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第34話 バナナ再来

 翌日には退院の運びとなったが、未だに現実を生きているという感覚がしない。生者であることを思い出させてくれるのは、右側頭部の痛みだ。


 ――存在しない二ヶ月間を生きていたみたい。


 アップルさん、ニカさん、タツミさんと話したことも、ゲンジさんの事件も全て忘れていないのに、何月何日かの記憶が朧気だ。土曜日、日曜日、平日ということはかろうじて憶えているけど。


 ――やっぱり、全部夢だったんだ。


 それにしても〝二ヶ月間を生きた感覚のある長い夢〟などあり得るのだろうか。私が眠っていたのは、居酒屋で倒れてから病院に運ばれ、意識が目覚めるまでの、ほんの三時間程度であったという。


 ――あれが夢なのか、これが現実か確かめないと!


 月曜日、職場の精神科へ出向くことにした。嫌で嫌でたまらなかったけれど、真実を確かめる為には致し方ない。


「あっ、波久礼さん。おはよ~」


 階段へ行こうとした私に、エレベータの前から妊婦の村井さんが手を振ってきた。


「今、エレベータ呼んだとこだよ~。一緒に乗っていきなよ」

「いえ。私は階段で……」

「いいじゃん、いいじゃん。階段きついよ」


 ――このやりとり。前にも……夢で。


「ちょっと運動したいので、階段で行きます」


 私は村井さんに一礼して階段をのぼった。

 六階についたが。


「あれ、村井さんがいない」


 エレベータは一階で止まっているようだ。


 ――まさかね。いや、まさか。


 私は先に薬室に入ると、常備薬の点検を始めた。使用状況を薬室長に報告し、次の仕事にとりかかろうとしていると。


「おはよぉございまぁす」


 村井さんが青ざめた顔で薬室に入ってきた。


「どうしたの、村井さん? 悪阻つわり?」


 薬室長が彼女へ心配そうに声をかけた。


「聞いてくださいよ~。エレベータにバナナみたいな汚物おぶつが落ちていたんです。そのままにもしておけないんで、片付けましたけど。せっかく引いた悪阻つわりが戻ってきそうです」


 村井さんは「うっぷ」と口元を押さえ、デスクに着いた。


「私も波久礼さんと同じように階段のぼれば良かったー」

「あ……いや、その」

「てか、波久礼さんも顔色悪くない? どうしたの?」


 偶然だろうか。

 夢で見たことがもう一度現実に現れるなんて。


 ――あれは、ただの夢では無かった? 予知夢?


 訊ねたいけれど、アップルさんの姿は見えないし、声も聞こえない。


 私は一体、どの時間を生きて、今はどの世界に存在しているのだろうか。


【つづく】


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