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第9話「能力」

 真紀奈か、相原さんか。

 そんな一瞬の葛藤は悲鳴のほうへと目を向けた瞬間に終わった。


「あれは――」


 黒いバンから覆面を被った何者かが出雲鳴の握っていたリードを奪おうとしている。


「――ぐっ!?」


 すぐに向かおうと動かそうとした足が動かない。

 まるで何かに縫い付けられてしまったような感覚に身体が引っ張られる。


 それに、何より。


「おま、え――はぁあぁぁっ!!」

「ふん、何をコソコソしているヤツがいるかと思えばただの駄犬か」


 忘れない、忘れられるわけもない。背後から発されたこの匂いと声だけは。


「なん、でっ! こんなところにっ!!」

「それはオレの台詞というものだが? 何故こんな影から人間などを……いや、いい。アレの護衛はキサマだな? 仕事が終わるまで大人しくしてもらおうか」


 俺にとって絶望を象徴する声であり、払拭しなければならない匂いだ。

 だと言うのに。


「ぐっ!!」


 振り向くことすらできない。身体は微動だにしない。


「無駄だというんだ駄犬。キサマ程度の力では動けまいよ」

「しる、かぁあぁあああっ!! いづっ!?」


 それでも何とかと動かそうとすれば、身体の何処からか何かが千切れるような音が聞こえてきて。


 これは、ダメだ。

 意思だなんだに任せて動けば、真っ二つになってしまう。


「くそっ!!」


 いるんだ、後ろに。

 怨敵が、仇敵が、打倒すべき存在が。

 こいつを倒して素子の意識を取り戻すんだ。


 だったら! だから!


「う――おぉおおおぉおっ!!」

「むっ!?」


 どうなろうとも構わない。

 俺の身一つで素子が元に戻るというのなら――。


「ふしゃあああああっ!!」

「ち、ぃっ! もう一匹いたか!!」

「ま、きな……?」


 頭上から真紀奈が落下してきて。


「ふにゃあっ!!」

「っ!?」

「大丈夫にゃしか! 仁っ!」

「あ、あぁっ! もちろんだ!」


 何をしてくれたのか、俺の身体を自由にしてくれた。


 よし、これならっ!!


「振り向くんじゃにゃい!! 仁はアレを追うにゃ! それが仁の仕事にゃし!!」

「っ!? でもっ!! こいつは!!」

「違うっ! こいつは仁の獲物じゃにゃい! あちきに獲物を横取りする趣味はにゃいにゃしよっ! ほらっ!」


 真紀奈の声で金縛りにあったかのように振り向くことができない俺の目の前に。


「白い、羽?」

「そうにゃし! もっぺん言うにゃしよ!? コイツは仁の獲物じゃにゃい! あちきじゃアレを追跡できにゃいから!」

「くっ……!」


 どういうことか。

 声も匂いも記憶にあるものと一致している、感覚がそう言っている。

 でも、真紀奈は違うという。確かに俺が追っているのは黒い翼の男で、こんな真っ白い羽根を持つ存在ではないが。


「仁っ!! それでいいにゃしかっ!? また繰り返すにゃしかっ!?」


 手遅れになる可能性はどちらのほうが高いのか。

 真紀奈の切羽詰まったような声は、そんな現実を突きつけてきたと同時に、またお前は同じことをするのかと問うてきた。


「――わかった!!」


 信頼する、できるという話じゃない。

 新しくも古くも、もう自分の日常を壊されたくないと思ったから。


「逃がすと思うかっ!」

「真紀奈ちゃんが行かせるって言ってるにゃしよっ!!」


 後ろ髪を引かれるとはこのことか、それでも。


「頼んだからにゃ! 仁っ!!」

「あぁっ!!」


 今の俺にできることは、カイル君と――え、えぇ?


「なんで、お前まで一緒に攫われてんだよ! 出雲鳴!!」


 別のことに気を取られている間に何があったってんだよ!


「な、長野様っ!?」

「相原さんっ! 大丈夫ですか!?」

「は、はい! で、ですが」

「わかってます! 出雲鳴も一緒なんですね?」


 腰を抜かしてしまった相原さんたちに怪我はなさそうだ。

 でも、一緒についていた犬たち、カイル君を含めた6頭は全員いない。


「……ふ、ぅ」


 裏路地ではどうなっているのか、気にならないと言えば噓になるどころか誤魔化しようがない事実だ。


 それでも。


「長野、様……!」

「大丈夫。カイル君たちも出雲鳴も、必ず助け出す。あぁ、そうだな、だから一つ仕事を頼まれちゃくれないかな?」

「し、ごと、ですの?」


 そうだ、新しい日常だ、悪くないと思う程度に気に入っている日常をこんなことで壊されてたまるか。


「ディアパピーズで、腹減らして帰ってくるだろう皆のご飯を用意しておいてほしい」

「そん、なの……!」

「あぁ、もちろんキミたちにも……そうだな、お嬢様方に金なんて言っても面白くないか。腕によりをかけた俺特性スイーツが報酬でどうだろう?」


 できる限り笑って、このくらいなんでもないんだって、安心させるように。


「……はいっ! 承りましたわっ!」

「ありがとう。それじゃ、これ店の鍵な? 行ってくるよ」

「お早い、お帰りを」

「もちろん。さっさと終わらせるよ、店員に遅いって言われるのは癪だからね」




 静かな高級住宅街とは言え、日がまだ昇っている時間帯で誘拐なんてなんとまぁ大胆なこった。


「時や手段を選ばなくなる理由があるんだろうが、それよりも……」


 やっぱり、なんて思うべきなんだろうか。


「性に合う、ってんだろうなぁ」


 見えないものを捜索するよりも見えないものを追跡する。

 匂いの道を辿って車という獲物を追いかける、このやりやすさとでもいうべき感覚。


「面白いなんて思うのは不謹慎なんだろうけど、出雲鳴、アンタちょっと暴れすぎだっての」


 車から放り出されるとか考えなかったんだろうか。

 匂いから大層暴れたんだろうことが伺えて、思わず苦笑いが浮かんでしまう。


「犯人に同情させんなって話だよったく」


 本当に、いっそ大笑いしてしまいたい気分だ。

 衆目の中を気にせず駆けている途中で、急に笑い出すなんてヤバイ奴もいいところ。


「ヤバイ奴、ね」


 そういえばすれ違う人間たちからは怪訝な視線を向けられてしまっているが、まったく気にならない。

 ちょっと前まではニット帽とズボンに尻尾を隠してまで稀人だってわからないようにしてたっていうのにな。


「普通じゃなくなること、か」


 そういうことなんだろう。

 気持ちの部分もそうだし、何ならこれだけ全力で走っているというのにまだまだ疲れることがないなんて思える、肉体的な部分もそうだ。


 確実に俺は成長して、常軌を逸し始めている。

 もう随分と弱い主張になってしまった本能が引き返せと言っているような気がするけれど、前ほど枷と感じることもない。


「本当の稀人らしさとでもいうのかね」


 あるいは獣らしさだろうか、そんな風にも思う。

 爺さんが言っていた混じりモノって意味も、先生が言っていた人間に寄っているという意味も。

 こうして獲物を追いかけてみれば、少しだけ理解できた。


「なんだろうね、この高揚感は」


 もしかしたら血走った眼をしているかもしれない。

 口の端に力が勝手に入っていて、人間らしからぬ尖った犬歯がむき出しになっている。

 指先がうずうずしているなと思えば、あれだけ丁寧に手入れしていた爪がいつの間にか伸びていた。


「あぁ――そう、なんだな」


 今までちゃんと実感できていなかった獣のサガ、獣性とでもいうべきモノ。

 蓋をしていた、それか気づかないフリをしていたモノが、ちゃんと俺にも眠っていた。


 これが、そう、これこそが。


「俺の、稀人としての、本能ちから


 今ならできる気がする、人間の隣に在るべき俺でもなく、人間に仕える俺でもない、長野仁という稀人なら。

 狼らしく、狼稀人ならではの力が、今の俺なら使える気がする。


「――見えた」


 何処をどう走って来たのか、出雲鳴の匂いがする車が見えた。

 中には……あぁ、みんないる。みんな以外の匂いは二つ、運転席と助手席か?

 出雲鳴もカイル君たちも、気を失っている、のかな? 匂いも気配も少し弱々しい。


「周りは、大丈夫」


 誘拐したって割にはお行儀のいい走りだ、人通りが少なくなると共に道も狭くなってきたしそれも当然か?

 いや、どうであれこれならまぁ、初めてやることだし、一抹の不安はあるけれど、大丈夫だって妙な確信がある。


「――起きろ、狩りの時間だ」


 遠吠えを、一つ。

 あぁ、人間らしからぬ声の遠吠えだったけれども、どうやら。


「成功、だな」


 不意に車がふらついて、そのまま。


「な――なんだってんだ!? い、いってぇっ!?」

「ひ、ひえぇ、い、いっつ!? いてぇって! おい噛みつくなっ!? 離せっ!!」


 電信柱に激突し、中から犯人らしき男たち……いや。


「稀人が、んなことしてんじゃねぇよ」

「なっ!?」

「お、狼稀人っ!?」


 身体の至る所を噛みつかれながら、二人の稀人が這う這うの体で現れた。


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