「ニカさんに聞いたよ。あんた、見えるし聞こえるんだって?」
おじいさんはにやりと黄ばんだ歯をのぞかせた。
「わしはタツミ。この前、わしが地下で言ったことも全部聞こえていたんだろ」
「ま、まぁ……はい。無視して、ごめんなさい」
「いや、賢明だよ。わしみたいなモンならまだしも、やばいのをひっつけた患者は多いしなぁ」
やばいものをひっつけた患者。一昔前なら「獣憑き」と疑われていただろう患者さんは多い。実際に「本当に精神病なのだろうか」と疑問に思う患者さんは少数だがいる。
「長いこと、この病院にいるから分かる。憎まれっ子は世に
「純粋? いいえ、私はそんな……」
「分かるんだよ。汚れ物ばっかり見ていたから」
タツミと名乗るこのおじいさんはクリーニングルームにいた。汚れ物が指すのは洗濯物ではなく、病院にいる人間のことだろう。
「あんたが、わしを見えるようになる前から、わしはあんたを見ていた。ずっと声をかけていたんだ」
「私になんとお声をかけていたんですか?」
「逃げろ、と言った。何度も何度も」
逃げろ、辞めろ。この言葉がこんなに苦痛に思う日が来るなんて。
「これ以上、どこへ逃げろと?」
両手をぎゅっと握りしめ、私は声を絞り出した。
「人の加害行動が怖くてたまらなかった。貴女の被害妄想だ、見方を変えれば、それはイジメではなく親愛の証だと説かれました」
学生時代の嫌な思い出が
「加害行動が理解できなくて私は逃げた。感情の機微を知りたくて心理学を勉強しました」
「それで……自分のことは何か理解できたのかい?」
タツミさんの問いに、私は首を横に振った。
「何も。相変わらず私は血が怖いし」
「どうして血が怖いの?」
ニカさんが訊ねた。
「昔、大けがをして。それ以来……ずっと。両手が自分の血で真っ赤になったのが忘れられないんです」
ニカさん、タツミさん、アップルさんが急に無言になる。辛気くさい話をしてしまった。
「赤いのは苦手かい?」
タツミさんが訊ねた。
「赤によりますね。林檎は……好きですけど」
アップルさんが嬉しそうに表情を綻ばせる。
「苺も好きですよ、苺も!」
アップルさんは不満そうに眉目を寄せた。
「そうかい。わたしは水色が好きだよ。透明なものもね」
タツミさんはそう言うと、すんすんと鼻を鳴らした。
「また臭い始めたね、水が。こうなったらもう無理だ」
「タツミさん。貴方でも無理なの?」
「ごめんね、ニカさん。わしは汚れてしまったからなぁ」
タツミさんは手も足も骨張っている。今にも倒れそうな彼を見て、何があったのかと逆に心配になった。汚れたってどういうこと。貴方でも無理なの、とニカさんが訊ねた理由を知りたい。
「赤い人が動き出したら、誰にも止められないよ。優しい人が真っ先に犠牲になる。悪魔はそういう人を選ぶからね」
タツミさんは私をじっと見つめた。
「逃げなさい、お嬢さん。くれぐれもエレベータを使ってはダメだよ、絶対に。それじゃ」
タツミさんとニカさんは、私とアップルさんの横を通り過ぎ、階下へと向かう。
「赤い人、って一体なに?」
アップルさんは視線を落としたまま答えない。
「これ以上は言えない。――吉楽には、一刻も早くこの病院を出て欲しいんだ」
アップルさんは私の両肩に手を置いた。
「先に何が起こるか知ったら、君はきっと泣くだろうから。どんな悪人の死でも」
「その〝赤い人〟が来たら、また死人が出るの?」
「そうだよ。なんとかしようと動いたけど、知恵者のニカさんも、守護者のタツミさんでも無理だったんだ。人の水が腐って、心が臭い始めたら、どんなに手を尽くしても助けきれない。既に〝赤い人〟は動き出したんだ」
守護霊の彼の口から「助けきれない」「救われない」という言葉が出たことが悲しかった。
「この病院は人を治そうとはしていない。空き病床がいつになってもゼロなのをおかしいと思わなかったかい?」
「毎日思っているわ」
「治らない人がいることで
退院したかと思ったら再入院の繰り返し。「三度目の入院です」と聞いても、それ以上でも特段驚かなくなった。再入院を「お得意様」と言うような病院商売に、私も嫌悪感を募らせていた。
「病院に居場所を見出している人が不幸な目に遭うのは嫌だわ。居心地の良い場所が精神科というのは……考えさせられるけれど」
人によっては病院の庇護下にあるのは幸いなのかもしれない。
「なんとかできないの? 生きている私にできることがあれば」
アップルさんは無言で首を横に振った。
【つづく】