「お湯を張る場所というのはなぁ。風水に最も気をつけにゃならん場所なんじゃよ」
声のした方を振り返ると、ゴミ槽の縁にタツミさんが腰を下ろしていた。
「タツミさん。どうしてここに? 来たくないと
アップルさんが訊ねる。ここへは来たくない? なぜ?
「来たくないし、見たくないよ。でも最後にね。本当に最後になりそうだからねぇ」
タツミさんは黄ばんだ歯でニカッと笑った。
「ここがホテルだった時には、お客さんがドブンと浸かって、気持ちよさそうに旅の疲れを取っていてさぁ。元々はここに壁があってねぇ」
タツミさんの指差した先、確かに壁があったような溝を確認できた。
「薄い壁で女風呂と男風呂が分かれていたから、ちょこ~と、いやまぁ時々、のぞいてみたりしたよ。幽体の特権ってやつさぁ」
――やっぱり幽霊も女風呂をのぞくのね。
女性の私はなんと言ってよいやらだ。
「人が気持ちよさそうにお湯に浸かる姿を見るのが好きだった。なんだかこっちまで嬉しくてね。でも……お湯を張る場所に、将来ハエがたかることになろうとは」
燃えるゴミ置き場は、小バエが飛び交っていた。
「タツミさんも、ニカさんと同じで、ここがホテルだった時代を知る人なのですね」
「そうさ。長いこと見てきた。気の遠くなるような時間。わしはここから離れられなかった。でもそろそろ終焉だろうねぇ」
「終焉? どういうことです?」
「病院がひっくり返るのさ。わたしはここで消えてしまえても……ニカさんは可哀想な人だよ。きっと赤い人が動き出しても、あの人から離れられない」
「あの人って? 教えてください」
タツミさんは「そこの」と言って、浴槽から離れた棚を指差した。
「そこは元脱衣所だったんだ。棚の中に、今は本が入っている。捨てる古書や医療誌がね。見てごらん」
私は棚の中をのぞいた。分厚い本が一冊目に留まる。
【精神科の光と闇 トラウマを抱える患者たち 著:
「美濃 小五郎。前理事長の著書ですね」
「おや、お嬢さんは知っていたのかい」
「は、はい。前理事長のことは、時々……耳に入ってきますので」
薬室長や看護師が【前理事長】の悪口を言うのを何度も聞いた。
「未だに殿様気取りで病院を出入りしている」
「また小五郎さんが来ていたわよ」
などなど。どうやら前理事長は嫌われているようだ。
「前理事長と現理事長は血の繋がった親子だが、仲が悪いという噂だろう? 残念ながら本当だ。だから息子は、父親の本をそこに放り込んだのさ」
――父親の本を、病院のゴミ捨て場に?
このゴミ捨て場には様々な部署の職員が出入りする。人目の触れる場所に堂々と、父親の本を捨てるなんて。現理事長の神経を疑ってしまう。
「捨てられたその本にも書かれていることだが、父親の小五郎は、精神科のあり方に疑問を抱いていたんだ。そして息子は父親が疑問を呈したものを全部取り入れた」
「全部……ですか?」
「精神科は、病院ごとに推奨する治療が異なる。頭に電気を通すことに賛成派の医者もいれば、その反対もいる。賛成派は極めて安全な治療だと言い、反対派は死亡事故がゼロではなく患者に電気ショックのトラウマを与えると主張する」
タツミさんはすらすらと語った。まるで医者のような口ぶりで。
「お嬢さん。あんたはこの病院と水が合わないよ。そんな風に、ここを去ったナースを何人も見た。ニカさんもここに勤めていたナースだった」
「えっ」
「あの人は去ることができなかったんだ。なぜなら彼女は小五郎の奥さんだからね」
聞き間違いではないか。前理事長の妻がニカさん。けれども
「ニカさんは……前理事長……小五郎さんの守護霊なのですか?」
「いや、その本を捨てた息子、
――そんな……。ニカさんが現理事長の……守護霊だったなんて。
「でも……ほとんどそばにいないけどね。守護霊だが息子に失望しているよ」
ニカさんが時々、寂しげな面持ちをする理由が今ようやく分かった。
「何度も同じことを言うけど……お嬢さんは早いところ、この病院を出なさい。ニカさんもそれを強く望んでいるんだ。大丈夫、あんたには水の神様がついている。逃げ道がきっとあると信じるんだよ」
タツミさんはニカッと笑った。
彼の姿が目の前から消えてしまう。本当にあっという間だった。
「あれ? ここだけ濡れてる?」
タツミさんのいた場所は、そこだけ雨が降ったように、小さな水たまりができていた。
【つづく】