あれは予知夢だったのだろうか。
それとも別の現実だったのだろうか。
既視感を憶える出来事が立て続けに起こっていたある週、村井さんの悪阻がひどくなり、土日連続で出勤することとなった。
「この頓服薬、三階の開放病棟に持って行ってくれる?」
薬剤師に頼まれて病棟へ持っていく。入院されている方々の為に開放されたフリースペースにはテレビがついており、老若男女がバラエティを視聴している。
――やっぱり、この光景、前にも夢で……。
ナースステーションに行くと、夢で見たのと同じ看護師さんがいた。
「ああ、頼んでいた頓服薬ね、どうも」
看護師は頓服薬を、トレーに放り込んだ。
「看護師さん、看護師さん」
ナースセンターの窓から顔を出したおじいさんの名前は確か「
「なんですか、
頓服薬を受け取った看護師が淡泊に訊ねた。
「十円ください。ガムが買いたいんです」
「先生に聞いておきますね」
「今ください」
「お薬の時間があるから、今はダメですよ」
――やっぱり。夢と同じだ。
「私のことを、冷たいって思った?」
「い、いいえ。だって……ガムを、いろんなところに……くっつけていっちゃうから?」
夢の記憶が正しいか、さらに確かめてみる必要があった。
「なんだ、貴女も知っていたのね。だからいくら頼まれてもお金は渡さないの」
「お金を渡して、どこそこ落としていってくれるなら、まだ良かったけどねぇ。あっ、十円みっけ、って感じでさぁ。得した気持ちになれたのにね」
看護師二人はゲラゲラと声を立てて笑った。
――看護師の、会話が変わった?
おそらく私が干渉したからだ。
――確かめてみる必要があるわ。
以前の夢で私は「血液検査結果」を取る為に一階へ下りて、病棟を脱走された方と遭遇した。とすればこのあと数分もすれば、同じ光景に遭遇するはずだ。
――でも、やっぱり血はダメ。
血まみれで逃げる人を止めろなんて無理な話だ。私はそんなに腕っ節が良いわけではない。
――あ。まだテレビを見ている。
以前見た夢では、フリースペースでテレビを視聴していた方々が忽然と消えていて、奇妙な気持ちになったっけ。
――夢と多重世界を行き来していた? そんなことってあるの?
一階で検査結果をもらった私は、階段から少し離れた場所の椅子に腰掛けた。土曜の診療は終わったので、廊下は無人だ。心臓がドクドクバクバクと五月蠅いくらいに鳴っている。本当に脱走者が現れるのだろうか。
「あれ? 君は……薬室の」
あんまり緊張していて、人が近付いていることにも気付かなかった。
――美濃理事長!
ニカさんと前理事長の子ども、
「どうしたんだい? そんなところに座って」
「すみません。実はちょっと、立ちくらみがして……座っていたら落ち着いたので、薬室に戻ります」
去ろうとしたが、本当に立ちくらみがした。緊張も度を過ぎたせいだろう。
「大丈夫かい? 肩が細いねぇ。ちゃんと食べてる?」
「は、はい。食べました」
「心配だなぁ」
理事長は私の顔をのぞきこんだ。
――顔が、近いんですけど。
私は一歩後ずさったが、彼はさらに一歩近付いた。
「今日は診療も終わったし。ちょっと
「いえいえ。先生のお手を煩わせるわけには参りませんので」
「まぁまぁ、遠慮しないで」
理事長の手が私の肩に触れた。
途端に何故か、ぞわっと鳥肌が立った。
目元が笑みに細められていたからだ。
――この人、色目で職員を見る人だったんだ。
どうにかして診察を逃れる方法を考えていると、階段の方からドタバタと騒がしい物音が聞こえた。
「止めろ! 誰か止めてくれ!」
「一階に逃げたぞ!」
血まみれの男性が階段を飛び出し、一目散に入口へ駆けていく。
――夢で見た通り、本当に脱走が起こった……嘘でしょ。
「チッ、またかよ」
理事長は舌打ちすると、男を追って玄関へ駆けだした。
「医者が舌打ち? 性格悪そう……」
「彼の品性を疑うよ、まったく」
「へっ」
声の聞こえた方を振り返ったが、そこには誰もいなかった。
「今の声……アップルさん?」
何度問いかけても、返答はない。
「そこにいるのなら、もう一度声をかけて。お願い」
耳を澄ましたけれど、彼の声は二度と聞こえることは無かった。
「そこに……いるのよね? 聞こえないの。見えないの……もう」
何も無い空間に手を伸ばす。目頭が熱くなり、視界が涙で潤んだ。前世の私が、有限の時間の中で深く人を愛した記憶が
「貴方が好きよ……アップルさん」
私の声は、彼に届いているのだろうか。それすらも分からない。
――あの二ヶ月は夢ではなく、別の現実だったんだ。
懐かしくて、遠くて、愛しい。
【つづく】