イサミ達に手伝ってもらうとは言え、事前調査はしておくべきだ。
「幸いにしてギンさんからもらった服は目立たない色だし、都合が良い」
サイズが合ってないから少しの動き難さはあるけれど、然程気にならない。
時間帯にしても、現時点で22時、色々な意味で丁度いいと言える。
「……それに、しても」
やっぱりこの時間からは世界が変わるのが顕著に感じられるとでも言うべきだろうか。
シープヘッドに入る前までは気にならなかった、いわゆるアブナイ香りというものが一層強くなっている。
「テメェッ!!」
「なぁ、いいじゃん? ほら、コレだけだすからさ!」
「あらぁん? いいコじゃない。ちょぉっとお姉さんと、あそんでこーよ」
耳に入る欲望が色濃く乗った声たち。
暴力的だったり蠱惑的だったり、少し気分が悪くなる。
これこそが、夜の街、夜の顔と呼ぶべきものなんだろう。
じっと鼻を澄ませてみれば、何処かの裏路地からは血の香りが漂ってきて、喧嘩かそれ以上の何かが繰り広げられている気配が感じられる。
「なんでもありだな」
夜の世界は抑圧された欲望を解き放つ場所だ。
お国はこの時間帯の安全を保障していないし、なんなら五反田は非治安区域もある。
他の場所と比べても、一層その気配が強くなっても仕方ない、のかも知れない。
「とりあえず、潜むか」
この世界に生きたい、とはやっぱり思わない。
でも。知って、正しく認識して受け止める必要はあるのだろう。
世界には表と裏があって、裏の世界の日常とは欲望と隣り合わせに存在して、こういう光景を繰り広げているのだと。
あるいは、素子もそうなのかもしれない。
表と裏の顔があって、裏の顔があの場面を引き起こしてしまった。
いわば、自業自得な結果を招いただけ、なんて。
「……ふぅ。やめ、やめ」
そうであっても構わない。何一つ関係がない。
例え素子が俺の知らないところで欲望に忠実な生き様を描いていたとしても、酷く醜い何かをしていたのだとしても、俺の心は揺るがない。
「おピンクな店、か」
一口におピンクというか、大人のお店と言っても五反田にそう言う店は多い。
多いからこそイサミ達の協力を得て一度の機会でより広範囲に情報を集められる場所を作れるようにする算段ではあるけれども。
「ひとまず、野良犬であっても安全が確保できる場所くらいは目星をつけないとな」
甘く見ていたつもりはないけれど、正直そこらの酔っ払いが憂さ晴らしに野良犬にあたり散らかすなんてことが無いとは限らない。
むしろあっておかしくない、当然だと言える雰囲気がこの世界からは強く感じられる。
だってそうだろう?
少し耳を澄ましただけで、誰かのどこかが殴られる音だとか、くぐもった悲鳴に近い誰かの声が聞こえてくる。
俺が狼稀人だから感じ取れるのはそうだろう。
それでも、仮に目の前でそう言ったことが行われていても、それ以上に自分の欲望を優先させるために見て見ないふりを自然にできるだろうという雰囲気をどいつもこいつも身に纏っている。
「まったく。ギンさんや、イサミ達を知った後だからこそ、余計鼻につく」
もっと言えば素子という存在を知っているから、想っているからだろう。
あるいは俺も裏社会の住人らしくなってきたと思うべきだろうか。そんなイラつきをコイツら相手になら発散してもいいんじゃないかなんて考えが頭に過ってしまう。
裏と表、そのギャップを知れば知るほど。
人間ってのは、稀人ってのは、どの顔が本当なのかがわからなくなってくる。
「あぁ、そうか、だから、なんだ」
だから、どちらかに寄りかかってしまえとなるんだ。
裏なら裏に、表なら表に。中途半端で居てしまえば、苦しいから。
「……くそ」
わかる、わかってしまう。
普通じゃないことを選んで覚悟しても、中途半端な位置で揺蕩っている俺だから、その苦悩がわかる。
誰だってしんどい思いを抱えたままではいたくないものだ。俺だってそうじゃないなんて否定できないから。
「ふ、ぅ……」
欲望に忠実であること、忠実でいられること。
それは一つの救いだ。自分に素直で居られることとは一つの幸せで、そういられる環境は恵まれているという証拠だ。
だから創り出す。
そうあっても良いと自分を許す。
許されないことから目を背けて、知らないで済ませて、ただただ自分を許し続ける。
「ほんっと、世界ってやつは優しくないや」
表も裏も、どうして、誰のためにあるんだろう。
コインの裏表と先生は言ったけど、どうして並ぶことが出来ないんだろう。
もしも、俺なら、俺が出来るのなら。
「なんて、な。いい加減切り替えよう。目星をつけて……そうだ、色々ブツも用意しなきゃ、だしな」
答えは、出ない。
今は、俺も。見て見ないふりをするしか、ないんだから。
「――承知いたしました。報告、お疲れ様ですわ、仁様。お求めになられたモノも、すぐに手配いたしましょう」
「ありがとう、ございます。初音さん」
「止してくださいませ。この程度、仁様と仁様の働きを想えばなんてことございません」
準備してもらいたいものと、中間報告を兼ねて初音さんの下へとやってきた。
五反田で薬のやり取りが行われている所は目視で確認できた。確認できた現場のいずれかで人間を辞められるクスリがやり取りされているかは定かではないけれど。
「初音さん」
「如何なされましたか?」
目の前でメールだろうか、スマホをタップしている初音さんへと声をかければ穏やかな目を向けてこられる。
進捗の具合は一応満足の行くものなのだろうか、以前感じた怒気みたいなものは伝わってこない。
「今更、なのかもしれませんが。黒雨会は、何故存在しているのですか?」
「……なるほど」
失礼な質問だったのかもしれない。
初音さんはスマホをそっと座布団の隣において、姿勢を正し真っすぐに俺と目を合わせてきた。
「今更とは思いませんわ。むしろ、仁様が黒雨会という組織に興味を示して頂いて、嬉しく思います」
「嬉しい、ですか」
「はい。冷静になって、と言いますよりは仁様の視線を借りればですが。わたくしたちは確かに利用し、利用されの関係に留まっておりますし、深く知る必要はありません。そのような中で、仁様から一歩踏み込まれたことを嬉しく思います」
珍しく、なんて言って良いのか。
初音さんは裏表を感じさせない、本当にうれしそうな笑みを浮かべてくれた。
「……わたくしたち稀人は、この世界では生きにくい」
そして、誰に聞いてもそうだと答えて、誰からでも聞ける言葉を口にする。
「そう。この言葉の意味するところは、そのままの真実であると同時に、我々稀人が世の闇を担う存在であるということを示しています」
「闇を、担う存在、ですか?」
ゆっくりと初音さんが頷く。
表情には一種の諦め、だろうか? 納得していないけど、納得しなければならないと言ったような色が見える。
「この世界、社会は闇を稀人に押し付けました。我々稀人が苦労する、苦労した分人間が楽をする。そういう構図と定めました。それを招いてしまったのは黒雨会の責任です」
「……黒雨会の、責任」
次いで初音さんは遠い目をしながら、曖昧な笑顔で頷いた。
「過去、それこそ表と裏、どちらがその世界に住まうべきかという戦いがありました。戦ったのは我々黒雨会と向田組。結果は現代が示すように向田組が勝利し、光浴びる世界を手にしました」
「敗北の責任を取るために、黒雨会は存在している、と?」
安直な答えだろうか、口にしてから浅はかだったと思ったが、初音さんはにこりと笑って首をゆっくり横に振った。
「敗北しても尚、裏で生きると定められて尚、幸せに過ごすために黒雨会は存在しています」
「……」
幸せに過ごすために、黒雨会は存在してる……。
「我々黒雨会は、わたくし日比谷初音は。そうだと定めているが故に、理不尽な暴力を許さない。理不尽に稀人の幸せを犯すモノを許さない。そう、全ては稀人の安寧と幸せのために」
静かな覚悟、だろうか。決意を感じる。
確かに初音さんは稀人たちへの仕事の斡旋であったりもしているわけで、やっていることから考えれば口にした通りの責務を果たしていると言えるだろう。
でも。
「ええ、仁様。だからこそ、だからこそなのです。だからこそわたくしはあなたが欲しいのです。焦がれているのです。闇を知って尚、光の世界でも生きようとしているあなたが眩しく、希望と捉えてしまっているのです」
あぁ、と。
何かが腑に落ちた。
「諦めていないん、ですね」
「もちろんですわ。わたくしは今に甘んじることを由しとしておりません。敗北しても、定められても、光を望んではいけないと言うわけではないのですから」
初音さんはメンツを潰されることを嫌っているんじゃない。
稀人を理不尽に穢されることを嫌っているんだ。
「何より今、光を手にしたはずの向田組が、闇の部分さえも手にしようとしている気配がある……これは、許されないこと。我ら稀人が敗北した中であって、辛うじてしがみついて必死に生きられる場所をも奪おうとしているということ」
怒気、じゃあない。
この人は、多分。
「ええ、仁様。わたくしは、今を守るためにならば修羅にもなりましょう。ありとあらゆる手段を冷酷に、冷徹に酷使し、この闇深くも温かい陽だまりを死守致します」
そうだ、修羅だ。
蜘蛛稀人でありながら、別の何かを背負った、修羅だ。
「初音さん」
「はい」
何処かで怖いと思っていたこの人だけれど。
「なら俺は。あなたが焦がれたままの俺で居続けます」
「……うふふ。もう、焦がれるより先には行かせてもらえませんの?」
少しだけ、好きになれた。
本当かどうかなんてわからない、それでも稀人を守りたいという想いだけは疑わない。
「それは、きっと誰にもわかりません。でも」
「でも?」
俺はきっと、本当の意味で黒雨会の一員になることはない。
それでも。
「手を取り合って。一緒に光を目指したいとは、思います」