目の前には倒れ伏している素子の姿と、その奥にあるのは黒を通り過ぎて漆黒の翼を持つ稀人らしき存在がいる。
「もとこっ!!」
どちらに目が行くか、どちらを優先するかなんて言うまでもない。
思った以上に力が出て、コンクリートを脚で少し掘ってしまったかもしれないけれど。
「っ!?」
黒い翼の男が慌てたように飛び退いたのと、素子の下に辿り着いたのは同時だった。
「素子っ! おい! もとこっ!? しっかりしてくれっ!」
「……キサマ」
わからない。
素子が頭と腹から血を流している理由も、血の気を感じない顔色も。
どうして、いったい、なんで?
それでも、わかることがあるとすれば。
「お前が――やりやがったのかぁっ!!」
「くっ!?」
コイツが何かしたせいだってことくらいだ。
「てめぇええぇっ!! 俺の家族に! 何をしやがったあぁぁぁっ!!」
「ち――躾けのなっていないイヌはこれだからっ……!」
勢いそのままに殴りつけようとすれば、男は翼をはためかせ灯りの点いていない電灯へと飛び乗り避けられた。
そんなんで、逃げられたつもりかよっ!!
「にがすかぁああぁぁっ!!」
塀を蹴って、三角飛びの要領で、逃がさない。
思いっきり腕を振り上げて、殴りつけ叩き落そうとした俺の手は。
「狂犬、だな」
「っ!?」
男の頬を捉えられず、空ぶった。
「犬は地面を這うのが一番似合っていて自然、だろう?」
「ぐあっ!?」
軽々と俺の背中を蹴りつけ、地面に叩きつけられる。
「少し、痛いぞ、我慢しろ」
「ぐっ!?」
そのまま地面に縫い付けられるように、針のような何かで身体を穿たれた。
これは……羽?
「あまり手間をかけさせるな。先も言ったが、同族を甚振る趣味はオレに無い。黙って仕事の邪魔をしないのであれば見逃してやる」
「ぐ、くぅ……! 仕事、だって!? これ以上、素子に手を出すなっ!」
なんだこの羽、びくともしない……! これじゃあ動けないっ!!
「ふん、すまないな。邪魔をしないではなく、邪魔できない、だったか」
「こ――このおおおっ!」
嗤われた。嗤われて、しまった。
それはつまり。
「そう、無駄だ。だが安心しろ。この女は殺すつもりだったが、情状酌量の余地が出来たからな……」
どうにもできない、ってことで。
黒い翼を持つ男が、素子の傍に近寄ることを、止められないってことで。
……いや。
そうじゃないだろ? 諦めてんじゃねぇよ……!
誰よりも何よりも大切な人がナニかされるのを、仕方ないなんて思って見過ごそうとしてんじゃねぇよ……!!
「ぐ、あ――うあ、うあぁぁああぁあっ!!」
「……これは驚いた、狼程度にソレをどうにかできるとは思わなかった。だが」
「ふぐっ!?」
「言っただろう? 無駄だと。重ねて言うが安心しろ、このニンゲンの女が、キサマの目の前からいなくなるわけじゃない。ただ――」
――目を覚まさなくなるだけだ。
立ち上がれそうだったところを、追加の羽で更に強く縫い付けられた。
「あ、あ……やめ、やめろ……!」
ゆっくりと素子の頭を持ち上げて、男が手をかざす。
「やめろ、やめてくれ……! その人は、俺の家族で、何よりも大切な人なんだ……!」
気分が、悪い。
目の前がチカチカする。
なんでだ? どうしてだ?
目を覚まさなくなる? わけがわからない。
どうして素子はそんな目に合わなければならない? どうして俺の幸せは壊されようとしている?
「諦めろ」
納得なんてできるわけもない。
それでも、淡々と言われたその言葉で。
「やめろおおおおおおおっ!!」
これからの未来が、この路地裏より暗くなったことは理解できた。
「やぁ。元気、じゃあないのはわかっているけれど。災難、だったね」
血圧なんかを示すバイタルモニターが、素子が生きている音を奏でる病室にやって来たのは素子の友人で。
「……先生」
「わかってるよ、災難なんて言葉で済ませたくないことくらい。でも、その目は僕に向けるモノじゃあないだろう?」
俺にとっての先生だった。
「よく、ここがわかりましたね? というか、見つけられても入って来れましたね」
「この
男のくせに、何処をどう見ても俺と同年代の女学生にしか見えない先生が冗談めかして笑ってくれるけれど。
「……いや、そうだね、そういう空気でもなかったね」
「いえ。気持ちは、嬉しいです。ありがとうございます」
俺はチューブに繋がれた素子から目を離せないでいる。
「とりあえず、だけどね仁君。いい加減に自分の手当てをした方が良いと思うんだけども?」
「ええ、はい。わかって、ます」
机の上に置かれたままの包帯やら消毒液やらをチラリと見るが、どうにも手が動かない。
「気持ちはわかるけれどもね。ここは病室だ、そんな姿のままでいるべきじゃないと言っているんだよ」
「わかって、ます」
幸か不幸か軽傷という診断を下された俺だ。
身体に穴が開いたって怪我のどこが軽傷なんだって話だけれど、この程度の怪我なら放っておいても数日で綺麗になる。
だったら、今にも目が覚めそうな素子の意識が戻るのを、こうして待っていたい。
「あぁ、もうっ!」
「うわちょっ!? せ、先生っ!?」
「全然わかってないからね、キミは。不衛生な状態で怪我人病人の傍にいるべきじゃないと言っているんだよ」
業を煮やしたのか先生が乱暴に俺の服を脱がしてきて。
「じっとしてるんだよ? ……じゅるり」
「わざとらしく涎を啜らないで下さい」
手当てを始めてくれた。
消毒液が染みる。思わず声が出そうになる。
でも、身体の痛みよりも、何よりも。
「痛いかい?」
「大丈夫、です」
「違う。心が、だよ」
「……痛いです」
心が痛い。
何もわからないまま、素子がこうなった。
何もわからないまま、俺の幸せが害された。
あまりの理不尽に、頭がおかしくなりそうだ。
「そうかい。痛みをそうだと自覚できるのは健康である証明だね。僕としては少し安心したよ」
ならば素子は。
痛みにすら反応を示さない素子は、健康ではないということなのだろう。
あぁ、あぁ。
そうだ、素子は害された。
あの黒い翼の男が何をしたのかはわからない。
ただ、アイツが言ったように、素子は目を覚まさなくなった。
「先生」
「ん? なんだい?」
「医者は、どうして目を覚まさないのかわからないって言ってました。稀人の力ってのは、人をずっと眠らせるなんてことも可能なんでしょうか?」
「そう、だね……あり得なくはない、と言ったところだね。僕たち稀人の力は科学では解明も証明もできないし、謎や未知の力を持つ者も多いから」
なら、やっぱり。
「やったヤツにしか、素子の目を覚ませる方法はわからない、ってことですね」
「……待ちたまえ。そうだと言えない空気にするのが早いと言うんだ」
立ち上がりかけた俺の身体を先生が無理やり座らせる。
「いいかい? まずは月並みなことを言おう。素子君はそれをきっと望まないよ」
「でしょうね。でも、それでも俺は」
「じゃあ次だ。これは危ない橋、と言うか裏社会に繋がるだろう出来事だ。キミじゃあこの橋を渡るに力不足が過ぎる」
わかってる。
素子は普通じゃない何かに巻き込まれたか何かした結果、今を迎えたんだろうってくらいのことは……!
「それでもっ!!」
「無駄死にさせたくないと言ってるんだっ!」
「っ……」
目の前に回り込んできた先生の顔は、いつもの軽薄そうな笑顔とはまったく真逆で。
「最後の説得だ。いつか素子君が目を覚ました時、僕は何と言えばいいんだい? キミの目を覚ますために裏社会へ首を突っ込んで無駄死にしましたと言えばいいのかい? そう、僕に……そんなことを言わせる覚悟があるのかい?」
真剣な目が俺を貫く。
「それ、は……」
もしかしたら。
そうだ、もしかしたら明日か、それとも明後日か。
一年待てば? 十年待てば? 素子は何でもなかったかのように目を覚ますかもしれない。
「俺、は……」
あぁ、そう思えば耐えられるかもしれない。
でも、目を覚ましたその後は? 時間を無駄に、病室のベッドで寝たきりだった素子が日常を取り戻すには更なる時間を必要とするか、取り返しがつくことはないかも知れない。
それを、俺は。
「認められ、ない……!」
俺が素子を嫁に貰う。
そんな夢だってあった、だからいつまでだって支える覚悟はある。
あるけれど、彼女自身が幸せを掴む機会をこんな形で逃すってのを見過ごす覚悟なんかない。
「先生」
「……はぁ。うん、聞くまでもない、か。でも、そうだね、聞かせておくれ? キミは、これからどうする? どうしたい?」
ここに俺は復讐を誓う。
あの黒い翼の男にはもちろん、裏社会にある何かが素子をこうしたと言うのなら、闇の世界にだって牙を剥く。
「ここで我慢する覚悟をしたところで、未来が明るくなるわけじゃない。だったら俺は……やる、やります。どんなことだってやって。必ず素子のあるべき明日を取り戻す」
俺は、狼だ、狼稀人だ。
狙った獲物は逃さない、必ず仕留めて手に入れてやる。
「わかった。なら、そうだね。キミを試してあげよう」
「試す?」
「そうだ。ここで手を貸してあげようと言ってあげるのは簡単だけどね。僕が僕じゃあ貸せるモノがない。素子君にかつて約束したのはキミの世話だけだ。だから……うん。
「先生を、探し出す……?」
言っている意味がよくわからない。
それに、俺の世話を約束した? 過去、素子と先生の間に何があったんだ?
「僕の言っていることがよくわからないって? それは当然だ、ここから先は普通じゃあない道が続いている。普通じゃないならまずはキミが普通ではなくなることが必要だ。それすらできないようじゃあ……ふふ、先の見えない未来に耐えるべきとしか言いようがないからね」
「っ……! わかり、ました。いや、正直全然よくわかってないですけど……見つけます、先生を」
「いい返事だ。正直、その返事は何より聞きたくなかったけれど……ね」
最後に苦笑いを浮かべた先生は立ち上がって。
「ヒントを一つ。表が無ければ裏は存在できない、つまりは共存関係にあるわけだ。その中でも一つ、わかりやすいものがある」
「わかりやすい、もの?」
「表に浸透しすぎて裏だと思えなくなってきた部分は大きいけれどね。あぁ、丁度SNSでトレンドとして取り上げられているみたいだし、見てみると良い。それじゃあね」
俺に背中を向けたままそう言って、病室を後にしていった。
「……トレンド?」
スマホを取り出して、アカウントだけ作ってまったく触っていなかったSNSアプリを立ち上げる。
並んでいるものはいつも通り政治に関するものだとか、どこぞの有名人が浮気しただのなんだのに加えて。
「ヒト待ち、少女?」
あまり見かけないワードが乗っていた。
これが先生の言っていた表に浸透しすぎた裏、だろうか?
いや、わからないのが当たり前だ、今の俺は。
だったら、確かめる以外に選択肢は存在しないんだ。
「……素子」
ベッドの上にいる素子の頬へ手で触れれば温かい。
生きている、素子はちゃんと生きているんだ。だったら。
「行ってくるよ、素子。必ず、絶対、元に戻すから。少しだけ、待っててくれな? 今度はいくらでも尻尾、貸してやるから」
行こう、始めよう。俺の復讐を成しに。