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第22話 クリスマスのプロポーズ

 人によって安寧の場所や事は異なる。


 青空の下で花を愛でることで心安らぐ人もいれば、花を生けることに魂を尽くす人もいる。音楽にしてもそうだ。


 私は昔から、教会音楽に惹かれていた。夢の中で目を開けると、煌びやかに飾られた教会の内陣に、十名の子供たちが左右に分かれて並んでいた。彼らの前に立つ司祭らしき男は、オルガンの音に合わせて指揮を執り始めた。


 O come, O come, Emmanuel,

 And ransom captive Israel,

 That mourns in lonely exile here,

 Until the Son of God appear.


 なんて美しいのだろう。哀愁漂う旋律の中には、救いをこいねがう祈りが込められていた。


 ――これはクリスマスね。


 会衆席には私だけでなく多くの人が腰掛けている。

 ふと隣を見ると、アップルさんが感極まった面持ちで歌声に聞き入っていた。


 ――美しいものを美しいと分かる人なのだわ。


 音楽に聞き入る、アップルさんの横顔は美しかった。


 ――心が本当に綺麗な人なのね。


 よそ見を止めて、再び子供たちへ視線を戻すと、急に隣の彼が私の左手に触れた。彼は鞄から小箱を取り出すと、私の薬指に銀の指輪をそっと差し入れた。ほんとうに数秒の出来事で、私はただただ吃驚。呆然と彼を見つめていた。


 アップルさんは悪戯っぽく笑うと、私の耳元に唇を寄せた。音楽がまだ続いているからだ。


「Will you marry me?」


 彼は初めから、答えが「Yes」以外無いと分かって、このような不意打ちをしかけてきたのだ。なんだかちょっと悔しい。自分の心が全部見透かされているようだ。


 返事をするかわりに一つ肯くと、彼は幸せそうに破顔して、私の左手を右手でからめとった。聖夜を祝う音楽が全て、私たちの為に奏でられていると錯覚してしまうのは、おこがましいだろうか。彼は何事も無かったかのように、すました顔でまた音楽に聴き入る振りをしている。


 曲の終わりに、私は彼の赤い頬にキスを落とした。熟れた果実のように紅潮した顔を見て、なんだかおかしくなった。彼は顔に出やすい初心な人なのだ。


 ――どうして教会音楽が好きなのか、分かった。


 思い出があるからだ。美しい歌声が響き渡る中、密かに誓いを交わした愛の光景を、私は私の中にいながら、どこか遠い世界の出来事のように眺めていた。天使の歌声が遠く小さくなっていく。


 ――幸せだったなぁ。


 別の私が、私の中で小さく呟いて、静かに涙した。



「波久礼さん。昼の休憩、終わりだよ」



 村井さんの声が聞こえたので、ハッとして身を起こす。


「あ、ごめんなさい。寝ちゃっていたみたいで」

「ん。いいよー。あのさぁ、悪いんだけどゴミ出しに行ってもらえないかな」

「は、はい。分かりました」


 薬室のゴミは多岐にわたる。病棟から返ってきた使用済みの注射器、分包時に出た錠剤の殻、シュレッダーにかけた書類のゴミ。私は荷台を持ってくると、ゴミを乗せてエレベータへ向かった。あまり使いたくないが、荷台いっぱいのゴミがあるので仕方ない。


 六階にやってきたゴンドラには誰も乗っていなかった。扉が閉まると、私は隣のアップルさんを見上げた。


「私さっき、前世の夢を見たわ」


 アップルさんが「えっ」と凄んだ。


「クリスマスの教会で、貴方にプロポーズされる夢よ」


 なんだかもう、話しているこっちが恥ずかしい。


「その先は分からないけど。婚約者のまま? 結婚したの?」

「結婚したよ」

「なんだ、貴方が〝恋人だった〟と言うから、生き別れたか、死に別れたのかと思ったわ。夫婦だったなら、何で〝恋人だった〟と言ったの?」

「だってさぁ、いきなり現れた幽霊に、俺は前世の君の夫だよ、なんて言われたら……普通は引かない? だから百歩譲って、恋人ということにしてみた」

「百歩? 一歩譲ったの間違いじゃないの?」

「俺には百歩だよ。恋人だと言っても信じてもらえなかったしさ。それで今はどう? 信じてくれる?」


 信じると口にしたら、私は彼のプロポーズに再度「Yes」と答えたことになってしまうのではないか。


「信じるけど、貴女が愛しているのは前世の私であって、今の私……吉楽きらではないでしょう?」

「魂が同じ存在なら、生まれ変わっても惹かれ合うよ」

「義務ではなく?」

「義務ではなく。好きだから君のそばにいる」


 ――好きだから君のそばに、か。


 一生に一度言われてみたいことだった。でも生者ではなく守護霊だ。嬉しいけれど、ちょっともの悲しい。


「あ……ありがと」


 ゴンドラが一階で辿り着く。

 ゴミをのせた荷台を、一階の奥のゴミ捨て場に押して行った。扉の鍵を開けると、暗い通路がさらに奥へ伸びていた。通路の先、天井の広い空間に出る。


 タイルづくりの槽がいくつもあり、燃えるゴミと燃えないゴミ、その他のモノを分けて入れることになっていた。大きなゴミ槽に近付き、よいしょと袋を抱えて奥の方へ投げ入れた。「投げるな」と張り紙がしてあるけれども、ゴミ槽は広いので、奥の方に詰めるためには中に入らなければならない。ゴミ袋から垂れた汁にアリや虫がたかっていた。


「あれっ。このゴミ槽、栓がしてある」


 鎖のついた丸いゴム製の栓だ。


「そういえばニカさんが、ここは元ホテルを改装したって話していたわ。まさかこのゴミ置き場……浴場だったの?」


 一階にこれだけの広さのゴミ置き場があることが以前から不思議だった。元の大浴槽をゴミ置き場にする。浴槽は底が深く作ってあるので、合理的な再利用かもしれないけれど……。



「お湯を張る場所というのはなぁ。風水に最も気をつけにゃならん場所なんじゃよ」



 声のした方を振り返ると、ゴミ槽の縁に、幽霊のタツミさんが腰を下ろしていた。


【つづく】


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