私は薬室長に電話をかけた。
数回のコールの後、薬室長が「はい」と電話に出た。
「おはようございます。朝早くすみません」
「要件は?」
私は貴女の部下だけど「おはよう」くらい言えんのかい。もういい、今日は休んでやる。
「申し訳ないのですが、朝から体調が優れなくて」
「熱は?」
「熱は……ないですけど。風邪気味みたいで。悪寒がとまらないし、頭痛がして、身体が気怠いんです」
「ただの夏バテじゃないの?」
「自己判断なので、正確なことは言えません。なので大事を取らせていただきたいな、と」
「休みを? 困るなぁ、今日は村井さん、悪阻がひどくてお休みなのよ。貴女だけでも出てこられない?」
またあの人は休みか。でも私の体調はお構いなしってわけ。幽霊にすすめられて「ずる休み」をすることの罪悪感は私の心から吹き飛んだ。私が本当に体調が悪い時にも、同じようにごり押しをされるし、心配もされない。何も言わずに沈黙を以て、抵抗を表した。
「そんなに具合が悪いなら、うちで診るわ」
「え?」
「多少の体調不良なら、うちの病院ではしょっちゅうだし。薬なら私が調剤してあげる。先生に診療の予約をとっておくわね」
「えっ、あの、ちょっ」
「それじゃ、待っているわよ」
一方的に電話が切られた。こちらはなんの了承もしていないのに。
「どうした? 猫のように大人しくしていたよ、俺」
「うちで診察するから出勤しろ、って……」
「はあぁぁ?」
「これは親切なの? ありがた迷惑なの? どっち?」
「後者に決まってんだろう!」
――お……おお。アップルさんが烈火の如く怒っている。
「体調悪いと言っている人間に、診てあげるから仕事に出てこいって、俺が医者だった時には絶対に言わなかったね。むしろ往診に行った!」
「あ、そっか。昔は往診が結構あったのよね」
「動けない人間に、動けるだろ? 出てこい、と言うも同然だ。診療代と薬代はタダじゃないぞ。吉楽の給料を職場に払うようなものじゃないか。それもあんなヤブ医者に!」
「やっぱりヤブなの? うちの病院の医者」
「大ヤブだよ!」
アップルさんは「フンッ」と鼻をならした。
「仕様がない……行くか」
「行っちゃダメだ、吉楽。どうしてそんなに我慢するんだよ」
「私まだ新人で、有給がついていないし。給料一日分を無駄にはできないわ」
「その給料一日分で死んでしまったらどうするんだ」
「死ぬ?」
「そうだよ。今日行ったら、吉楽は死んでしまうかもしれない」
アップルさんの目には涙が溜まっていた。
「貴方は私の守護霊だけど……他者の不幸に背を向けて、私だけを守る人?」
アップルさんは長い間のあと「いいえ」と首を横に振った。
「私が死んでしまうかもしれないなら、他の人は? 自分が犠牲になりたいなんて思わないけど……アップルさんがダメでも、生きている私なら止められるものがあるんじゃない? 教えてちょうだい。赤い人とはなんの比喩なの?」
訊ねるのはこれを最後にしよう。彼がそれでも答えないのなら、私は薬室長に再度電話をして「家から動くのも辛い」とずる休みをごり押しする。彼が「赤い人」の真実を教えてくれて、生者として人を救うことができるなら動きたいと考えた。
「火事だよ」
「えっ」
「今日、放火を計画している人物がいるんだ」
――放火?
これまでの忠告が全て繋がっていく。赤い人、逃げられない、エレベータを使うな。これはまさか、全て……。
「誰が火を点けようとしているの?」
両手の震えを悟られないよう必死に隠しながらアップルさんに訊ねる。恐怖が私の全身を支配していた。
「前の理事長だよ」
ゴミ置き場に捨て置かれた〝例の本〟が蘇る。
――前理事長。
【つづく】