「波久礼さん!」
薬室長は荷物をまとめる私の右手をとって、ぎゅっと握った。
「さっきは本当に悪かったわ! 貴女の気持ちも鑑みずに、失礼なことを言って本当にごめんなさい」
薬室長は左手で、私の肩をそっと撫でた。目に涙を浮かべ、私の手や肩に触れながら、上ずった声で謝罪を繰り返す。
――ボディータッチしながら泣いて引き留める? 気持ち悪い人。
人を説得したい時、ほだしたい時には、適度なボディータッチが効果的といわれている。カルト勧誘者がよく、対象の肩に手を置き、背中をそっと撫でながら話すのは、人間の心理をうまく利用した手法である。ただ触れれば良いというわけではなく、これにも技量がいる。
「波久礼さんに厳しかったのは、村井さんが産後いなくなった後、貴女が辛い思いをしないようにと思ってのことだったの」
今の言葉は裏を返せば「調剤助手の貴女がいなくなったら、薬剤師の仕事が増える。行くなって言ってんだろ」の略ですね。
ピカッと雷光がロッカー室の窓を照らしたその時、天井の照明がチカチカと点滅を始めた。
「あ、あらやだ、停電? きゃっ、痛っ」
薬室長は急に私から手を引っ込めた。
「貴女はどれだけ吉楽の心を踏みにじれば気が済むんだ」
アップルさんの声は薬室長には聞こえない。なぜ彼女の手が急に痛んだのか。見えている私にだけは分かる。アップルさんが、私にべたべた触れていた薬室長の手の甲をつまんだからだ。
「口先だけの謝罪なんていらない。あんたは最低の医療従事者だ。吉楽から離れろ。吉楽に触るな、気持ち悪い!」
薬室長の右肩をトンッと押すアップルさん。薬室長は後ろへ後ずさり、不思議そうに押された肩を見つめた。
――ポルターガイストだ。
薬室長は点滅の止まらない照明を見て、肩をぶるっと震わせた。彼女の視線の先に、怖い顔をしたアップルさんがいる。幽霊に睨まれているのを、薬室長は肌で感じ取ったらしい。
「吉楽。こいつの語ることに耳を傾けるな! おまえのことを都合の良い駒にしか思ってないんだから!」
――分かっている。心配しなくて大丈夫よ、アップルさん。
これでも心理士だ。大抵のことなら、相手が何を考えているかすぐに分かる。分かりすぎてしまうから辛い。
「薬室長のお気持ちは分かりました。けれどもご存じかもしれませんが、私は心理士です」
薬室長は私から一歩後ずさった。彼女は私を下に見ていたが、今この瞬間だけは恐怖を感じたらしい。
「縁あって薬室で勤めさせていただきましたが、やはり薬学の知識に乏しいと感じる場面が多々ありました。私には助手は務まりません。ご期待に添えることができずに申し訳ない限りです」
ここはあえて腰を低く低く語るのがコツである。
「貴女は十分に頑張っていたわ。期待通りなんて初めから無理よ。誰だってはじめは不慣れなんですから」
――その言葉、もっと早くに聞きたかったわ。この大嘘吐き。
「不慣れ過ぎたようですね、私は」
自嘲と皮肉をぶつけると、薬室長の顔色が途端に険しくなった。
「体調が優れないので、本日は早退させていただきます」
ここには二度と戻らない。あらゆる手を尽くしても、私は二度とこの病院の敷居を跨がないと心に決めたその時だった。院内スピーカーから大きなサイレンが鳴り始めたのである。
「火事! 火事です!」
女性の切羽詰まった声が館内に響き渡った。
【つづく】