翌日には退院の運びとなったが、未だに現実を生きているという感覚がしない。生者であることを思い出させてくれるのは、右側頭部の痛みだ。
――存在しない二ヶ月間を生きていたみたい。
アップルさん、ニカさん、タツミさんと話したことも、ゲンジさんの事件も全て忘れていないのに、何月何日かの記憶が朧気だ。土曜日、日曜日、平日ということはかろうじて憶えているけど。
――やっぱり、全部夢だったんだ。
それにしても〝二ヶ月間を生きた感覚のある長い夢〟などあり得るのだろうか。私が眠っていたのは、居酒屋で倒れてから病院に運ばれ、意識が目覚めるまでの、ほんの三時間程度であったという。
――あれが夢なのか、これが現実か確かめないと!
月曜日、職場の精神科へ出向くことにした。嫌で嫌でたまらなかったけれど、真実を確かめる為には致し方ない。
「あっ、波久礼さん。おはよ~」
階段へ行こうとした私に、エレベータの前から妊婦の村井さんが手を振ってきた。
「今、エレベータ呼んだとこだよ~。一緒に乗っていきなよ」
「いえ。私は階段で……」
「いいじゃん、いいじゃん。階段きついよ」
――このやりとり。前にも……夢で。
「ちょっと運動したいので、階段で行きます」
私は村井さんに一礼して階段をのぼった。
六階についたが。
「あれ、村井さんがいない」
エレベータは一階で止まっているようだ。
――まさかね。いや、まさか。
私は先に薬室に入ると、常備薬の点検を始めた。使用状況を薬室長に報告し、次の仕事にとりかかろうとしていると。
「おはよぉございまぁす」
村井さんが青ざめた顔で薬室に入ってきた。
「どうしたの、村井さん?
薬室長が彼女へ心配そうに声をかけた。
「聞いてくださいよ~。エレベータにバナナみたいな
村井さんは「うっぷ」と口元を押さえ、デスクに着いた。
「私も波久礼さんと同じように階段のぼれば良かったー」
「あ……いや、その」
「てか、波久礼さんも顔色悪くない? どうしたの?」
偶然だろうか。
夢で見たことがもう一度現実に現れるなんて。
――あれは、ただの夢では無かった? 予知夢?
訊ねたいけれど、アップルさんの姿は見えないし、声も聞こえない。
私は一体、どの時間を生きて、今はどの世界に存在しているのだろうか。
【つづく】