「実は最近……怖い夢を見たんです」
「どんな夢だい?」
「この病院が、火事に遭う夢です」
小五郎さんは目をぎょっと見開いた。まるで思い当たる節があるかのような面持ちだ。もう彼は計画を進めているのかもしれない。だが、まだ間に合うはずだ。
「そ、それは怖い夢だね」
「はい、とても。逃げようとするんですけど、どこも火の海で」
「夢の中の
「なんとか、逃げることができました。でも」
「でも?」
「夢の中で、私を必死に助けようとしてくれた人がいて」
アップルさんは地下の水道施設から私を外へ逃がしてくれた。
今はもう、その人を見ることも、声を聞くこともできなくなってしまった。
「You are dear to me.」
魚にあたって倒れた時、彼が私に言った英語を思い出す。あれは英国人が親しい者へ使う「一昔前」の古風な言葉だそうだ。
「
膝元に落としていた視線を小五郎さんに合わせる。じっと私を見つめる彼の目が涙に揺らいだ。
「この病院に……誰かお付き合いしている人がいるのかい?」
「いいえ、いません」
「では、夢の中に現れたその男性は、君の知る人かい?」
「はい、よく知る人です」
「恋人かい?」
私は何も無い薬指を右手で撫でた。
「彼は亡くなっています」
小五郎さんは哀愁漂う面持ちで、自分の薬指に触れる。そこには銀の指輪がはめられていた。
「私にも愛する人がいたから、分かるよ」
「ニカさんですか」
「し、知っているのかい?」
「はい。とてもお優しくて人情味のある方だったと伺いました」
「誰がそう言っていた?」
「内緒です」
本当は、私がニカさん本人と話して抱いた印象をそのまま告げただけなのだ。
「そう……その通りだ。ニカは本当に世話好きで、人のことを放っておけないタイプだったよ。口は少々悪かったけれどね。勝ち気な彼女の性格に、私は何度……背中を押されたことか」
小五郎さんは泣くのを必死に我慢しているようだ。
「幽霊の声が聞こえるというクライエントを何人も診た。けれど私は一度も無い。ニカが枕元に立つ事も無かった。そもそも私は……無神論者だし、非科学的なものは信じられない」
「けれどニカさんは信じたいのですか? 幽霊でも?」
小五郎さんは唇をきゅっと引き結ぶ。
「ああ、幽霊を信じたいと思った。ニカがいるのなら、声が聞きたい、姿を見たい。矛盾しているね、元医者なのに」
彼はハンカチを目頭に当てた。
「寂しいんだ、とても」
小五郎さんは声を上ずらせ、こらえきれない涙をこぼした。焼却炉の前で泣きじゃくっていた姿と重なる。この人はやはり〝別の現実〟で見た彼と同一人物なのだ。
「
心理士は「助言」を与えるべきではないと教わった。あくまで
「
アップルさんの存在を証明するものを私は一つも有していないし、彼の存在を知覚することはできなくなった。それでも彼が変わらずそばにいて、私を守ってくれていると信じたいのだ。そこには紛れもない「愛と感謝」が存在する。
「悲しみと憎しみより、愛が深い貴方を、私は尊敬します」
「ありがとう……お嬢さん」
小五郎さんは、涙に濡れた赤い目で微笑んだ。
彼と話したのはこれが最後となった。
私は退職届を出して、病院を去ることを決意したからだ。
運命の九月、病院で火事は起こらなかった。
ただし未だに空き病床数は、ゼロである。病院を出て行く者がいないのだ。この病院は今も患者を治そうとはしていないが、炎のような悲しみと憎しみが罪のない命を奪うことは無かった。きっと、ほんの少しだけ、私も社会に貢献できたのだろう。
【つづく】 次回、最終回!