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第35話 懐かしくて、遠くて、愛しい

 あれは予知夢だったのだろうか。

 それとも別の現実だったのだろうか。


 既視感を憶える出来事が立て続けに起こっていたある週、村井さんの悪阻がひどくなり、土日連続で出勤することとなった。


「この頓服薬、三階の開放病棟に持って行ってくれる?」


 薬剤師に頼まれて病棟へ持っていく。入院されている方々の為に開放されたフリースペースにはテレビがついており、老若男女がバラエティを視聴している。


 ――やっぱり、この光景、前にも夢で……。


 ナースステーションに行くと、夢で見たのと同じ看護師さんがいた。


「ああ、頼んでいた頓服薬ね、どうも」


 看護師は頓服薬を、トレーに放り込んだ。


「看護師さん、看護師さん」


 ナースセンターの窓から顔を出したおじいさんの名前は確か「はたさん」では無かったか。


「なんですか、はたさん?」


 頓服薬を受け取った看護師が淡泊に訊ねた。


「十円ください。ガムが買いたいんです」

「先生に聞いておきますね」

「今ください」

「お薬の時間があるから、今はダメですよ」


 はたさんは残念そうに項垂れて去った。


 ――やっぱり。夢と同じだ。


「私のことを、冷たいって思った?」

「い、いいえ。だって……ガムを、いろんなところに……くっつけていっちゃうから?」


 夢の記憶が正しいか、さらに確かめてみる必要があった。


「なんだ、貴女も知っていたのね。だからいくら頼まれてもお金は渡さないの」

「お金を渡して、どこそこ落としていってくれるなら、まだ良かったけどねぇ。あっ、十円みっけ、って感じでさぁ。得した気持ちになれたのにね」


 看護師二人はゲラゲラと声を立てて笑った。


 ――看護師の、会話が変わった?


 おそらく私が干渉したからだ。


 ――確かめてみる必要があるわ。


 以前の夢で私は「血液検査結果」を取る為に一階へ下りて、病棟を脱走された方と遭遇した。とすればこのあと数分もすれば、同じ光景に遭遇するはずだ。


 ――でも、やっぱり血はダメ。


 血まみれで逃げる人を止めろなんて無理な話だ。私はそんなに腕っ節が良いわけではない。


 ――あ。まだテレビを見ている。


 以前見た夢では、フリースペースでテレビを視聴していた方々が忽然と消えていて、奇妙な気持ちになったっけ。


 ――夢と多重世界を行き来していた? そんなことってあるの?


 一階で検査結果をもらった私は、階段から少し離れた場所の椅子に腰掛けた。土曜の診療は終わったので、廊下は無人だ。心臓がドクドクバクバクと五月蠅いくらいに鳴っている。本当に脱走者が現れるのだろうか。


「あれ? 君は……薬室の」


 あんまり緊張していて、人が近付いていることにも気付かなかった。


 ――美濃理事長!


 ニカさんと前理事長の子ども、美濃みの 敦史あつしだ。


「どうしたんだい? そんなところに座って」

「すみません。実はちょっと、立ちくらみがして……座っていたら落ち着いたので、薬室に戻ります」


 去ろうとしたが、本当に立ちくらみがした。緊張も度を過ぎたせいだろう。


「大丈夫かい? 肩が細いねぇ。ちゃんと食べてる?」

「は、はい。食べました」

「心配だなぁ」


 理事長は私の顔をのぞきこんだ。


 ――顔が、近いんですけど。


 私は一歩後ずさったが、彼はさらに一歩近付いた。


「今日は診療も終わったし。ちょっとてあげようか」

「いえいえ。先生のお手を煩わせるわけには参りませんので」

「まぁまぁ、遠慮しないで」


 理事長の手が私の肩に触れた。

 途端に何故か、ぞわっと鳥肌が立った。

 目元が笑みに細められていたからだ。


 ――この人、色目で職員を見る人だったんだ。


 どうにかして診察を逃れる方法を考えていると、階段の方からドタバタと騒がしい物音が聞こえた。


「止めろ! 誰か止めてくれ!」

「一階に逃げたぞ!」


 血まみれの男性が階段を飛び出し、一目散に入口へ駆けていく。


 ――夢で見た通り、本当に脱走が起こった……嘘でしょ。


「チッ、またかよ」


 理事長は舌打ちすると、男を追って玄関へ駆けだした。


「医者が舌打ち? 性格悪そう……」

「彼の品性を疑うよ、まったく」

「へっ」


 声の聞こえた方を振り返ったが、そこには誰もいなかった。


「今の声……アップルさん?」


 何度問いかけても、返答はない。

 はたから見たら、私は宙に話しかけている変な人だ。


「そこにいるのなら、もう一度声をかけて。お願い」


 耳を澄ましたけれど、彼の声は二度と聞こえることは無かった。


「そこに……いるのよね? 聞こえないの。見えないの……もう」


 何も無い空間に手を伸ばす。目頭が熱くなり、視界が涙で潤んだ。前世の私が、有限の時間の中で深く人を愛した記憶があふれてくる。これが夢や妄想だと否定できない。


「貴方が好きよ……アップルさん」


 私の声は、彼に届いているのだろうか。それすらも分からない。


 ――あの二ヶ月は夢ではなく、別の現実だったんだ。


 懐かしくて、遠くて、愛しい。


【つづく】


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