最近、薬指を見つめることが多くなった。
前世、そこにあったかもしれない指輪は今ここにない。
来世まで指輪を持ってくることはできなかった。
病院を辞めてからも時々、アップルさんを夢に見た。ありふれた日常の断片一つを夢に見ては、過ぎ去った有限の時の幸福に思いを馳せた。
ある夢の中で、私はこぢんまりとした教会の長椅子に腰掛けていた。
――これも前世の記憶の断片かしら。
いつもの夢と雰囲気が違う。これは回顧ではなく、夢世の邂逅なのではないか。年季の入った木椅子の感触も、手指の感覚もはっきりしていた。
礼拝堂の内陣は一段高いところにあり、私のいる会衆席と隔たれていた。ステンドグラスの光が降り注ぐ内陣のそば、会衆席前方の隅っこにオルガンが一つ据えられていた。オルガンの前には見覚えのある
――むすんでひらいて? どうして童謡を?
子供の時には幼稚園でよく歌ったものだ。懐かしい気持ちがこみ上げる。彼は演奏を三回繰り返した。私は席を立つと、オルガンの前に座る彼へ近付いた。
「アップルさん、オルガンが弾けるのね。とても美しい演奏だったわ」
彼は「Thank you」と胸に手を当て、一礼した。
「さっき、どうして〝むすんでひらいて〟を演奏したの?」
「日本では童謡だけど、キリスト教の礼拝でも演奏するんだよ。宗派問わず、世界中の美しい曲を
「それで良いと思う。貴方らしくて好きよ」
彼は「Thank you」と言って、はにかんだ。
「 むすんでひらいては、時代、土地、編曲者によって名前が違うんだよ」
「そうなの?」
「Go Tell Aunt Rhodyとか、Greenvilleとか、 Lord dismiss us with Thy blessingとか。日本では〝見渡せば〟という曲が〝むすんでひらいて〟と同じ旋律だ」
「本当にたくさんあるのね……」
「俺はルソーの夢という名前がロマンチックで一番好きだな」
「夢……。私は今、夢を見ているのよね?」
「そうだよ。これは夢の世界と天国が繋がった場所だ。時々ね、こんな風につながるんだよ。だからルソーの夢を弾こうと思った」
なんて感性溢れる人だろう。学識と教養に脱帽だ。
「私が食あたりで倒れて、本当に目覚めるまでに見たものは、全部夢だったの?」
「さてね。世界は複数にあるからね、星の数ほど。別の世界の君が、実際にその二ヶ月を先に生きていた、と考えるのもありだね」
煙に巻くような言い方だ。
「夢の中で貴方と話したことは本当? それとも私の妄想?」
「神のみぞ知る」
――またそれか。
「私はどうしてそんな、パラレルワールドを経験する必要があったの?」
「神のみぞ知る。ただ君の行動で救われた命があることだけは確かだ」
「アップルさんは意地悪ね。肝心のことを〝神様〟でぼかしてしまうのだもの」
「君だって肝心のことを忘れているじゃないか」
「肝心のことって?」
「エドワード・アップルレード。それ、俺の本名だと思う?」
アップルさんは自分を指差して、苦笑を浮かべた。
「エドワード・アップルレードは、前世の君が書いた小説の主人公だよ。アップルさんでもいいけどね。俺の本名と少しは似ているから」
彼はくすっと笑うと、オルガンに再び向き合い、再び音楽を奏で始めた。
――O come, O come, Emmanuel.
彼が私にプロポーズした時に、奏でられていた音楽だ。私の目から涙がこぼれ落ちた。
「泣かないで、吉楽。君に俺の姿が見えなくても、声が聞こえなくても応援しているよ。死に字引も頑張るからさ」
「ありがとう、頼りにしているわ」
彼はオルガンの席を立つと、私をそっと抱きしめた。
私は彼の腕の中で【本当の名前】を呼んだ。
答え合わせは正解で、彼は一層私を強く抱き寄せた。
おそらく彼は思い出して欲しかったのだろう。
「私の夢を信じてくれてありがとう」
「君の夢は、俺の夢です」
二人の夢を叶える為に、私は今日も筆を執る。
【おわり】