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第26話 見殺しにできない

 ゴミ置き場に捨てられたあの本は、序章だったのだ。


「前理事長は病院に放火するつもりなんだ」


 アップルさんによると、情報源は幽霊ニカさんだという。

 彼女は小五郎の亡き妻。どの幽霊よりも信憑性の高い情報だ。


「この真夏にガソリンタンクを何個も用意して、夜中に少しずつ病院へ運び込んでいる。過去の放火記事を読み漁って、念入りに準備を整えているんだぞ。それなのに……なんで出勤するんだよ。――あっ、吉楽!」


 私は従業員入口から中へ。階段一つのぼるだけで冷や汗がふき出した。アップルさんの言う通り放火が起こったら、六階にいる私は逃げられなくなる。


 ――他の人を見殺しに? それはできない。生きている私にできることがあるはず。


 六階の職場に着くと、薬室長がいた。


「おはようございます」

「おはよう。具合どう? あら、本当に顔色が悪いわね」


 薬室長が私を心配するなんて驚いた。


「すぐに診てもらいなさい。一階の第一診療室で美濃先生が待っているわ」

「へっ、み、美濃先生?」

「そう。理事長が診てくれるそうよ」


 ――放火を計画している人間の息子に? 美濃みの 敦史あつしに?


「早く行ってきなさい」

「は、はい。お心遣いに感謝します」

「そうね。その言葉を一番先に言うべきだったわね。理事長にも御礼を言いなさいよ。忙しいのに、わざわざ貴女のために時間を割いてくださったんだから」


 親切の押し売りとはこのことか。こちらは「診てください」なんて頼んでいないのに、勝手に恩を売られて、逆に感謝の念も起こらない。「その言葉を一番先に言うべき」って何様のつもりだ。


 荷物を六階に置いて一階へ。第一診療室には明かりが点っており、ノックをすると「どうぞ」と部屋の中から声が聞こえた。


「波久礼さんだね。おはよう」


 現理事長、美濃みの 敦史あつし。黒髪に眼鏡、白衣を纏った若い男性だ。とても穏健そうな見た目だが、父親の理事長が反対した精神医療を取り入れたことで、親子仲は悪いという。


「具合が悪いそうですね。波久礼さんはこの病院に勤めてどれくらいになりますか」

「五ヶ月です」

「疲れが出たのでしょうね。こちらにおかけください」

「は、はい」


 理事長の診察を受けるのは初めてだけれど、見かけはとても優しそうな先生だ。朝っぱらからの診察だというのに嫌な顔一つしない。


 けれども私の心は大荒れの海を前に、横殴りの雨に打たれているような心地だ。なぜならば。

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「なんで今日出勤したんだい?」


 理事長の背後に仁王立ちしている、守護霊ニカさんの顔が怖い。まるで鬼のような形相だった。


 ――ほ、本当に理事長とは親子なんだ。確かに……ちょっと顔が似ているわ。


「波久礼さん、どうされました?」

「あ、いえ。すみません。なんだかぼーっとしてしまって」

「夏バテかな? 朝ご飯は食べた?」

「いいえ。朝から胃が痛くて喉を通らなかったので」


 私が問診されている横で。


「どうして連れてきたんだい? 今日は休ませるように言ったじゃないか。守護霊失格だよ、アップルさん!」


「吉楽が言うことを聞いてくれなかったんですよ。おまけにここの薬室長が、ここで診察するからと勝手に話を進めてしまって」


「それは知ってる! あの女、本当に余計なことをしてくれたもんだ。それでも断れば良かったじゃないか。今日は絶対来てはいけない日なのに!」


 ニカさんとアップルさんの、幽霊大喧嘩だ。


「来てしまったものは仕方無い。昼前に早退しなさい!」

「吉楽。薬だけもらって、すぐに帰宅しよう!」

「水分補給をこまめにとりましょう。胃薬を出しておきますね」


 ニカさん、アップルさん、理事長から同時に助言をいただいた。聖徳太子にはなれないけれど、三人分ならなんとか聞き取ることができた。


「は、はい、ありがとうございます」


 診察台横の小型プリンターから、B5サイズの処方箋が出てくる。


「薬室で処方してもらいなさい。とにかく無理はしないこと」

「はい。お手数をおかけして申し訳ございません。本日はありがとうございました」

「どういたしまして、お大事に」


 私は診察室を出る。えっちらおっちら階段をのぼって六階へ向かう。薬室長以外の薬剤師三名も既に出勤しており、村井さんは聞いていたとおり休みのようだ。


「診察どうだった? 理事長、良い人だったでしょ?」

「とても丁寧でお優しい方でした。ありがとうございます」


 薬室長は気難しげな表情を、ほんの一瞬和らげた。


「あの、処方箋をいただいてきたのですが。お時間のある時に調剤をお願いできますか」


 すると薬室長はたちまち不機嫌そうに顔をしかめた。


「外の調剤薬局に持っていくのが礼儀でしょ? 私たち、忙しいのよ。病院の近くに調剤薬局があるから、昼休みに行けばいいわ。診察を受けた職員は皆そうするのよ。貴女、非常識ね」


 理事長が「薬室で処方してもらいなさい」と言ったから、その通りにしただけだ。それに今朝の電話で薬室長は「私が薬を出す」と言った。それで非常識呼ばわりはあんまりではないか。口先まで出かけた言葉を、ぐっと堪える。


「診療代は給料から天引されるから安心してね。診療明細はあとで一階の事務員が持ってくると思うわ」


 私の給料は、職場に吸い上げられるのか。猿でも出来そうな、あんな問診だけで? 処方箋を書いてもらっただけで?


「波久礼さん。薬袋の準備をお願い。薬情をすぐに印刷して」

「……」

「ほら、ぼーっとしてないで。ただでさえ村井さんが休んでいるんだから、今日は貴女しかいないのよ。動いて、動いて」


 他の薬剤師は、調剤台のそばで分包薬を数えながら楽しそうに談笑している。


「私たち、忙しいのよ。波久礼さんに頑張ってもらわないと」


 あんたは暇でしょ、と遠回しに言われているのだ、私は。


 ――燃えるなら燃えちまえ。


 焼き尽くしてしまえ、と醜いことを心から願ってしまった。


【つづく】


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