「おまえ、どこからここに入ってきた?」
前理事長の小五郎さんは、低いしわがれ声を唸らせながら訊ねた。まるで悪魔に取り憑かれたような険しく獰猛な相貌だ。
「地下……から」
「地下? 一階が火の海なのに、地下から?」
「か……階段で地下へ。水道施設から、外に」
「ああ、俺がぶっ壊してプールにしておいた場所だな! とするとあんたは、地下のプールを泳いで? そりゃ傑作だ」
彼は泣きながら笑っていた。
「こんな病院、壊れてしまえばいいんだ。燃えて、水浸しになってしまえば……」
小五郎さんは立ち上がると、燃えさかる建物を信仰の対象のように仰いで涙した。
――狂っている。この人は狂っているんだ。
「小さな病院で良かったのに」
彼は急に脱力し、泥濘に膝をつく。泥水が真っ赤な泣きっ面に散った。
「馬鹿だよ。気が大きくなって、でかいホテル買い取って改造して……息子はさらに大きくしようとしている。俺そっくりの馬鹿だ! なぁ、あんたもそう思うだろう?」
彼の問いに私は肯定も否定もできなかった。彼は「馬鹿だ、クズだ」と散々自分を罵っている。
彼はウイスキーの酒瓶をつかむと、底に残った最後の一滴まで飲み干した。紅色の炎に照らされた彼の顔が、鉄火のような熱を帯びる。この人を支配する底知れない絶望の前では、どんな言の葉も燃えて塵となってしまう。
「建物を改築する度に、死人が出た。患者が庭に飛び降りて……」
火事の熱気に晒されていた私を悪寒が襲う。気持ちの良いと思っていたあの庭で、飛び降り自殺があったなんて。
「一人じゃないんだよ」
小五郎さんの後ろで、ニカさんが泣きながら呟いた。
「なんで俺の病院で死にやがる。外で死ねばいいのに」
小五郎さんは歯をギシギシと噛み鳴らす。
「あんたの病院だから死んだのよ。まだ分からないの」
幽霊のニカさんは冷たく彼をあしらった。
「ごめんね、愚かな亭主で。ごめんなさい」
ニカさんは小五郎さんの肩に手を置き、私へ頭を下げた。
「ニカまで死んじまった……」
「そうね。私はこの病院の人柱だったのだと思うわ」
「人柱?」
私が訊ねると、ニカさんは肯き、小五郎さんは不思議そうに眉を顰めた。
「建物を新築、増築する時には、
ニカさんは苦々しげに小五郎さんを見下ろした。
「私が死んだのは、はじめの増築が終わった時だったよ」
ニカさんはそう言って、燃えさかる建物を見上げた。
「燃えていくねぇ、全部。案外綺麗だねぇ」
幽霊は涙を流しながら、微笑を湛えた。
「さあ、お逃げ。その扉から。吉楽さんの鍵で開くはずだよ」
ニカさんはフェンスのすみに設けられた扉を指差す。
「でも、小五郎さんは……」
「もうこの人は、一歩も動けないよ」
小五郎さんは泥濘の真ん中でうずくまり、子供のように泣きじゃくっていた。上階から燃えさかる瓦礫があとからあとから降ってくる。そのうちの一つが直撃したら、彼は即死してしまう。
「さあ、早くここを出るんだ、早く!」
ニカさんが扉を指差す。私は鍵で錠を解き、扉を大きく開け放つと。
「吉楽!」
アップルさんが止める声を振り切り、座り込む小五郎さんへ屈んだ。
「ここにいたら……危険ですよ」
「死ぬつもりでここにいるんだよ、私は」
小五郎さんは赤く血走った目で私を捉えた。
――まるで、何かに取り憑かれているみたい。
「死ぬつもりの人を助けていたら、自分が死にたくなった。こんな気持ち……分かっちゃいけないんだ」
「俺には分かるよ」
アップルさんが私の隣で小さく呟いた。凄く辛そうに何かの感情を封じている。医者であったアップルさんは、彼の苦悩に一部共感したのだろう。だが小五郎さんに彼の声は聞こえていない。
「お嬢さん、あんたには分からないよ」
小五郎さんはポケットから折りたたみ式のナイフを取り出すと、切っ先を私へ向けた。思わず彼から後ずさる。先程までの空虚な表情から一転、悪意と怒りが迸っていた。
「出ていけ。俺の病院から出て行け! あんたも、看護師も、息子も、孫も、親戚も、クライエントも全員! 出ていきやがれ!」
彼がナイフを横へはらう。あと一歩遅ければ私の喉はかっきられていた。彼の罵声に追い立てられるようにフェンスの外へ飛び出す。振り返った一瞬、ニカさんが私へ手を振っているのが見えた。
「さようなら」
ニカさんの口が〝別れの五文字〟を形作った直後、焼け落ちた瓦礫の塊が、小五郎さんを下敷きにした。
おそらく私は悲鳴を上げたのだろう。記憶が朧気なのは、足がもつれて横転、側頭部を強打したからだ。視界がチカチカと点滅し、頭と鼻から温い液体が垂れるのを感じた。
――血……私の血……だ。
頭部に氷塊をあてられたような感覚だった。
手足の温かみと感触が消えていく。
「吉楽!」
雷鳴の轟きと、アップルさんが私へ呼びかけたのは同時だった。
――初めて会った時みたい。
幼い頃の事故が鮮血とともに蘇る。
意識が遠くなり、まぶたが急に重くなった。
――もしもここで死んでしまったら、私は誰かの守護者になるのだろうか。
雷鳴が遠く小さくなっていく。
私は意識を保つことを止め、安らいだ気持ちで目を閉じた。
【つづく】