「ここ、か。ある意味結果オーライってのが良かったような、情けないようなだなぁ」
シズクさんから渡された紙に書かれてあったのは非治安区域から遠くもなく近くもない、五反田内にある少し小さな貸し倉庫だった。
「少し嫌な感じがするのは成長した証だと思うべきか」
匂いに具体的なビジョンを感じられるようになったからか、何でもない貸し倉庫だとは思えない。
慣れてきた五反田の匂いに、あまり嗅ぎなれていないものが混じっている。そしてそれは。
「黒い翼の男……あの路地裏と同じ匂いだ」
あるいはこの匂いこそが裏社会の香りとでもいうものなのだろうか。
黒くて重い。こんな匂いが充満していたのなら、窒息でもしてしまいかねないような。
「ふぅ、落ち着け。まずは周囲を調べよう」
苛立ちとも逸りとも言えない、ざわついた胸の内を溜息と一緒に吐く。
時刻は陽の光がオレンジ色に変わりつつあるころ、本格的な調査は完全に日が落ちてからのほうが目立たなくていいだろう。
「ロジータ物流センター?」
少し擦り切れてはいるが、入り口のカードキーを通すところにある上の看板に書かれていた名前には見覚えがある。
ロジータと言えば、外国発のそこそこ有名なファンッションブランドだ。
安価で丈夫、俺みたいな獣の尻尾や耳にも対応してくれる、稀人御用達と言っていい店だけど。
「いやぁほんと。そういうところがこういう匂い放つのは勘弁してほしいよ」
生活に身近なものが裏と関わっていると知るのは頭が痛くなる。
もしかしたら人間や稀人、社会に身近であればあるほど裏との関りがあって然るべきなんて考えるほうが正しいのかもしれないが。
「ともあれ、ちょっと見回るか」
物流センターなんて名前を付けつつも、倉庫自体は大きくない。
ネット通販の商品が陳列されているでかい倉庫をテレビで見たことはあるが、そんな規模から比べたら本当に倉庫なのかと思う程度の大きさだ。
「ほかに似たような倉庫を沢山持ってるのか? ここは五反田エリアだけの商品を保管している、とか。いや各所に倉庫を持ってるほうが……うぅん」
社会経験も無ければ経済、経営学を修めているわけじゃないし想像できない。
この中に潜入しなくちゃならなくなる可能性を考えたのなら、この程度の規模で助かるとは言えるんだけど。
「窓や入り口のドアを壊してなんて、当たり前にセキュリティが飛んでくるだろうし……はぁ、どうせならシズクさんに入り方も教えてもらっとけば良かったな。いや、支払いが怖いし今がベストか」
頭の中に浮かんだあくどい笑顔のシズクさんを振り払って。
改めて入り口に残っている匂いを確認すれば、いろんな匂いが混じりすぎていてうまく判別はできない。
ただ、判別できないほど色々な匂いが混ざってついているということはそれだけ出入りがあるということ。
どういった人間が、あるいは稀人がここに訪れるのかを確かめて、可能なら聞き出すあたりが無難かな。
「うん、張り込むか」
急がなければならないという考えはもちろんある。
だけど、そもそも初動は遅れに遅れているんだ。今更少し急いだところでいい結果には結びつかないだろう。
冷たい考えではあるが、焦る必要はない。心の中でカイル君にごめんと謝って、物陰に入り息を殺した。
「ふ、ぅ……」
頬を伝っていった汗を拭う。
正直、張り込みってのがこんなに疲れるものだとは想像してなかった。
スマホを確認してみれば時刻は19時、張り込み始めてもう少しで二時間といったところだけど、中々の疲労感がある。
「ほんと、見るのとやるのじゃ全然違うな」
ドラマの刑事たちは何てことなさそうにやっていたのに、なんてのはフィクションなんだし当然か。
じゃあ現実にいる刑事たちはどうやってこの緊張感を維持しているのだろう。
何も関係ない人間であっても近くに姿を見せれば慌てたように注視して、俺が今一番不審者扱いされておかしくない。
ただ。
「……空気が、変わった」
正確には匂いが変わった。
22時からは夜の世界に切り替わるってのは周知の事実だが、この近辺は20時が変化のタイミングらしい。
「ここも、まずいか?」
じわりと裏社会の香りが広がってくる。
……良いスポットを見つけられたと思ったんだけどな、完全にさっきまでの時間は徒労じゃないか。
いや、こういうものだと、こういう感じに切り替わるんだと目の当たりにできたことを喜ぶべきなのかもしれないな。
「慌てず、何でもないような顔をして……」
今までいた場所から離れる。
伸びてきた影に捉われないように、日の当たる場所へと逃げるように。
心臓が痛い、鉄火場とやらにはまだまだ遠いんだろうけど、今でこれか。
「ほんっと、嫌になる」
素子はこの影に捕まってしまったのだと思えば、苛立ちが湧いてくる。
あいつがどうして影と袖を触れ合わせてしまったのかなんてわからない、そもそも何の仕事をしていたのかすらわからない俺だから、お門違いの八つ当たりにも程があるんだろうけど。
「落ち着け……まだ、これは始まりでしかないんだぞ、俺」
義憤に駆られてか、それとも臆病風に吹かれてか。
実体のない影へと飛び掛かってしまいそうになる心を抑える。
そうして逃げ込むように辿り着いたのは、これ以上影が伸びてこない場所にあるマンションの3階廊下だった。
「見えなくもない、かな? 目はそこまでよくないんだけど……これも鼻のおかげか」
距離的には100メートルあるかどうか。
夜ってこともあって見えるはずがないんだけど、意識して匂いを嗅げば嫌って程に堪能した香りに嗅いだことのないものが混じっていくのがわかる。
「いち、に、さん……六人、全員が人間っぽいな」
どこから現れたのか、暗い空気に入り込んでいったのは六つの匂いだった。
「んで? 一人、二人……が消える、か。倉庫の中に入った? 残ったヤツらは警備ってところだろうかね」
吸い込まれるように消える、って言うのは感覚的な話だけども。
この感覚が正しいのならあの倉庫の中に入っていったということのはず。
「四人の動きは、っと」
暗視ゴーグルでもあればなぁ、ないものねだりしても仕方ないが、やっぱり匂いだけじゃここから正確な動きなんてわかるわけがない。
どうする? もう少し近づいてみるか?
生き物なら頭上は絶対の死角だ、屋根伝いに渡り行けばリスクは多少軽減されるはず。
「ただ、この空気感。絶対に、ヤバイ」
本能みたいな何かが訴えかけてくるものがある。これ以上近づくなって。
これは野生の勘ってやつなんだろう、視覚的に捉えられるようになったおかげと言うべきか、せいと言うべきか。よりハッキリと感じてしまう。
あそこに何があるのかはわからない。あの倉庫の中に出雲鳴がいるのかすら、まだ。
だったらもう一度退くべきなのかもしれない、そうするべきだ、情報が出揃ってからでも遅くない。
さっきだって思ったじゃないか、今更急いだところでどうなんだって。そう決めて、逃げたじゃないか。
「っ……バカ言ってんじゃねぇ……すー……はー……本能を刺激しろ、だろう?」
先生は天井知らずに稀人の能力は成長すると言った。
俺が普通ではなくなるためにも、普通じゃないナニかへと踏み込む必要は絶対にあるはずだ。
何よりも。
「こんなとこで尻込みしてちゃ、素子をどうにかするなんて、夢のまた夢ってやつだ……っ」
気が付けば巻いていた尻尾に力を込めて逆立てる。
さぁ、情けなくも身体は戦闘態勢を取れたぞ。後は俺の心一つ。
「行くぞ……!」
廊下から身を乗り出して、夜闇の中へと躍り出た。
先生に昔、教えてもらったことがある。
「ちょっとやそっと鍛えた程度の人間じゃあ、稀人の身体能力に敵わない」
こんなもんか、なんて。
感じる呆気なさと少しの万能感が気持ち悪いけれど、意識を奪った黒服の人間たちが横たわる光景を見れば、何を臆していたんだと思ってしまうな。
驕り、なんだとわかってはいる。
でもこいつらはポーズだけの警戒だった、欠伸だってしていた。
こいつらは何をされたのか、それこそ俺の顔すら覚えられないままに気を失ったことだろう。
「あるいは……襲われるわけなんかない、とか思ってたか?」
判断はつかない。
ただ、少なくとも事実としてこの場で俺の力は通用する、らしい。
「……あった。これ、か?」
倒した四人目の服を探れば一枚のカードキーが出てきた。
入口付近にいたヤツだし、これが入口のドア用だと良いんだけど。
「よ、し。開いたな」
小さなロック解除の電子音が響いた。
そんな音で、少しだけ頭から熱が引く。
――本当に、行くのか? 紛れもなく、疑いようもなく、この先に一歩踏み出すということは、裏社会へ臨むということだぞ?
そう、本能が語り掛けてきた。
――今なら、まだ俺は誰にも見られていない。俺と言う存在が裏社会にいることを知られていない。引き返せるんだぞ?
「……ったく、俺ってやつは、さ」
あぁ、何度目だろうこの葛藤は。
いい加減に、俺は認めるべきなんだろう。
「そうだよ、俺は、ビビってるんだ。さっきだってそうだ、素子を都合よくダシにしてた」
素子って言い訳で蓋をしていた恐怖を受け入れる。
足は震えているし、心臓の音は破裂しそうなほどうるさい。
「でも、そうだ」
俺は俺に誓った復讐を成し遂げる。
そうとも、これは復讐だ。
目の前で一番大切にしていた女をなに簡単に奪われてんだとしか言いようがなく、不甲斐ないにも程がある俺に対する復讐だ。
「……ありがとよ、本能さん。俺は、まず。お前を乗り越える」