俺に対して左足を前に出して斜めに立つ。
見慣れた構えだ、表情すら変わっていない。
それでも。
「どうしたんだい?」
「いえ、なんでも」
それでも全然違う。
昔はこんなに怖いと思わなかった、背筋が冷たいと感じることなんてなかった。
形が変わっていないってことは、昔と変わらず合気道で対応されるってことのはず。
そうとも知っているんだ、それは。何度も何度も投げ飛ばされて来たんだ身体でも頭でも理解している。
だったら。
「行きます」
「いつでもおいで」
まずは前と同じように、気を合わせられないレベルの速さで――!
「よっと」
「っ!?」
振り切ろうとした腕に、くんっと予想外の力が加わって身体が持ち上がった。
合わされた。昔は、これでちょっとは勝負になったのに……って!?
「う、うわあぁっ!? いづっ!?」
「おっと仁君、合わされたら変な力を入れちゃだめだよ? 筋を痛めちゃうじゃないか。忘れたかい?」
よく、言うよ。
投げ飛ばされそうになった視界の先に、大きな針が急に現れた。
無駄な力は抜こうなんて当たり前に思ったよ、けどそんなことされたらさ。
「……なるほど、いやらしい」
「スケベなのは認めるところさ」
反射的にぎょっとして力が入ってしまう。入ってしまうことで妙な箇所に妙なダメージを負ってしまう。
今回は肘、だけど動かすのにちょっと煩わしいと思う程度、かな。
あぁ、今のは先生の能力で生んだ幻だってのはわかったよ。
こういう使い方をするのかなんて感動してしまったくらいだ。
「ふ、ぅ……っと」
「うんうん、まだまだ大丈夫そうだね。続きをしようか」
立ち上がって頷く。
改めて今俺の前にいる人は先生じゃない、タカミという稀人だと認識した。
今やってる手合わせは、人間を打倒するためのものではない。
「行きますっ!!」
稀人と戦うためのものだ。
なら俺も、稀人らしく戦わないと勝負の土台にすら立てない。
「そう、そうだとも仁君。やっぱりキミは優秀だ。稀人との戦いはパズルに近い。相手がどういった能力を持っていて、自分の手持ちカードでどれが通るか。そういった探り合いの果てに勝敗がある」
ちょうど部屋の大きさは昼に爺さんとヤってた時の広さと同じくらい。
これなら、練習していたことが実践できるはず。
「僕は非力を誤魔化すために、合気を学んだ。そしてその効果を高めるために幻を戦いに織り交ぜることを覚えた。そうだ、今キミが狼稀人としてのしなやかさを活かし、部屋の中を蹴り飛び回っているようにね」
先生の視界は、俺を捉えられていない。
追いつけていないなら、まずは。
「っつ……うん、それもいい戦い方だ。気と機を合わせられない程度の浅い攻撃でダメージを与える。塵も積もれば山となると言うしね、まさしく狼の狩りを彷彿とさせる戦い方だ」
すれ違いざまに先生の薄皮を削り取る。
当てに行ったらだめだ。俺にはあの爺さんみたいな攻撃力はない。
ないからこそ、小さいダメージをコツコツと積み重ねて、弱ったところを仕留める。
「だけどね仁君。キミは一つ思い違い……いや、考え違いをしているよ」
考え違い? ただ集中力を削ぐって目的……でも、なさそうだ。
「お、っとと。うん、僕は確かにキミへと本能に抗えと言った。そしてキミは生物が持つ原初的な本能と言える生存本能に抗い、危険へと立ち向かう心の強さを手に入れた」
生存本能?
あぁ、確かにそう言えるかもしれない。命の危険を感じたから逃げようとしたんだ。
「うわっと!? ん~……いい動きだ、流石にそろそろ厳しい、かな? そう、そうだ。生存本能だよ。僕たち稀人は人間に比べて本能的だ。本能をより鋭敏に感じ取ることができる。だからこそ、命の危険であったり、あるいは種の保存という欲求が強く表れてしまうことが多い」
思い当たることは、多い。
15歳くらいの時は素子の匂いによくアてられたっけ。
「キミは弱くない。いや、稀人の中でも強いと言える域に在る。しかし、まだ人間に寄りすぎている」
「にん、げんに?」
「あるいは人間を捨てられていないと言うべきかもね。先に言っておくよ? 僕は今からキミに酷いことをする。それこそ知っているだけに恨まれても仕方ないと思えるくらいのね。けど、僕を優しいと言ってくれたキミに甘えることにしよう」
「っ!」
空気が、一つ重くなった。
そして、先生の構えが変わった。
「……」
もう何も話すことはないとでもいうのか、両腕を身体の前で上下に伸ばした状態で集中しているみたいだ。
真っ正面から突っ込むなんて元から考えになかったけれど、これは。
「くっ」
二の足を踏むってレベルの雰囲気じゃない。
殺されてしまいかねないとすら思ってしまう何かがある。
一人で先生を取り囲むかのように飛び回っていたというのに、気づけば後方でうろうろしているだけになってしまっている。
「こないの、かい?」
先生に言われたからか、これが生存本能かなんて、離れろ逃げろって訴えが頭の中で鳴り響く。
これこそが今、俺が抗うべきものであり、成長するための方法だ。
だったら――!
「――んな、ぁ」
「……ごめんね仁君」
真正面から。
そんな風に突っ込もうとして。
「ずるい、です、よ。せん、せぃ」
「稀人の戦いはパズルのようなものだと言っただろう? キミに勝つためのピースは最初から僕の手にあったということだよ」
先生との間に現れた、穏やかに笑う素子の幻を前に。
身体から力が抜けて、床に両手をついてしまった。
「先にも言ったけど、恨んでくれていいんだよ」
「恨むなんて、無理、ですよ」
あぁ、無理だ。
心の中が複雑だって言葉に溢れてるし、怒りみたいなものもある。
それでも先生を嫌いになったり、恨んだりなんてできない。
「そっか。ごめんね、ありがとう」
「いえ。たぶんそれはきっと、俺のセリフだと、思います」
先生がどれだけ素子のことを大切に想っていたかなんて知っている。
それが愛情なのか、友情なのかはわからない。
けど、いつか不意に素子と結婚するなんて言われても、相手が先生なら素直に祝福できるほど、知っている。
「だから、先生」
「うん」
「教えて、ください。俺は、どうすれば強くなれますか?」
「まったく、キミはほんとに優秀だね。怖いとすら思うよ。だから、その心に先生として応えよう」
苦笑いしかできない、って感じに先生が肩を竦めた。
素子のことに進展がなくとも、どれだけ現状に焦れているとしても。
力をつけることに足踏みしている時間はない。
「狼とは一体どんな動物なんだろう」
「え、っと?」
「ボスを頂点とした群れを形成し行動する。群れの一員、つまり家族をとても大切にする。悪路であってもそのしなやかな体躯を活かし身体能力を損なわずに動くことができる。まぁ、簡単に挙げられるのはこんな感じかな?」
「えぇと、他にもまだある、とは思いますけど。なんとなくぱっと思いつくのはそれくらい、だと思います」
改めて言われると狼の生態系ってどんなのだろう? 詳しく調べたことってないな。
「稀人の戦いとはパズルだ。そしてそれはパズルのピースが増えれば増えるほど難度が向上する。キミは生存本能に抗う力を手に入れた、それはすなわち稀人として戦う入り口に立ったばかりということであり、ピースも手札も少ない状態にある」
「ひよっこの自覚は、あります」
「うん、いい心がけだと思うよ。だからこそまずはピースと手札を増やしなさい。膂力、権力、異能、色々なものがあるがまずは知ること、情報を得ることだ。差し当たっては、狼について調べてこんなことができるようになればと思う必要があるだろう」
「それが、スタート位置から一歩前に踏み出すことってことですか」
今度は満面の笑みでよくできましたと言わんばかりに頷かれた。
わかるような、わからないようなといった部分はある。
ただ先生が言っていることは、狼のことを知って、狼の本能へと従えということだ。
思い返せば、出雲鳴の捜索中にもっと鼻が効けばなんて思っていたら匂いが形をもって見えるなんてまで磨かれたんだし、そういうことなんだろう。
「狼を知り、狼稀人であるキミ自身を知る。そうして得たいと願う能力を身に着け磨く。そうしていれば、そうだね、いずれキミをシリウスと呼ぶことになるのか、フェンリルと呼ぶことになるのか……あるいは別の何かか。僕は今から楽しみにしているよ」
「……はい。ありがとうございました!」
最後のは、ヒントだろう。
神話とかなんかだろうか? 何にしても狼に纏わる話というものは色々あるみたいだ。
帰る途中本屋にでも寄っていくとしよう。