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「長野 素子」①

 幸いにして私、長野素子という人間は、これが二度目のターニングポイントだと気づくことができた。


「コッチ、見てんジャ、ネェよ……っ!!」


 少年、というにはまだ幼い風貌のくせに、瞳だけは大人以上に影を帯びていて。

 あるいは三流コメディを彷彿とさせる魚の骨が髪に絡まっていなければ、私もそそくさと逃げだしていたかもしれない。


「お腹、減ってるの?」

「ア゛ァ゛!?」


 それでも、だ。

 これがターニグポイントだと気づけた私だから、四つん這いで威嚇してくる彼に向って一歩踏み出せたんだと思う。


「ご飯、食べたい?」

「テメ、ェ……!」


 意思疎通は、できていると思う。私の言葉がわからないって感じはしない。

 ただ、わかっている上でこうされているということは、人間という種を憎んでいるということで。


「ごめん。信じてもらえないだろう、けど。私は、あなたに危害を加えるつもりは、ないよ」


 一歩近寄れば、一歩退かれるたび、この行為が偽善であり自己満足であると実感してしまう。


 ――哀れむことと見下すことは同義だよ。少なくとも、僕たち稀人にとってはね。


 高見君の言葉が頭に浮かぶ。

 親切なんて余計なお世話でしかないんだと。

 そして、余計なお世話で終わらせたくないのなら覚悟が必要なんだと。


「えぇっと、うん、ほら、私、あんぱんが好きなんだ、こし餡ね? 美味しいよ」


 鞄からさっき買ったばかりのあんぱんを取りだそうとした瞬間に、大きく飛び退かれた。


 ……あぁ、言葉が、出ない。


「大丈夫、怖くないよ。ほら、これだよ、あんぱん。美味しい、から、よかった、ら……!」


 涙が出てきた、声が震えてしまった。

 知ってなかった、理解していなかった。

 教えてもらっても、実感なんてしたことがなかったんだ。


 だって、あんまりじゃないか。

 彼は鞄の中から何を取り出されると思って怯えたのかを考えれば悲しいどころじゃ済まない。


「だいじょうぶ、だから……っ! これ食べても、くるしくならない、からっ! わたしも、キミを殴ったりなんて、しない、からっ!」


 覚悟が必要だ、なんて。

 こんなにも苦しい覚悟が必要なんだ、こんなにも苦しい思いを稀人ってだけで抱えているのか。

 私は今、向き合おうとしただけだ、彼を救おうなんて思ったりしていない。


 だっていうのに、ほんの気まぐれレベルのことをしただけ、なのに。


「――ダイ、ジョウブ、か?」

「……え?」


 いつの間に私は崩れ落ちていたんだろう。いつの間に私は俯いていたんだろう。

 声に頭を持ち上げれば、そこには犬耳があって。


「イタイ、か? ごめ、ン。おれ、わから、ない」

「あ……あ、あぁ」


 さっきまでとはまったく違う、澄んだ瞳を向けてくる、困った顔をした子が目の前にいた。


「エ、と……んっ」

「んん……」


 状況が理解できない私は動けない。

 動けないくせに止まらなかった涙を、この子は舌で拭ってくれて。


「ヨケい、きたなく、なった、カ? ごめ――わっ!?」

「~~っ!!」


 あぁ、臭い。

 思わず抱きしめてしまえば鼻をつく刺激臭が余計に涙を出そうとしてくる。


 でも。


「ありがとう……! あり、がとうっ!!」

「ん、あア、う、うぅ……?」


 誰よりも何よりも、温かかった。




「もとこー! これ、これっ! なんだこれー!!」

「ボール、野球っていうスポーツで使うボールだよ」

「ぼーる? ボールっていうのか! 丸いなぁ!」

「そうだね、丸いねぇ」


 結局、私は温もりを手放さず、手元に置き続けることを選んだ。

 いつの間にか近所の飼い犬を子分のようにしていたり、どう考えても汚いものをいい匂いだと言って鼻を突っ込もうとしたりと、目が離せないし大変なことは多々あったけど。


 河原で元気にはしゃぎまくる仁を見ていたら、やっぱり胸が温かくなる。


「いい顔しているじゃないか素子君」

「高見? まったく、アンタはいつも唐突に出てくるから困るわね」


 なんて浸っていれば、相変わらずどこから出てきたと突っ込みたくなる顔が現れた。


「あーっ!! せんせいっ! こんにちはっ!!」

「こんにちは、仁君。今日も元気そうで何よりだ」


 ほんと、いつの間に先生なんて呼ばせていたのか。

 気づいた時にはそうなっていたからもうどうしようもない。

 仁も高見のことが嫌いじゃないどころか慕っているみたいで、なんだか嫉妬してしまうけれど。


「ほら、仁。あんまり遠くに行っちゃダメだからね」

「わかってるよもとこっ! おれがもとこからとおくにいくわけないだろ!!」

「はいはい。知ってるよ、ありがとうね」

「おうっ!」


 親子と言うほどに歳が大きく離れているわけじゃない。

 けど、子供の時に得られなかった多くのものがまだまだ仁を幼いままで縛り付けてしまっている。


「何度でも言うがね素子君。僕は、そういうことをキミに望んでいるわけじゃないんだよ?」

「何年の付き合いだと思ってんの? アンタが……それこそ私と仁が親子か夫婦にでもなってほしいなんて思ってるくらい知ってるわよ」

「夫婦。あぁ、そうだね。そのほうが遥かに良い。是非ともそうなってほしいよ」


 そういう高見の目は真剣で、言葉通りそうなってほしいと思っているんだろうって伝わってくる。


「けど、やっぱりそれは無理な話ね。あの子を愛おしく思っているからこそ、できない」

「……姉で居続ける、と?」

「仁は可能性よ。稀人と人間がもう少しだけでも歩み寄れる可能性の象徴なのよ、少なくとも私にとってはね。だからこそ、私で縛っちゃダメ」


 仁にはもっと大きな世界を見せてあげたい。

 私と仁だけの小さな世界で留めてはならないんだ。


 勉強して、女の子に興味を持って、好きになって、失恋して、結ばれて……やがて親になって。


 そんな普通で、ありふれた大きな世界で生きてほしいと、心から願っている。


「ありふれた夢を叶えるための、礎になると」

「礎なんて、大げさな言い方ね。私は私にできることをするだけの話よ」


 ただ、もう少しだけ。

 三度目のターニングポイントは自分で掴み取るから、仁がもう少し大きくなるまで。


「……時間は、まだまだある。仁君と一緒に、キミも成長したとき、考えが変わることを期待するよ」

「年下のくせによく言うわよ。何より私に気づくきっかけを与えたのはアンタでしょうに」

「これは一切裏をなしにだけどね? 正直に言えば後悔しているんだよ、キミほど真摯に受け止めてくれる人間はあれまでいなかったものでね」

「ま、そうね。そういう意味でアンタのハジメテってやつになれたのは光栄だと思っておくわ」


 高見とは別に何かを交わしたわけじゃない。

 身体も心も、友情も愛情も、何もかも一切触れあったことはなかったけれど。


「アンタと私は悪友で共犯者。それでいい、それだけでいい。だから私如きに覚悟を揺るがせてるんじゃない」

「そうは言うけどねっ!!」

「裏社会がなんぼのものだって言うのよ。私にとっても、仁にとっても少しだけ良い未来が訪れて……そうね。家族水入らずで温泉にでも行けるようになれば。そんな夢だけで私は戦える」

「……本当に、後悔は先に立たないもの、だね。わかった。僕も改めてここに覚悟を決めよう。素子君、キミは僕の生涯でただ一人の悪友で、共犯者だ」


 私は仁に誓う。

 あなたの家族であり姉として、この世界で幸せに挑むことができるようにしてみせると。




 掴んだものが仁の尻尾みたいにふかふかで温かいものであったのなら良かったのに。


「弱音、でしかないよね」


 いつものように先に起きてご飯を作りに行ってくれた仁の背中を薄目で見送って、そんなことを思ってしまう。

 あの日の決意は今もこの胸にあって、揺るがないままでいる。

 だからこそこの尻込みしてしまうかのような気持ちは、もうすぐ願いを叶えられるところまで来たという証明でもあるのだろう。


「でも……あー、まずった、なぁ」


 唯一ミスをしたなと思うのは、格好よくなりすぎた仁のことを異性として見てしまう時があるってことよね。


 もうなんなのあの子、ちょっと私の好みになりすぎなのよ。

 べらぼうに優しいし、私だけが大事みたいに甘やかしてくれるし、作ってくれるご飯は最高に美味しいし、尻尾触られるのほんとはイヤなくせに素子だけは特別だからなとか。

 もうなんなの私殺されちゃうっての。


「く、くそう。枯れてる私をときめかせ続けるとは、我が弟ながらやるじゃない……求婚でもされちゃったら、頷いちゃいそうよ……っていうか、プロポーズしてくんないかなとか思う私も私よ……んぎぎ」


 忙しいながらも仁との日々は本当に穏やかで癒しだった。

 姉と女の間で揺らぎ続ける気持ちを自制するのは大変だったし、そのせいで他の男に興味がこれっぽっちもわかなくなっちゃったけど、うん。


「もしも、そう、もしも今日を乗り切ったのなら、その時は」


 本気で弟を夫にすべく頑張ってもいいのかもしれない。

 あぁ、そうね、そうよ。今まで頑張って来たのだから、それくらいのご褒美があってもいいじゃない。


「……うん。今日は、死ぬにはいい日だ」


 今決めた。

 今日が最大の山場で最後の山場になるだろうから。

 あの子の下に帰ってこれたその時は。


「大好きだよ、仁」


 姉としてじゃなくて、女として伝えよう。

 ずっと我慢することになってしまった、この気持ちを。

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