辞めようと思う時ほど、悪魔が先行きの不安を私の耳元で囁く。
帰ろうと思う時ほど、責任感が邪魔して帰ることができない。
アップルさんは午前中ずっと「いつ帰るんだ? 今だろう」と私の側で唱え続けた。目の前にある仕事を全部放棄して、帰宅することなど出来なかったのだ。
問屋への発注、薬袋の整理、分包薬のホチキス留め。「これをやれ、あれをやれ」と薬剤師から次々に注文があったが、助手としても事務員としても、与えられた仕事を従順にこなしたと自負する。五時間という短いようで長い時間に全てを終わらせた自分は、十分この場所に貢献した。
――さあ、帰ろう。
薬室長のところへ行き「帰らせて欲しい」と言おうとしたその時だった。窓が光り、遠くの空から雷鳴が聞こえた。段々と近付いてきて途端に大雨となる。早退する気満々だった私は、突然のゲリラ豪雨で足止めされてしまった。
――アップルさんの忠告を聞くべきだった。
「だから今日は休めって言ったのに、こうなったらもう……」
隣でアップルさんが心配そうに窓の外を見つめている。
「波久礼さん、ご飯食べないの?」
別の薬剤師が私へ声をかけた。
「あ……はい。食欲がなくて」
「食べなきゃ、お薬飲めないでしょ? 昼休みのうちに、薬をもらいにいかなきゃ」
――この大雨の中をか! 冗談じゃない。
同じ薬がこの部屋にもあるのに、外部の調剤へ「行け」「早く」と急かす彼らの無神経さに呆れた。
――これは大人のイジメなんだ。
子供の時の嫌な記憶が蘇る。他者の理不尽な加害行動に何度気を病んだか分からない。どんなに勉強しても、どこへ行っても、似たような人々は大勢いる。
「濡れたくないので、雨が止んでからもらいにいこうかな、と」
そう言ったら、薬室長がくすっと笑った。
「傘を差して行けばいいじゃない。まぁ、どうせ大した不調じゃなかったんでしょ。良かったね、すぐに治って。とても元気そうよ」
薬室がシーンとした。笑った薬剤師が一人、怪訝な顔をした薬剤師が一人。
今の言い方は、仮にも薬室を任された人間が発する言葉としては不適切だろう。
「休まれている村井さんの分まで、皆さんのお力になろうと、私は精一杯努めました」
薬室長の眉がぴくりと吊り上がる。
「私が
薬室長の目を真っ直ぐに見据える。
「辞めさせていただきます。お世話になりました」
私は机の引き出しから自分の私物を取り出した。筆記用具とファイル、数えるほどしか無かったけれど。それらを一つの布袋に詰め、ロッカールームへ行く。口頭では「辞める」と告げたものの、退職届を早急に提出せねばなるまい。これからの段取りを考えていると、バタバタと雨のように騒がしい足音が聞こえ、薬室長が部屋に飛び込んできた。
「波久礼さん!」
薬室長は荷物をまとめる私の右手をとって、ぎゅっと握った。
【つづく】