「ジ、ジン、トテモ、クサイゾ」
「右に同じ……ごめんな、カイル君」
失敗したかもしれない、どころか確実にミスった。
出雲邸からその足で印が付いていた場所へとカイル君とやって来てみれば、まぁ臭い。
「んあぁ? なんで犬連れ? 特殊プレイ?」
「あーあー! お兄さん! うちは金さえもらえたら稀人でも犬連れでもオッケーだよ! 良かったら女の子のパネルだけでも見てってよ!」
やってきた場所は酒だ肉欲だとあまり嗅ぎたくない匂いが渦巻く、俗に言う歓楽街だった。
色々と思うことはあれど、少なくとも犬の散歩がてらやってくる場所では無さすぎる。本当にカイル君には悪い場所についてきてもらってしまったよ。
「どうだ? カイル君」
「ショ、ショウジキマッタク、ハナガキカナイ。オジョウノニオイナンテワカラナイ」
カイル君と、というか犬と同レベルにまでハナを利かそうと集中したら俺も痛い目にあいそうだ。
何もしなくてもかなりキツイし、意識して防ぐことができないカイル君なら尚更厳しいだろう。
「いったん離れようか?」
「ダ、ダイジョウブダ、コノテイド……!」
やる気というか使命感を漲らせてくれるのはありがたいし頼もしいけれど。
どうしたものかな。
ヒト待ち少女に関してもそうだが、やはり裏社会は欲望が集まる場所と近い位置にあるみたいだ。
そういった面から考えれば、歓楽街ってのはわかりやすく社会の裏にあるものと接触しやすい場所と言える。
そう考えたからこそ、出雲鳴はここに来た、あるいは来ようとしたのだろう。
「ただ、気になるんだよな……」
「ジンドノ?」
「いや、なんで五反田なんだろうってね」
言うまでもなくかもしれないが、東京で一番有名な歓楽街と言えば新宿歌舞伎町だろう。
世界的にというか、日本人ならば誰でも色々ヤバイ場所だって言うイメージを持っているはず。
「オヤジドノハナント?」
「新宿、あるいは吉原じゃないとはマニアックな。だってさ」
何がどうマニアックなのかはわからないけれど、東京にある歓楽街をターゲットにするのなら五反田を選ぶ理由は薄いということだ。
つまり、五反田に印をつけた理由は歓楽街があるから以外のものになる。
出雲鳴の部屋で見つけたなんて言わなかったのは我ながらナイスプレーだったんじゃなかろうか。
娘が、それも未成年がこんな場所に出入りしようとしていたなんて知ったら卒倒もんだろう。
「マニ、アック?」
「そこは気にしないでいいさ。何にせよ、もうちょっと我慢して歩いてみようか」
ここにある場所と言えば、そういう店と飲み屋だなんだばかりだ。
ほかに五反田と言えば外国から日本市場に参入してきた企業のビルが立ち並ぶ一角と、少し離れたところに高級住宅街があって。
「ほかに、あるとすれば」
非治安区域か。
「まさか、なぁ?」
政府が安全を保障しない区域がここにはある。
刑務所に留めておけないほどの凶悪な犯罪者が、半ば野放し状態で閉じ込められる区域だ。
事前情報として如何に出雲鳴がガラの悪いヤツと接触していたなんて聞いてはいるが、流石に非治安区域にいるヤツらはガラが悪い程度のレベルに収まらない。
「なぁ、カイル君?」
「ナンダ?」
「出雲鳴が、非治安区域に興味ある様子とかあったかな?」
「ヒチアンクイキ……?」
うーんと考え込むカイル君を見て少しほっとした。
そうだよな、流石にそんなところに乗り込んでやろうとかそういうこと考えてるわけないよな?
「あぁ。そうだな、ちょうどこの裏路地をまっすぐ行って……そう、夜だから見えにくいかもしれないけれど、あの大きな壁に囲われている場所のことだよ」
囲い込んで押し込んだ、なんて印象がある場所だが。
中に入るには許可証を持った上で厳重なチェックだなんだを受けて、分厚い扉を何枚もくぐってようやく入れる危ないところ。
つつっとカイル君が何かを思い出すように視線を上げていって。
「アルゾ」
「ある? そっか、そうだよなあるよなー……って、マジで?」
「マジトハ?」
「あー、本当に?」
もう一度聞けばコクリと顔が縦に動いた。
「ガイシュウノカベ、バクハデキナイカト」
「……えぇ?」
「アノカベサエナケレバ、ト」
「うーわ……」
非治安区域に入りたがっていたかは断言できない、ってかしたくないが、興味はあったわけだ。
っていうと? 中に何とか入る方法を探すためにガラの悪いヤツと接触しようとしていたとか? や、やな繋がり方したじゃねぇか……。
「仮に、そうだとしても。なんでだ? 出雲鳴は稀人の雇用促進のために活動していた人間だ。だっていうのに何で非治安区域なんかに興味を示す?」
確かに。
非治安区域の中にいる連中は稀人が多いらしい。
まるで人間と稀人の人口比率をひっくり返したかのような世界が広がっているとかなんとか言われるくらいだ。
それだけ稀人による犯罪が国内に溢れかえっていると思えば悲しい事実だが。
ともあれそんなヤツらを企業に向けて雇用しろなんて、誰であっても思わないし、言うはずもない。
何だ? 何で出雲鳴は非治安区域に興味を示した?
「わっからねぇ……って、カイル君!?」
手に持っていたリードがぐいと引かれた。
考え事をしてたから力が入らずされるがままになってしまったけど。
「急にどうした?」
「オジョウノニオイ!!」
「っ!? なんだって?」
「コッチダ!!」
リードを引っ張りぬいて駆け出したカイル君を追いかける。
向かっている方向の先には非治安区域がある。
当たってほしくない予感が当たっていることを受け入れなきゃならないみたいだと。
「っ!!」
「……ウ゛ゥ゛……」
覚悟をしようとしたその途中、カイル君は人気のないアパートの前で立ち止まり唸り始めた。
「カイル君?」
「ココ、ダ」
木造の二階建て、今となってはあまり見かけない建物だが。
「どっちだ?」
「シタ、アノヘヤ、ダ」
一階の一番奥にある部屋へとゆっくり歩く。
この時になって出雲邸で覚えた出雲鳴の匂いに俺も気づけた。
「……集中」
怪しい気配はない。
誰かが息を潜めたりしている音も聞こえない。
深く深く、出雲鳴の匂いへと集中する。
ここは外だ、あの部屋のように匂いがはっきり残っているわけじゃない。
ただ、それでも。
「匂いが、増えた?」
「ム?」
僅かにドアノブに残っていた出雲鳴の匂いに、この辺りでは嗅ぎ取れなかった匂いが重なった。
つまり。
「ここで、誰かと落ち合った?」
わからないけれど。
……不思議だな、ここまでまるで形を持ったかのように匂いが見えたのは初めてだ。
期待や好奇心、そして一握りの不安。出雲鳴の感情らしきものが手に取るようにわかる。
相手の匂いにしても害意を持っているような感じはしない。ウェルカム、とまでは言わないが。
この感覚が正しいとするのなら、少なくともすぐ危険な目に合うようなことはないだろう。
いや、そもそも非治安区域に入ろうとすること自体が危険だって話なんだが。
「当たり前に、ドアは開いてない、か」
匂いの痕跡はドアの前で途切れている。
この部屋の中に入ったかどうかまでははっきりしないな。
「ドウ、スル?」
「このアパートには誰も住んでいなさそうだけど。だからと言ってカギ壊して突入なんてはできないな」
「ク……!」
苛立ったように前足でガリガリと地面を削るカイル君には悪いけれど、ここから先は危険だって警鐘が聞こえる。正規か裏か手順を踏んだらしい出雲鳴よりも俺たちは招かざる客になる可能性が高い。
「準備不足だ。一旦帰ろう」
「ジンドノッ!!」
「気持ちは、わかるなんて言えないけれど。ここから先は、そう。それこそ無駄死にしてしまう可能性のほうが高い。出雲鳴を助けるんだろう? 無事かどうかもわからないまま二度と会えなくなるなんて笑い話にすらならない」
出雲鳴って人間はイイヤツなんだろうな、キミを見ていたらそれはわかるよ。
でもそれだけに万全を期すべきだ。
俺だって素子が目を覚ますと言うのなら笑って自分の心臓くらい捧げる覚悟はある。
あるけれど、そうした結果俺は満足でも素子は喜ばないってことくらいはわかるから。
「グ、ゥ……ワカ、ッタ」
「ごめん、な」
無念そうに尻尾を垂らしたカイル君の頭を撫でた。