「仁、さん。その、日比谷初音という方は、一体どのような方なのでしょう?」
「どのような、ってのもまた難しいな。少なくとも稀人に対してはこの上なく誠実で優しい、母親のような人だけど」
俺にとっては少し怖いけれど、格好いい人だっていう認識がある。
外見だけで言うのなら傾国の美女とかそういう言葉が似合うのかも知れないが……あぁ、やってること含めても傍から見ればそうなのかも。
「母親、ですか」
「まんま保護者って意味でな。俺は間違っても初音さんを母親とは呼べないし、呼ばないよ」
「……初音さん?」
「うん、初音さん」
あれ? なんで急にジト目をするのかな智美さん?
ってあー……もしかして?
「下の名前で呼ぶのは相手側のリクエストだよ。日比谷って苗字はあまり好かないらしい」
「な、なるほど。失礼致しましたわ。では、わたくしもそう呼んだ方がよろしいのでしょうか?」
「どうだろうな。稀人に対する顔しか見た事ないから、無難に初音さんが何か言うまでは苗字でいいんじゃないかな」
人間に対しての側面を少しでも見たとするのなら動物誘拐事件の犯人たちへの応対くらいだ。
あとは普段の雰囲気から推し量る位しかできないが。
「承知、致しましたわ。では、最終確認なのですが……本当に、わたくしは仁さんの隣にいるだけで、いいのですか?」
「例えば社会に対してだとか、稀人に対してだとかの考え方を聞きたいなんて言われたら率直なところを言ってくれたらいいよ。けど、基本的には隣にいてくれるだけで、大丈夫だよ」
「……えぇと、その。率直なところですか? こ、こういったように答えろと言った指示は御座いませんか?」
不安げに隣を歩く智美の瞳が揺れている。
何を不安に思うことがあるのかって、そりゃ俺はまだまだ社会から見れば木っ端だし仕方ないか。
あぁ、早くもっと強くなりたいもんだね。
「素直に言ってくれたらいいぞ? 智美はもう身内っていうか、仲間だと俺は思ってる。じゃあそんな人の素直で正直な意見や考えはちゃんと受け止めないといけない。大丈夫だよってのは、どんな答えだろうと智美を見捨てるなんてあり得ないから安心してくれって意味だよ」
万が一、智美の答えに激昂した初音さんをどうにかできるかと言えばちょっと自信はないけれど、智美を抱えて逃げるくらいは出来るだろう。
「……」
「智美?」
ふと隣に居たはずの智美が足を止めた。
気づくのに遅れて振り向く形でもう一度声をかければ。
「あの、仁さん?」
「うん?」
「もしかして、その、仁さんは女の方にとても、ええと、慣れて、いらっしゃったりしますか?」
何を言うのかと思えば。
というか質問の意図がわからない。
「慣れるの意味がよくわからないんだけど」
「あぁ、いえ、はい。そのお答えで十分ですわ……鳴様、わたくしにもようやくちゃんと理解出来ました。こういうところ、なのですわね」
遠い目をしてどこを見るやら。
鳴にしても最近そういうところだとよく言うけど、ほんとどういうところだよ。
「あー、悪い。やっぱり稀人の感覚ってちょっと違うよな? 改めるよ。だからこうしてくれとかあったら遠慮なく言ってくれな」
「……狼の習性として家族や身内を大事にするとは聞きますが。ぐぬぬ、この扱いを本能や習性という言葉で片付けたくないわたくしがいますわ……本当に仁さんは罪作りですわね」
「お、おう? いや、ごめんなさい?」
人間とのギャップっていうやつには多く直面してきたつもりだが、智美が何を言っているのかいまいちわからない。
「はぁ。いえ、緊張をほぐして下さったと感謝いたしますわ。黒雨会、日比谷初音何するものぞ。さぁ仁さん、参りましょう」
「え? あ、ちょ。そっちじゃないって!」
心なしか三角巾につるされた右腕を大きく振って歩く智美の背を、慌てて追いかけた。
「――
「忙しいところありがとうございます、初音さん」
「いえ、仁様のお願いであれば最優先とさせて頂く所存ですので、お気になりませんよう」
にっこりと相変わらずの美しすぎる笑顔には、少しだけ冷たさが混じっている気がする。
「こちらこそ。
「黒雨会が長、裏社会を巣と張る蜘蛛が稀人。日比谷初音と申します。今後とも、よしなに」
あぁいや、気のせいじゃないな。
どちらかといえば現時点では初音さんにとって智美は敵といった認識を持っているのだろう。
外見に変化はないが、纏う雰囲気が攻撃的だ。でも。
「初音さん、智美は俺の身内なんだ。篩にかけるのはやめて欲しいです」
「……いけず、です」
しゅんと口を可愛らしく尖らせる初音さんを見て、わざとだったと確認した。
「構いませんのよ? わたくし、仁さんの背中に隠れるつもりは御座いませんから」
「はいはい、智美も挑発しない。初音さん、すみません」
頭を下げれば纏っていた攻撃的な雰囲気が消えていく。
喧嘩をしに来たつもりはないんだ、ちょっとピリピリするくらいならいいだろうが、話が出来ない雰囲気にされては困る。
「なるほど、巣作りならぬ群れ作り、ですか」
「……そう、なのかもしれませんね。やっぱり俺は、狼ですから」
初音さんが口にした言葉がすとんと胸に落ちついた。
今やろうとしていることはそうなのだろう、群れ作り。
「では、仁様?」
「ええ。黒雨会のバックアップを辞退しに来ました」
隣に座っている智美がピクリと反応した。
黒雨会からロジータに乗り換えるとも言っているようなもんだし、事前にこうすると言っていたわけでもない。
驚くのは当然だろう。
「黒雨会と敵対する、と?」
「現時点では、そうですね」
ぐっと初音さんから威圧感が伝わってくる。
感情の匂いは悪くない、試されていると捉えるべきだろう。
「ですのでここからは取り引きです」
「伺いましょう」
「今俺の下には多くの情報があります。黒い翼の男に関する情報、巷に出回りつつある人間をやめるクスリに関しての情報……そのクスリに関しての対抗策。これらの情報を売る、共有する代わりに上下ではなく横に並んでもらいたい」
力関係、という部分で見れば圧倒的にこちらのほうが弱く小さい。
上回れる部分があるとすれば、俺が今持っている情報と。
「……加えて。仁さんが言った条件を飲んでいただけるのならば、ロジータで稀人の積極的雇用を約束いたしますわ。もちろん、黒雨会を通じた稀人であればではありますが、人間と同じ条件で」
この部分のみ。
調べるまでもなく人間に比べて稀人の雇用条件は悪い。
黒雨会で斡旋できる仕事に関してもそこは揺るがせられない部分だろう。
何せ社会に蔓延っている暗黙の了解に喧嘩を売るようなものだ、目を付けられるで済まないのだから。
「本来ならばここで正気を疑わなければならないのでしょうが……どうにも」
「本気、ですわ。傘下ではなく、並び立つためわたくしは今ここに座っています」
見た目は平静を装っているが、流石の初音さんも驚いている匂いを放った。
改めて、それほどの事なのだ、今口にしたことは。
「いささか……こちらに都合が良すぎますね」
だからだろう、疑われるのは当然の事。
スッと目を細めた初音さんは、試すのではなくようやく同じ高さのテーブルに至ってくれた。
「無理やり押し上げようとされているように思える、と?」
「憚らずに言えばその通り。はっきり申し上げれば、ロジータの規模であれば仁様の掲げる目的に至る程度は十分に可能でしょう。わたくしたち、黒雨会を巻き込もうとする理由が見当たりません」
そこが、今回の焦点であり勝負所だ。
初音さんは俺がまだ黒い翼の男――雨宮悠を追い、素子を救うことが全てだと認識している。
それはもちろん今でも変わらない目的であり目標だが、その先ができたんだ。
「初音さん」
「……いやですわ、仁様。そのように熱い瞳を向けられては」
そっと身を捩る初音さんの姿がセクシーすぎるのはさておき。
あぁもう、智美さん? そうジト目を向けないでくれっての。
「黒雨会を裏から表に俺は持っていきたいんだよ」
「……」
「今の俺は、裏も表もない社会を目指している。あなたが言った光が俺が目指す場所と触れ合うのなら、あなたと手を組みたい。上下関係ではなく、対等に、横並びで」
荒唐無稽な話だろうか。
裏社会から成りあがると決めた俺はまだまだ未熟者に過ぎないと自覚はしているけれど。
「ふぅ……熱い、熱いですわね、仁様」
「すみません」
「いえ、酷く好みですわ。お父様やお母様を思い出さずにはいられない、熱く燃え盛る意志の輝きは」
本当に熱いのか、胸元をぱたぱたと仰ぐ初音さんの頬は赤く染まっている。
「で、あれば。わたくしから提案できることは一つ」
「伺います……って、初音さん?」
胸元を乱れさせたまま、正面に座っていた初音さんがすすっと隣に寄ってきて。
「わたくしを、娶って下さいまし」
「娶って、って」
「――何を言ってるんですの?」
しなだれかかってくる初音さんは良いにお――いやいかんそうじゃない。
「簡単な話では御座いませんか。わたくしを妻とすれば、問答無用で横並びとなりますし、それこそ夫婦は対等であるべき関係。わたくしも仁様を応援しやすくなりますし、仁様もわたくしを扱い易くなります」
「そういう意味じゃありませんわっ!? あぁいえわかります! わかりますけどこの泥棒猫!?」
「蜘蛛ですわ」
「うるさいですわぁああああっ!!」
煙に巻かれたのか、それともマジなのか。
あー、でもなんだ、政略結婚とかって、あり得る事なんだなぁ、とか。
「は、はは……あー、いや、まぁ、そういうのも、あるのか、と」
「ありますもちろん御座います。わたくし初音は、仁様を旦那様とお呼びするに何の抵抗も御座いません」
「仁さんっ!? 抵抗! 抵抗してくださいませ!? あぁもう! やっぱり黒雨会は信用できませんわぁああっ!」
さて、どうしたもんかな、と。
これは予想外もいいところだ、色恋沙汰に縁はずっと無かったのにこんな降って湧き方は聞いていない。
「うふふ。仁様? いえ、旦那様? いかが、でしょう? 至らぬ身では御座いますが、わたくし。旦那様の色に染まる覚悟はとうに出来ておりますよ」
「そまっ!? え、えぇいっ! この色ボケ蜘蛛っ! 仁さんから離れやがれくださいませっ!」
「あぁ、もちろん旦那様? わたくしに正室側室のこだわりは御座いませんので。お気のゆくまま女子を侍らして下さっても構いませんわ。どうでしょう? そちらの小娘など」
「こむすめっ!? よ、よく言いやがりましたわねっ!?」
あー助けて―。
ぴったり引っ付いて離れなくなった初音さんごと、パワーアップした智美にぐわんぐわんと身体を揺すられる。
いやほんとに力強くなったな? 目ぇ回りそうというか吐きそう。
「いや、初音さん?」
「はい。どうなされました? 旦那様」
「旦那様はともかく置いておいてさ……」
「置かなくて結構ですわ仁さんっ! お捨てになってください!」
智美、この至近距離で大声は勘弁してくれって……。
「その、ですね。恥ずかしい話なのかも、ですが。こういう、なんていうんですか? 惚れた腫れた? あーいや、恋愛だ結婚だのっていうのは、経験がなくてよくわからなくてですね」
何をカミングアウトさせるんだと気恥ずかしい気持ちを堪えて言ってみれば。
「あら……」
「へ……?」
二人は一瞬表情を固めた後に。
「うふふふふ」
「……これはチャンスですわよ智美……チャンスチャンス、ビッグチャンスですわ……うふふふふ」
なんとも、肉食獣を思わせる顔に変わって。
「あー、あのー?」
「いえいえ仁様、旦那様? 恥ずかしいことなど一つも御座いませんわ。ねぇ? 小娘?」
「業腹では御座いますが、その部分に関しては同意いたします。ええ、仁さん。何を恥ずかしく思うことがありますか」
なぁんで二人同時に横へぴったりしてくるかな?
どのタイミングで仲良くなったんだよ……素子、女って、怖いな?
「大丈夫ですわ旦那様。わたくしが、そう。わたくしが手取り足取り絡めとってじっくりたっぷりお教えいたしますので」
「色ボケ蜘蛛は気になさらず。わたくしだって純潔の身。仁さんと共に、男女の睦事を磨いて……いえ、わたくしと仁さんだけの睦方を築き上げましょう?」
「は、はは……はぁ」
男冥利に尽きる?
あぁ、そうかもしれない、そうなのかもしれないけれど。
言わせてほしい、言わせてくれ。
「どうしてこうなった?」
もちろん誰も、返事はしてくれないけれど。
「旦那様?」
「仁さん?」
頑張るしか、ねぇよなぁと。
瞼の裏に映った素子の苦笑いに、苦笑いを返しておいた。