八月のはじめに、ゲンジさんという方が病院で亡くなった。
その日私は【洗濯物】を押しつけられなかったので地下には行かなかったが「霊安室の扉が勝手に開いていた」という噂を聞いた。「死んだこと」を理解できていないゲンジさんは、自分を死に至らしめた施術者への復讐に動いたのだろうか。
ゲンジさんが亡くなった日の夕方、故人を担当していた女医が急に薬室へやってきた。
「ゲンジさんの心臓発作は、うちの責任ですって! 何をおっしゃるんですか!」
薬室長は真っ赤な顔で息巻いた。
女医の言うことには。
「ゲンジさんの死亡は、頓服薬が原因ではないか」
とのことだった。薬室長と女医が激しい口論を始める。
「私は、先生が処方された通りに薬を出しただけですよ。現場の看護師の責任を、こっちに押しつけないでくださいよ! とんでもない言いがかりです」
――責任の押し付け合いだ。
収集がつかなくなったので、結局は「本人の持病による発作」と結論づけるようだ。
――遺族は納得するのかしら。
遺族が故人をどう思っていたかにもよるけれど、ゲンジさんの死に関わった人たちが、責任を逃れるために「あれやこれや」言い訳をして、相手を責め立てる姿は醜い。世間では「医療従事者の貢献」を讃える風潮があるけれど「その必要はない」と思う。どの職業に就いている人も立派な貢献者だ。
――こんな病院、辞めたら? 人が悪すぎる……か。
私は何度、アップルさんに諭されたことだろう。
――このままここにいたら、私は火事に巻き込まれる。
中庭で昼食を食べながら「私だけ助かって良いのか」と自問自答を繰り返す。
――救うに値する人たちなのだろうか。
未来の〝火事〟を回避する為に、立ち回る必要はあるのだろうか。私の独り相撲になりはしないか。毎日カップラーメンを食べる妊婦も、人を全員「悪」と見なす薬室長も、大人のイジメに加担する薬剤師も、色目で職員を診察しようとする理事長も。
悶々と悩んでいると、中庭のベンチの隣に誰かが腰掛けた。
「お嬢さん、あなたは初めて見るね。こんにちは」
その老夫は私をじっと見て、目元を和ませた。
――
あの〝別の世界の未来〟で見た、火付けの犯人だ。
彼は結局、燃えさかる瓦礫の下敷きになった。
「お嬢さんは、私の事を知らないだろう?」
「理事長の……お父様ですよね」
「おや、ご存じだったかい。どこかで会ったかね」
「ええと……インターネットで貴方のお写真を拝見したことがあります。御本を執筆されている、と」
適当に誤魔化したのだが、小五郎さんはとても嬉しそうに表情を綻ばせた。
「お嬢さん、私の本を読んでくれたのかい?」
「は、はい。【精神科の光と闇】という本が特に印象的でした」
私は「ゴミ捨て場」に置かれていた本の名前を言った。
「そうかい。あれを読んでくれたのかい。いやぁ嬉しい。うちの息子なんざ本棚のすみっこに追いやっているっていうのに。ありがとう、読んでくれて」
小五郎さんは私の手を握って、なんども「ありがとう」と言った。
――この人が、放火を? とても信じられない。
あの〝別の世界の未来〟で見た彼と、百八十度違う。ウイスキーを
「なんだか暗い顔をしているね。どうしたんだい?」
「あ……いえ、大したことでは」
「君は、この病院に勤めたばかりなのではないかい?」
「は、はい。そうです」
「どこの部署だい?」
「薬室です」
「薬室か。あそこの薬室長は性格が悪いだろう」
心臓がドクンと音を立てた。否定も肯定もできない私を見て、小五郎さんは苦笑を浮かべた。
「あの
「は、はい。そうです」
「アガサ・クリスティーと同じだね」
「へ?」
「知らないかい? ミステリーの女王は、その名を
ベンチの横、鞄の上に置いた本を小五郎さんは指差した。
「ひょっとして物語を書いていたりするのかな」
「ど、どうして分かるんですか」
「分かるよ。物語を書く人は目が違うからね。この病院で何人の心と向かい合ってきたことか。作家も大勢いたよ」
小五郎さんは病院の建物を見上げた。
「それでも救えなかった。何人も見送ったよ。ここに何本樹を植えて、花を植えても、癒えないね」
彼は屋上から地面へ視線を移動させる。あの〝別の世界〟で小五郎さんとニカさんが私に告げた言葉を思い出した。「中庭に飛び降りた人がいる」と。
「私でよければ、お嬢さんの悩みを聞くよ。私は語るより聞き手でね。職業病さ」
小五郎さんは肩をすくめてみせた。
――もしも私がこの人に干渉して、未来が変わるのならば。
彼が火をつけなければ、あの悲劇は回避できる。
「実は最近……怖い夢を見たんです」
「どんな夢だい?」
「この病院が、火事に遭う夢です」
小五郎さんは目をぎょっと見開いた。まるで思い当たる節があるかのような面持ちだ。もう彼は計画を進めているのかもしれない。だが、まだ間に合うはずだ。
【つづく】