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第31話 火柱と人柱

「おまえ、どこからここに入ってきた?」


 前理事長の小五郎さんは、低いしわがれ声を唸らせながら訊ねた。まるで悪魔に取り憑かれたような険しく獰猛な相貌だ。


「地下……から」

「地下? 一階が火の海なのに、地下から?」

「か……階段で地下へ。水道施設から、外に」

「ああ、俺がぶっ壊してプールにしておいた場所だな! とするとあんたは、地下のプールを泳いで? そりゃ傑作だ」


 彼は泣きながら笑っていた。


「こんな病院、壊れてしまえばいいんだ。燃えて、水浸しになってしまえば……」


 小五郎さんは立ち上がると、燃えさかる建物を信仰の対象のように仰いで涙した。


 ――狂っている。この人は狂っているんだ。


「小さな病院で良かったのに」


 彼は急に脱力し、泥濘に膝をつく。泥水が真っ赤な泣きっ面に散った。


「馬鹿だよ。気が大きくなって、でかいホテル買い取って改造して……息子はさらに大きくしようとしている。俺そっくりの馬鹿だ! なぁ、あんたもそう思うだろう?」


 彼の問いに私は肯定も否定もできなかった。彼は「馬鹿だ、クズだ」と散々自分を罵っている。


 彼はウイスキーの酒瓶をつかむと、底に残った最後の一滴まで飲み干した。紅色の炎に照らされた彼の顔が、鉄火のような熱を帯びる。この人を支配する底知れない絶望の前では、どんな言の葉も燃えて塵となってしまう。


「建物を改築する度に、死人が出た。患者が庭に飛び降りて……」


 火事の熱気に晒されていた私を悪寒が襲う。気持ちの良いと思っていたあの庭で、飛び降り自殺があったなんて。


「一人じゃないんだよ」


 小五郎さんの後ろで、ニカさんが泣きながら呟いた。


「なんで俺の病院で死にやがる。外で死ねばいいのに」


 小五郎さんは歯をギシギシと噛み鳴らす。


「あんたの病院だから死んだのよ。まだ分からないの」


 幽霊のニカさんは冷たく彼をあしらった。


「ごめんね、愚かな亭主で。ごめんなさい」


 ニカさんは小五郎さんの肩に手を置き、私へ頭を下げた。


「ニカまで死んじまった……」

「そうね。私はこの病院の人柱だったのだと思うわ」

「人柱?」


 私が訊ねると、ニカさんは肯き、小五郎さんは不思議そうに眉を顰めた。


「建物を新築、増築する時には、人柱ひとばしらが立つと昔から言われているんだよ。だから地鎮祭やお祓いや祈祷をするのさ。この人は何もしなかった……。そんなの信じない人だったんだ」


 ニカさんは苦々しげに小五郎さんを見下ろした。


「私が死んだのは、はじめの増築が終わった時だったよ」


 ニカさんはそう言って、燃えさかる建物を見上げた。


「燃えていくねぇ、全部。案外綺麗だねぇ」


 幽霊は涙を流しながら、微笑を湛えた。


「さあ、お逃げ。その扉から。吉楽さんの鍵で開くはずだよ」


 ニカさんはフェンスのすみに設けられた扉を指差す。


「でも、小五郎さんは……」

「もうこの人は、一歩も動けないよ」


 小五郎さんは泥濘の真ん中でうずくまり、子供のように泣きじゃくっていた。上階から燃えさかる瓦礫があとからあとから降ってくる。そのうちの一つが直撃したら、彼は即死してしまう。


「さあ、早くここを出るんだ、早く!」


 ニカさんが扉を指差す。私は鍵で錠を解き、扉を大きく開け放つと。


「吉楽!」


 アップルさんが止める声を振り切り、座り込む小五郎さんへ屈んだ。


「ここにいたら……危険ですよ」

「死ぬつもりでここにいるんだよ、私は」


 小五郎さんは赤く血走った目で私を捉えた。


 ――まるで、何かに取り憑かれているみたい。


「死ぬつもりの人を助けていたら、自分が死にたくなった。こんな気持ち……分かっちゃいけないんだ」


「俺には分かるよ」


 アップルさんが私の隣で小さく呟いた。凄く辛そうに何かの感情を封じている。医者であったアップルさんは、彼の苦悩に一部共感したのだろう。だが小五郎さんに彼の声は聞こえていない。


「お嬢さん、あんたには分からないよ」


 小五郎さんはポケットから折りたたみ式のナイフを取り出すと、切っ先を私へ向けた。思わず彼から後ずさる。先程までの空虚な表情から一転、悪意と怒りが迸っていた。


「出ていけ。俺の病院から出て行け! あんたも、看護師も、息子も、孫も、親戚も、クライエントも全員! 出ていきやがれ!」


 彼がナイフを横へはらう。あと一歩遅ければ私の喉はかっきられていた。彼の罵声に追い立てられるようにフェンスの外へ飛び出す。振り返った一瞬、ニカさんが私へ手を振っているのが見えた。


「さようなら」


 ニカさんの口が〝別れの五文字〟を形作った直後、焼け落ちた瓦礫の塊が、小五郎さんを下敷きにした。


 おそらく私は悲鳴を上げたのだろう。記憶が朧気なのは、足がもつれて横転、側頭部を強打したからだ。視界がチカチカと点滅し、頭と鼻から温い液体が垂れるのを感じた。


 ――血……私の血……だ。


 頭部に氷塊をあてられたような感覚だった。

 手足の温かみと感触が消えていく。


「吉楽!」


 雷鳴の轟きと、アップルさんが私へ呼びかけたのは同時だった。


 ――初めて会った時みたい。


 幼い頃の事故が鮮血とともに蘇る。

 意識が遠くなり、まぶたが急に重くなった。


 ――もしもここで死んでしまったら、私は誰かの守護者になるのだろうか。


 雷鳴が遠く小さくなっていく。

 私は意識を保つことを止め、安らいだ気持ちで目を閉じた。


【つづく】


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