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第36話 小五郞と吉楽

 八月のはじめに、ゲンジさんという方が病院で亡くなった。


 その日私は【洗濯物】を押しつけられなかったので地下には行かなかったが「霊安室の扉が勝手に開いていた」という噂を聞いた。「死んだこと」を理解できていないゲンジさんは、自分を死に至らしめた施術者への復讐に動いたのだろうか。


 ゲンジさんが亡くなった日の夕方、故人を担当していた女医が急に薬室へやってきた。


「ゲンジさんの心臓発作は、うちの責任ですって! 何をおっしゃるんですか!」


 薬室長は真っ赤な顔で息巻いた。

 女医の言うことには。


「ゲンジさんの死亡は、頓服薬が原因ではないか」


 とのことだった。薬室長と女医が激しい口論を始める。


「私は、先生が処方された通りに薬を出しただけですよ。現場の看護師の責任を、こっちに押しつけないでくださいよ! とんでもない言いがかりです」


 ――責任の押し付け合いだ。


 収集がつかなくなったので、結局は「本人の持病による発作」と結論づけるようだ。


 ――遺族は納得するのかしら。


 遺族が故人をどう思っていたかにもよるけれど、ゲンジさんの死に関わった人たちが、責任を逃れるために「あれやこれや」言い訳をして、相手を責め立てる姿は醜い。世間では「医療従事者の貢献」を讃える風潮があるけれど「その必要はない」と思う。どの職業に就いている人も立派な貢献者だ。


 ――こんな病院、辞めたら? 人が悪すぎる……か。


 私は何度、アップルさんに諭されたことだろう。


 ――このままここにいたら、私は火事に巻き込まれる。


 中庭で昼食を食べながら「私だけ助かって良いのか」と自問自答を繰り返す。


 ――救うに値する人たちなのだろうか。


 未来の〝火事〟を回避する為に、立ち回る必要はあるのだろうか。私の独り相撲になりはしないか。毎日カップラーメンを食べる妊婦も、人を全員「悪」と見なす薬室長も、大人のイジメに加担する薬剤師も、色目で職員を診察しようとする理事長も。


 悶々と悩んでいると、中庭のベンチの隣に誰かが腰掛けた。


「お嬢さん、あなたは初めて見るね。こんにちは」


 その老夫は私をじっと見て、目元を和ませた。


 ――美濃みの 小五郎こごろう? 嘘でしょう!


 あの〝別の世界の未来〟で見た、火付けの犯人だ。

 彼は結局、燃えさかる瓦礫の下敷きになった。


「お嬢さんは、私の事を知らないだろう?」

「理事長の……お父様ですよね」

「おや、ご存じだったかい。どこかで会ったかね」

「ええと……インターネットで貴方のお写真を拝見したことがあります。御本を執筆されている、と」


 適当に誤魔化したのだが、小五郎さんはとても嬉しそうに表情を綻ばせた。


「お嬢さん、私の本を読んでくれたのかい?」

「は、はい。【精神科の光と闇】という本が特に印象的でした」


 私は「ゴミ捨て場」に置かれていた本の名前を言った。


「そうかい。あれを読んでくれたのかい。いやぁ嬉しい。うちの息子なんざ本棚のすみっこに追いやっているっていうのに。ありがとう、読んでくれて」


 小五郎さんは私の手を握って、なんども「ありがとう」と言った。


 ――この人が、放火を? とても信じられない。


 あの〝別の世界の未来〟で見た彼と、百八十度違う。ウイスキーを喇叭らっぱ飲みし、赤ら顔で泣いたり笑ったり、怒鳴り散らしたりしていた火付けの彼と本当に同一人物なのだろうか。


「なんだか暗い顔をしているね。どうしたんだい?」

「あ……いえ、大したことでは」

「君は、この病院に勤めたばかりなのではないかい?」

「は、はい。そうです」

「どこの部署だい?」

「薬室です」

「薬室か。あそこの薬室長は性格が悪いだろう」


 心臓がドクンと音を立てた。否定も肯定もできない私を見て、小五郎さんは苦笑を浮かべた。


「あのは、わたしの親戚なんだがね、どうも心が冷え切っていて好きになれないよ。今まで何人も職員をいじめて、辞めさせている。あなたは調剤助手かい?」

「は、はい。そうです」

「アガサ・クリスティーと同じだね」

「へ?」

「知らないかい? ミステリーの女王は、その名をせる前、調剤助手だったんだよ。あなたは本が好きなようだね?」


 ベンチの横、鞄の上に置いた本を小五郎さんは指差した。


「ひょっとして物語を書いていたりするのかな」

「ど、どうして分かるんですか」

「分かるよ。物語を書く人は目が違うからね。この病院で何人の心と向かい合ってきたことか。作家も大勢いたよ」


 小五郎さんは病院の建物を見上げた。


「それでも救えなかった。何人も見送ったよ。ここに何本樹を植えて、花を植えても、癒えないね」


 彼は屋上から地面へ視線を移動させる。あの〝別の世界〟で小五郎さんとニカさんが私に告げた言葉を思い出した。「中庭に飛び降りた人がいる」と。


「私でよければ、お嬢さんの悩みを聞くよ。私は語るより聞き手でね。職業病さ」


 小五郎さんは肩をすくめてみせた。


 ――もしも私がこの人に干渉して、未来が変わるのならば。


 彼が火をつけなければ、あの悲劇は回避できる。


「実は最近……怖い夢を見たんです」

「どんな夢だい?」

「この病院が、火事に遭う夢です」


 小五郎さんは目をぎょっと見開いた。まるで思い当たる節があるかのような面持ちだ。もう彼は計画を進めているのかもしれない。だが、まだ間に合うはずだ。


【つづく】


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