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第30話 〝 私 〟という異物

 扉を開けると、ザブンッと音がした。部屋の内側にたまっていた水が私の足首にふりかかる。廊下の通路はたちまち水浸しになった。室内は水が張っており、足首が浸かるほどの量だ。


「み、水漏れ? どうして?」


 部屋の明かりを点けようとしたが、スイッチがどこにあるか分からない。暗闇に目が慣れるのを待つと、部屋の様相が段々と明らかになってきた。


 メモリのついた、タンクのような大きな機械とパイプがあり、天井を突き抜けている。これは一体なんだろう。パイプの一カ所から激しい水流が噴き出していた。


「病院の水道装置だよ」

「水道装置、地下にあったの? この水漏れは火事の影響?」

「いや、違う。人為的な傷だ」


 水漏れしている箇所を近付いてよく見る。金具がかすったような擦り傷があった。足元で何かがコンッとぶつかる。


「ひっ、おの!」


 斧が床に沈んでいる。これで水道施設を破壊したのは間違い無い。


「吉楽。このまま部屋の奥へ。あそこに小さな扉があるだろう」

「扉?」

「ほら、あそこだよ」


 扉の硝子窓が一瞬光った。ゴロゴロと獣のうなり声のような雷鳴も。外に通じている扉に違いない。


 私は足元に気をつけながら、パイプジャングルを抜け、ようやく扉の前に辿り着いた。あちこち水漏れしていたので、全身ずぶ濡れだ。


 服のポケットから鍵を出し、扉を開ける。苔むした階段に、室内の水がドッと流れ出た。このまま水が止まらなければ階段が水没してしまう。柵も手すりもない急な階段を上ると、雨降りしきる地上に出た。


「本当に地下から外に出られたわ。ええと、ここは……」


 フェンスで囲まれた病院の裏庭だ。第二のゴミ置き場と化しているその空間には、処理に困った病院の器具や備品が山と積まれていた。草は生い茂り、泥濘ぬかるみが広がっている。


「火が……あんなところまで」


 一階の火事は三階へと達していた。建物の窓という窓から煙がたちのぼっている。全員の避難はできたのだろうか。建物の反対側から人のざわめきが聞こえる。


「吉楽! 上! あぶない!」

「えっ……きゃあ!」


 アップルさんが私の背中を押した。トンッと前につんのめった私は泥水の中に膝をつく。ガシャアアンとけたたましい音が鳴り響き、燃え落ちた窓枠が私の背後で砕けている。


「怪我はないか、吉楽」

「う、うん。ありがとう、アップルさん」

「突き飛ばして御免。咄嗟に触れただけなんだ」

「いいえ。アップルさんのポルターガイストって、力が強いのね」


 私は膝についた泥をパッパッと払った。上階からの落下物は増えており、火花がチリチリと音を立てながら降ってくる。


「早くフェンスの外へ出よう」

「う、うん」


 フェンスで囲まれたスペースの隅っこに、金網の扉があった。そちらへ近付こうとした私は、思わず足を止めた。扉のすぐそば、今はもう使わないはずの焼却炉から煙が棚引いており、誰かが膝を抱えて座りこんでいたからだ。


「うっ……うっ……ひっく」


 嗚咽を上げる彼の足元には、ウイスキーの酒瓶が一つ置かれていた。ほとんど空で、残り一口分くらいしかない。指先も耳も顔も真っ赤だった。


 ――赤い人。


 赤ら顔は涙に濡れていた。


「馬鹿だね。あんたは本当に馬鹿だ。こんなことして何になるって言うんだい。ああ……あんたに私の声が聞こえていれば」


 男のそばで、その女性は嘆き、透明な涙をこぼした。彼女がいくら男に語りかけても、彼はただ泣くばかりで、私の存在にも気付いていない。すると女性の方が私に気付いて、ぎょっと目を剥いた。


「波久礼さん。どうしてここに……」


 間違い無くニカさんだ。

 隣で泣きじゃくる男性は、ニカさんと同じくらいの老年だ。


「ニカさん。その方は……」

「ニカ?」


 男性が急に顔を上げた。私へ振り向いた彼の表情から、数秒の後に悲哀の色が消え、涙が乾く。フェンスに囲まれた病院の裏庭は、彼の心の領域そのものだったのだ。そこへ〝私〟という異物が迷い込んだことへ不快感が滲み出た。


「誰だ、おまえは」


 眼鏡をかけていても、彼は目が悪いらしく、しきりにまばたきを繰り返した。


「貴方……美濃みの 小五郎こごろうさん?」


 前理事長の写真を初めて見たのはインターネットだった。就職前に病院のことを調べている時に、偶然検索にヒットしたのだ。


 就職後は病院の中で「前理事長の悪口」を聞いても「また病院を出入りしていた」と噂が流れてきても、出会うことが無かった。彼と真正面で顔を合わせたのは初めてだ。あまりの赤ら顔で、インターネットに掲載されていた写真と同一人物だとすぐには分からなかった。焼却炉の前に座りこみ、薄ら笑う前理事長の姿に狂気を感じる。


 ――この人が本当に、病院に火をつけたんだ。


【つづく】


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