楽園のような世界が広がっているだなんて。鳥肌が立つのは、決して恐怖だけのせいじゃない。校庭に負けないほど広い、空の島。見渡せば見渡すほど、私がちっぽけに思えてくる。

 どこに注目すべきか迷って、ふと視界に入った杉を見つめた。すると、木の上が一瞬揺れた気がした。目を凝らすと、枝と葉の裏側に人影が見える。誰だろうか。シルエットは女性だと思われる。背が低い中学生か、背が高い小学生のような身長だ。

「はじめまして、みなさん」

 すると、優しい声が聞こえた。母親が赤子に呼びかけるような声色。あの人影からだ。美優が辺りを見回すから、私は杉の方へ指さした。鏡花と銀も釘付けになっている。

「『ヴォリエラ』へようこそ。さて、自己紹介をしましょう。私の名前は――」

 次の瞬間、バランスを崩したのか、人影が大きく手を回し始めた。

 落ちてしまう。危ない。

 私はすぐさま走り出した。だが、草が邪魔に上手に地面を蹴れない。いや、私の脚力がないからだろう。たった今、鏡花と銀に追い抜かれた。女子が男子に劣る部分は、もう身長だけではない。そう思い知らされる。

 強い風が吹いた。杉の枝が暴れて、遂に彼女が落下してしまう。

「もう間に合わねえって!」

 叫びながらも、銀は懸命に足を動かす。私と美優は、もはや男子たちに委ねるしかない。

 ところが、予想外の出来事が発生した。地面に激突するかと思われた彼女は、空中で速度を緩めた。それから、あたかも階段を降りたときのように、足からすたりと着地した。彼女は私たちに背を向けている。怪我を負ったような様子は一切ない。杉の高さは、優に十メートルは超えていたはずだ。

「私の名前は、フランチェスカ」

 呆然のあまり立ち尽くす。息を呑んで、フランチェスカと名乗る彼女を見守る。彼女はくるりと体を回転させて、こちら側を向いた。それから悠然と歩み寄ってくる。杉の陰に隠れていた姿形が、次第に光を浴びて、やがて浮き彫りになる。

「以後、フランとお呼びください」

 フランス人形の生き写しだった。乳白色を基調としたフリルのドレスからは、雪のように白くて頼りない手足が伸びている。栗色の髪は腰まで届くほど長い。そよ風が吹けば、髪が洗濯物みたいにふわりとなびいて、鼻をくすぐるような、たんぽぽの香りが漂う。

 一方、彼女の潤った肌は、眩しすぎてむしろ人工的に思える。人間というよりも、精巧に造られたロボットという印象だ。ただ、彼女が機械でないことは、唇の血色が十分に証明している。

「ところで、みなさんの名前はなんでしょう。教えてください」

 その場で回転しながら、楽しそうに振る舞うフラン。無性に興奮した私は、声を弾ませながら名乗った。続けて鏡花と美優も。少し遅れて、銀が名前を言った。思うに、銀はフランを前にして緊張しているのだろう。同性の私が見ても、嫉妬すら覚えないほど綺麗な彼女だから。

 フランは一度頷いて、両手を広げながら話した。

「みなさんには、三つの悩みを解決していただきます。それを解決し終えたら、みなさんの望むものが手に入るでしょう」

「曖昧だなあ。『望むもの』って」

 鏡花が苦笑いした。すると、フランが彼の顔を覗き込む。息がかかる距離だ。思わず、私は身構えてしまう。鏡花に何をされるか不安だったのだ。

「たとえば、人々からの名誉、目を見張る美貌、誰にも負けない学力。何を望んだっていいのです。その代わり、四人全員が望まなければなりません」

「俺たちは文劇部。協調性の欠片もない集団だ」

 綺麗な女性を前にして、気恥ずかしく振る舞う銀とは対照的に、鏡花は冗談を言う余裕すらあるらしい。同じ男子でも、随分と性質の異なる二人だ。

「ねえ、鏡花。劇の台本を望もうよ」

 そう提案したのは美優だった。彼女は鏡花を押しのけて、フランと向き合う。

「わたしたち、駄文劇部って言われて、周りから馬鹿にされてるんだ。だから、周りが見直すような劇を披露したい」

 顔も名前も知らない誰かに、駄文劇部と冷笑される屈辱。それを思い出ししながら、私も頷いた。

 駄文劇部と馬鹿にされるこの現状を、どうにかして打開したい。文劇部の私たちは、余り物であると同時に「このままではいけない」という危機感を抱いているはずだ。働き者で茶髪の鏡花も、怠け者で坊主の銀も、その考えだけは一緒だろう。

「きっかけがあるなら、それこそ望むところだよ。それに、台本だと思ったものが台本じゃなかったんだ。期待させた責任は取ってもらわないと」

 銀も提案に乗った。後は鏡花だけだが、顎に手を当てて、眉をひそめている。何か不審な点でもあるだろうか。それとも「台本は自分で作るべきだ」と主張する気だろうか。いや、彼はそういう人間じゃない。私と鏡花は何年も一緒に過ごしてきた。だから分かる。

 やがて、その鏡花が口を開いた。

「フラン。質問があるんだ」

 名前を呼ばれた彼女は、後ろで手を組みながら微笑んだ。私と同年齢ほどに見える少女とはいえ、その立ち振る舞いは、さながらお嬢様だった。

「この場所は、一体どこにあるんだろうか」

「ヴォリエラ。ここは、どこにもない場所です。ヴォリエラの存在も、私たち五人の秘密にしてください」

 もしも秘密が明らかになったら、二度とヴォリエラには入れなくなるのだろうか。その場合、悩みを解決することも、台本を手に入れることもできない。誰も幸せにならない。

「それと、『ネロ』って誰のことだい」

 ネロ。知らない単語だ。案の定、銀と美優も怪訝そうに顔をしかめる。

 すると、鏡花は杉の根元を指さした。何かあるのだろうか。近付いてみると、根元に「ネロ」と彫られているのを確認できた。

 解説するように、フランが「ネロ」を指さした。

「この世界を創造した神様です」

「神様かあ」と鏡花がため息をつく。それから、仕方なく笑った。

「分かった、俺も台本を望むよ。もう意味が分からないからさ、考えるのやめた」

 その後、彼は遠くを見つめながら「宇野はどうするんだい」と尋ねてきた。同調圧力が存在しないのは、文劇部の長所だ。私は選択権があるし、もしも台本以外を望んでも、嫌な顔をせずに仕切り直せるのが私たちだった。

 だから居心地が良くて、余り物になったのだ。

「うん。私も、台本がいい」

 私の声を聞くと、フランがドレスの裾を持ってお辞儀をした。「承知しました」ということだろうか。それでも、彼女にお辞儀をされるのは心苦しくて、私まで頭を下げてしまう。ちらりと横を見ると、鏡花も同じことをしていた。

 私たち、似た者同士だ。胸がいっぱいになる。


「最初の悩みは、明日以降に公開されます。今日は帰った方がいいでしょう」

 フランに言われて、自分は帰らなければならないのだと、痛いほどに感じた。五人で寝転がりながら雑談して、ヴォリエラにも慣れてきた頃だった。

 鏡花が体を起こす。腕時計を見ながら「六時二十分か」と呟いた。下校時間は六時半。それまでには学校を出なければならない。寂しさのチャイムが鳴れば、放課後の魔法が解けてしまう。ヴォリエラでは、まだ日が暮れていないのに。空は青いのに。

 ただ、明日があるのだ。明後日も、その次もある。だから、今日はもう帰ろう。

 三人はとっくに帰ったようだ。杉の下にある台本に、また手を伸ばしたのだろう。ヴォリエラは二人きり。私とフランが向かい合っている。

「明日も、来ていいかな」

 私は蚊の鳴くような声で尋ねた。それでも、重要なことだった。ヴォリエラが文劇部に次ぐ居場所になるか否か、確かめる必要があったのだ。理由のない不安に苛まれていたのかもしれない。「あなたは来ちゃダメ」なんて、フランが言うはずないのに。

「歓迎しますよ。宇野さん」

 優しい声だった。無性に嬉しかった。でも、たくさん喋ると感情が溢れてしまうから、「ありがとう」だけを告げる。それから、台本にそっと手を伸ばした。

 明日から、文化祭の準備期間が始まる。およそ一ヶ月間だ。文化祭直前まで通常授業はあるけど、普段よりも長く文劇部にいられる。そして、ヴォリエラに行ける。

 劣等感も疎外感もなく、私が私でいられる場所。

 もちろん劇の台本は手に入れたい。ただ、今の居場所も大切にしたい。

 守りたいものが増えて、息苦しくなりそうだ。

「宇野、起きたか?」

 気が付いたら、文劇部の椅子に座っていた。六時を過ぎているのに、窓の外はまだ茜色だ。

 また夏が来たんだ。ひしひしと感じる。

「そろそろ行こうぜ。下校時間は守らないと」

 机の中央には、あの台本が置かれている。表紙には「フランチェスカ」と書かれている。ヴォリエラもフランも、夢なんかじゃない。その証拠に、セーラー服が雑草で汚れていた。

 すくっと立ち上がって、夕焼けに背を向ける。鏡花が扉を開けて待っていてくれた。私はそそくさと鞄を背負い、彼に礼を言ってから廊下に出た。後ろから、扉の閉まる音が聞こえる。

「鏡花」

 ふと、彼の名前を呼びたくなった。「どうした」と返事が返ってくる。今の私は気分が良い。足取りも軽い。羽を伸ばしたかのように気楽だ。だから、面と向かっては気恥ずかしいけど、後ろにいるなら、日頃の感謝も伝えられる気がした。

「私の居場所を守ってくれて、ありがとう」

 前方では、銀と美優が手を振っている。「じゃあな」のつもりだろうか。私も振り返すと、二人は廊下を走って、そのまま視界から消えた。元気な人たちだと思った。

「気にすんな。俺たちは共犯者だ」

 どこからか風が吹いて、髪がなびいた。悪くないと思った。

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