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第32話 行かないで、私のそばにいて

 夢の中で、林檎の入った大きな籠を見ていた。

 アップルさんが脚立にのぼり林檎を収穫していく。

 私は脚立の側に立ち、彼が渡した林檎を籠の中に入れていった。


 ――クリスマスの夢から、どれくらい時間が経ったのかしら。


 お互いそれほど年を取ったという風ではない。

 それにしても、ここはどこだろう。自然豊かな田舎に暮らしているようだ。


「たくさんとれたね」


 彼が脚立を下りてきて、籠の中をのぞいた。


「林檎料理なら任せて。アップルパイ、アップルブラウンベティー、アップルジャム、ブランデー浸け、アップルサイダー、これだけあれば、作るのも楽しそう」


「君の料理の引き出しの多さには吃驚だよ」


「早速、林檎ジュースを作ってみるわ」


「俺も手伝うよ」


「一緒に作りましょう」


「勿論。――あ、籠は俺が持つから、いいよ」


 彼は林檎の重い籠を、住まいの台所に運んでくれた。力持ちだ。


家政婦かせいふやとう医者も多いのに、うちは余裕がなくて御免ごめんね」


「小さい村ですから。でも私には、このくらいの大きさがちょうどいいですよ」


「でも。君に家事の負担が……」


「仕事がある方が嬉しいのです。以前の暮らしより、今の方がずっと……」


「ロンドンに戻りたいと思うことはないかい?」


「いいえ。私には少々刺激が多くて。貴方あなたは?」


「俺もだよ。君とここで暮らす有限の時間を尊く思う。都会よりも、この村に住む人たちの為に、医者として尽くすことに生き甲斐を感じる」


「貴方の力になれることが嬉しいわ」


「ありがとう。愛しているよ」


 アップルさんが私の髪を撫でる。壊れ物に触れるような優しい手つきで。彼の腕に抱きしめられ、キスを交わした瞬間、私は彼女から剥がされた。正確には〝今の私〟がキスに驚いて、恥ずかしさ極まり、思わず飛び出してしまったのだ。私は初めて前世の私を「外から」見た。


 ――綺麗な人。本当に前世の私なの?


 前世の自分の姿を見るのはこれが初めてだ。三つ編みで結われた亜麻色の髪と、空色の瞳、エプロンドレス。彼の腕の中で笑む彼女の姿は、幸せの象徴だった。


 二人が「私」に気付いたのか、こちらへ振り返った。

 二人は驚く様子もなく、微笑んで私を見つめている。


 ――夢よ、覚めないで。もう少し、この光景を見ていたい。


 昼下がりの台所が遠のいていく。空に瞬く星のように小さな点となり、月のない夜が私を喰らった。無重力に近い空間を漂う。


 ――林檎の香りがする。


 闇色の世界は、忽ち透き通った色で満たされた。サイダーのように微細な泡がコポコポと音を立てて浮かび上がる。


 ――水の中にいるのだわ、私。


 なぜ息ができるのだろう。夢の中だからだろうか。


 ――ひとりぼっちは寂しい。行かないで。私のそばにいて。


 宙に揺蕩たゆたう私の左手を誰かが握った。プロポーズの時と同じ、あたたかくて大きな手だ。彼は私の薬指にそっと触れると、口づけを落とした。


「そばにいるよ。いつまでも君のそばに」


 彼へ伸ばした手が空を切る。夢世の水が引いていく。私の身体は重さを取り戻し、五感が鮮明になる。重いまぶたを開ける。どうやら私は寝台に寝かされているようだ。


 ――頭が……痛い。


 右の側頭部から鈍痛がした。触れてみようとしたが、点滴につながれているので動かすのをやめた。


「あら。目が覚めました?」


 看護師が私の顔をのぞきこんだ。


【つづく】


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