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第29話 脱出

「火事! 火事です!」


 女性の切羽詰まった声が館内に響き渡った。


「一階物置にて火事が発生。従業員は避難誘導を! 繰り返します。一階にて火事です!」


 私と薬室長は無言で顔を見合わせた。


 ――本当に火事が起こった。


「北口通路、北階段を避け、速やかに屋外へ避難してください。看護師は直ちに全病棟の出入り口を開放してください。一階で火事……ジジジ、じ、ガッ………ヒナン………」


 放送が突然途絶える。放送室に火が回ったか、もしくは電気系統に障害が生じたのだろう。私と薬室長がロッカールームを出ると、廊下にいた他の薬剤師たちが駆け寄ってきた。


「火事だそうですよ、火事!」

「聞いたわよ。南口へ行くわよ! 全員ついてきて」


 薬室長の後について、南階段へ向かう。四階まではすいすいと下れたが、三階につくと人がどっと増した。


 自力では動けない方々の避難が優先されているが、隙間を張って出ていこうとする人々が多く、混雑を極めていた。今にも将棋崩れが起きそうなすし詰め状態だ。薬室長たちは、そこに無理矢理身体を押し込んでいく。担架をおみこしと勘違いして「わっしょい、わっしょい」と歌う人もいれば、怒号におののき、うずくまって子供のように大泣きするおばあさんもいた。


「ここは危険だ、吉楽。この階段を使っちゃいけない」

「そうね」


 私は三階の廊下へ出た。

 東口の階段へ走ったがここも混雑している。


「残るは西階段ね」


 人の流れに逆らって廊下を全力疾走する。

 西階段は不気味なくらい無人だ。館内放送が「北階段を避けるように」言ったからだろう。北と西の階段は比較的近い場所にある。三階から一階へ駆け下りたが。


「あ、熱い!」


 西口付近は既に火の海だ。右にも左にも逃げられなかった。


「吉楽、地下だ!」

「へ? 地下ぁ? アップルさん、正気? けほっ、こほっ」

「地下から地上に出るルートがある。タツミさんが教えてくれたんだ」

「そ、それって本当?」

「本当だよ。水の神様が言っているんだから」


 ――水の神様?


「とにかく、早く!」

「分かったわ」


 私とアップルさんは地下へ駆け下りた。


「外へ通じるルートってどこ?」

「鍵で扉を開けて。地下通路へ入るんだ!」


 鍵を回す手が震える。この前、ゲンジさんの霊現象で閉じ込められた扉は、いとも簡単に開いた。建物の真上が燃えているというのに、地下が無事というのはなんとも不思議な感覚だ。けれども炎が床を燃やせば、天井が焼け落ちるかもしれない。一刻を争う事態だ。


「右だ! 右の部屋を開けて!」

「この部屋……一体なに?」


 関係者以外立入禁止、とプレートのついた鉄扉だ。以前から何の部屋なのだろうとは思っていた。


「この鍵で開くの?」

「開く! 絶対!」

「分かった!」


 鍵を差し入れて回す。扉を開けると、ザブンッと音がして、部屋の内側にたまっていた水が私の足首にふりかかった。


【つづく】


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